人との出会いを物語に残すということ

若松恵子

お正月の長い休みに、石井桃子著『幻の朱い実』をやっと読み終えることができた。上下2冊の長編小説。小説世界に入り込んで過ごす楽しさを久しぶりに味わった。『幻の朱い実』は、石井桃子が87歳の時に発表した大人向けの小説で、石井が若き日に出会った大切な友人である小里文子との思い出を物語にしたものだ。

石井桃子の評伝『ひみつの王国』のなかで、尾崎真理子のインタビューに答えて石井は語っている。「十年近く前、八十歳手前になって、当時病床にあった親友と約束したんです。(中略)私たちの“あの人”のことをそろそろ書きましょう、と。もうすぐ思い出話を語り合えなくなる、あの人のことを知る人がだれもいなくなってしまうから」と。

1994年、『幻の朱い実』刊行直後に読了し、魂が揺さぶられたという尾崎真理子は同書の中でこう書く。「この作品を書くことによって、八十七歳を迎えていた石井桃子は、じつに六十年以上にわたって封印してきた思いをみずから解放したのだと感じた。あの時代に生きた人間の思いを小説の中に可能な限り再現し、永遠のものとしたいーその切なる思いが行間から噴き出すようにあふれていた。女性への抑圧、戦争へ接近していく時代。背景にあるものは大きいが、引きつけられたのはむしろ、日常を彩る細部の方だったかもしれない。この細部の輝きを伝えない限りは死ねないーそんな決意すら伝わってきた。」と。この小説が持っている緊張感、大きな事件が起こるわけではないのに小説世界に引き込まれていく理由が尾崎のこの文章でわかった。

「日常を彩る細部の輝き」、確かにこの小説の魅力はそこにある。小里文子をモデルとした大津蕗子と石井自身をモデルとした村井明子が囲む食卓、そこに並ぶ料理、避暑のために出かけた千葉の漁村の風景、寒い結核療養所までがその細部の輝きによって心に残る風景となる。石井桃子の胸のなかにしか残っていないものを言葉によって再現し、永遠のものにしていく、彼女のその意志と力量に感動した。

なぜ、石井は小里文子にそんなにも魅かれたのか。小里文子について、尾崎真理子のインタビューに答えて石井はこう語っている。「蕗子というのは…、題名にも『幻』とつけたように、つまり、ぱぁーっとひとつの美しいものを自分の中に花咲かせることはできても、それを持続して次のところまでもっていく力がなかった。だけど、自分が蕗子の家の前へ行った時、思わず見とれて、こんな美しいものがふつうの町の中にあるのかと思うほど美しい烏瓜が、滝のようにして流れるようにあった。そういうものを一時でも手にして、手にしたいと思ったら手に入れずにはいられなかった、そんな一生を持とうとして持ち続けられなかった…。そのことを非常に哀惜する気持ち、そういうものを消えて行ってしまった人の中に見出して、惜しむという気持ちからだったんですよね、あの本を書いたのは」と。

ひとがその人自身もうまくわかっていない魅力を見いだして愛す。人間のそういう行為はすごいことだなと思う。そして、あれはどういうことだったのだろうという、経験として自分の中に残っているものを言葉にして、言葉という形にして永遠のものにしていく。人間のその行為もまたすごいことだなと改めて思った。『幻の朱い実』と石井桃子の評伝『ひみつの王国』を姉妹のように読んだ。尾崎真理子もまた、石井桃子の魅力の本質を見出し、愛し、永遠に残るものとして私たちに渡してくれたのだと思う。