行き来する思いつきを書き留め、つなぎ合わせる。モザイクが、一つずつの要素を組み合わせて全体を構成するのに対して、すでに雑多な集まりであるものが瞬間に入れ替わるような、目標とする全体像の持たない、変化の過程の記録である音楽を試してみる。これがファゴットのために書いた『連』の試みだった。
それまで使わなかった音を初めて使う瞬間の新鮮な感じがアクセントになり、一本の線のメリハリが生まれ、そこから不規則な区切りができる。
連歌や連句の「連」は、連続する違い、それは前後の時間につながる空間やひらける風景の違いと、それを見る、というより、その中に包まれる空間の違いを感じ取る体感の違いを経験する過程で、始まりも終わりもない、いつも途中、未完成で、半端な感覚であるはずだった。『連』の場合は、初めの小節に似た動きを使って、循環する時を暗示して曲を終えたが、それが良かったか。「終わり」という感じを作らないこともできたかもしれない。
初めて使う音を、できるだけ遠い時間に離して置くのは、12音技法の原則だった。柴田南雄はバルトークの分析で、確か「配分法」と呼んでいた。子供の頃、音楽雑誌で読んだ論文にあった。12音技法では、シェーンベルクよりはヨーゼフ=マティアス・ハウアーの方がそれに近かった。ということは、ゲーテの色彩論やバウハウスの色彩理論の系統かもしれない。
でも、それらはすべて近代ヨーロッパの考え方だろう。そうではなく、西アジアの「感じ方」、江戸の木目、考える論理ではない、感じる論理、鍵盤の上を這い回る指と掌の間の空気を含んだ空間から聞こえる響きの余韻を追って行く小径を見失わないように。