3月末、11歳になった息子とふたりで桐生へ遊びに行った。群馬県桐生市、どんなところか、じつはまだ詳しく知っているわけではないのだが、行けば、親しく思っている人たちが待っていてくれる。
事の発端は、毎週火曜の夜にやっているFM桐生の番組「The Village Voice」で、数年前から聴いている、いわゆるコミュニティFMである。私がテキストを投稿したらすぐに読まれるので、近くで聴いていた息子が「自分も投稿したい!」と言い出し、なぜか「なぞなぞを出したい」となった。それ以来、毎週聴いてなぞなぞを投稿しなければならなくなり、私は火曜の夜に出かけられなくなり、外で仕事が出来なくなってしまった(それなら、と火曜を個人的な定休日と定めた)。
「ビレッジ・ボイス」は、桐生駅から徒歩数分の場所にあるJazz & Blues Bar Villageのオーナーでジャズ・シンガーの宮原美絵さんが中心となって、画家でピアニストの唐澤龍彦さん、ベーシストのキムラコウヘイさんが3人でやっている。以前、『るるるるん』という小説を書く3人組がつくっている本の座談会に私が出た際に、挿絵を描いていた唐澤さんとまず知り合った。それからどうやって親しくなったのかは、よく覚えていないのだが、私はその手の音楽を長年愛聴しているので、話が合ったのだろう。それ以上になぞなぞがウケたのかもしれない。ジャズの番組で、どうしてなぞなぞ? と考えてはいけない。意味はとくにない。もちろん小学生のこどもが出すというのでなければならない。
桐生行きの一番の目的は、Villageで晩ご飯を食べる、ということだったが、「The Village Voice」の常連リスナーの人たちに連絡していたら、ふやふや堂のサイトウナオミさんから「その夜は「ロジウラジオ」をやっているので、よかったら出ませんか?」と誘われた。
ふやふや堂は桐生市本町の旧早政織物工場の中にある本屋で、『アフリカ』をはじめアフリカキカクの本を少し置いてくださっている。そのお店にも行ってみたかったのだが、「ちょっと時間あるので、桐生をご案内しますよ」とのこと。予想できなかったほどの手厚いおもてなしである。
そのサイトウさんが毎週金曜の夜、FM桐生でやっている番組が「ロジウラジオ」で、下窪さんが出るなら、と番組と縁の深い『GO ON』編集人の牧田幸恵さんが聞き役として一緒に出てくれることになった。
『GO ON』は牧田さんのやっている個人的な雑誌で、2020年12月に月刊のウェブ・マガジンとして始まり、並行してフリーペーパーを出していたが、2022年にフリーペーパーを止めて有料の『轟音紙版』になった。2024年12月にウエブ・マガジンの方を止めてからは”紙”のみの活動になり、『轟音紙版』をリニューアルした雑誌『GO ON』とフリーペーパー『GO ON 号外』を出している。
私は2022年の晩夏に初めて群馬に行くことがあり、『轟音紙版』第1号を手にした際、20年前の自分が考えた企画を思い出した。
『アフリカ』の前に『寄港』という同人雑誌をやっていた話は、これまでにも何度か書いたが、じつは『寄港』の前に構想していた小冊子もあって、それは雑記を中心としたものだった。20代の私は、詩や小説を書こうとする人の多い環境にいたので、そういう作品とまでは言えないような日々の記録や、その時々の考え事などを複数人で書き留めておくような媒体がつくりたかった。『アフリカ』を始める頃にもその想いは継続させていて、その証拠に、実現しなかったその雑誌の名前をつけようとしていた。この連載の(2)に出てくる「ある漢字二文字の名前」である(『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』ではさらに具体的に言及している)。
『轟音紙版』を初めて手にした時、ああ、20年前の自分はこれをやりたかった! と思った。でもその当時、雑記を熱心に書こうと乗ってくる人はいなかった。若かったせいだろうか。確かに、人生経験を積んだ方が書けることは多いような気もする。でも私は若い頃の自分が書いて、未発表になっている雑記原稿をたくさん抱えていて、そこから教わることも多いのだ。
そんな話をたぶん『るるるるん』の人たちにしたのだろう。「下窪さんが『GO ON』を褒めていた」と牧田さんは聞いたらしい。
『轟音紙版』第1号の最初に載っているのは、牧田さん自身による「雑煮的雑記」である。2本の映画、『イージー・ライダー』と『ビーチ・バム』を観て「自由」について考えたり、ぶつぶつ言っているような内容で、現代美術家・三島喜美代さんの「ただおもしろいから」つくっているということばに感動した話で終わる。めくっていくと、レコード屋通いの話、日常的に写真を撮ることについての話、風景の話、UFO談義などをいろんな人が書いていて、すごく読み応えがあるかと言われると、そうでもないが、サラッとした手軽な読み物かと言われると、もっと未完成のゴツゴツしたものを感じる。
牧田さんはたぶん、書いてほしい人に声をかけて、好きなように書いてもらっているのだろう。読むと、通りすがりの人たちの会話に聞き耳をたてているような感じもある。その声を集めて、本という器に落として、デザインしている。
昨年は『GO ON』とは別に『あれ』vol.2という”不定期刊行雑誌”もつくっている。雑誌といっても、A3の少し厚めの紙の両面にプリントして八つ折りしたもので、特集は「『あれ』創刊号(昭和47年正月25日発行)」。どういうことかというと、約50年前に沙原歩さんという方がつくったガリ版刷りの『あれ』の復刻版である。牧田さんは、こんなふうに説明している。
発行した本人から『あれ』の話を聞き、手渡しされた私は「おもしろいですね」と適当な感想だけを残して放っておくわけにはいかないのである。それは、発見してしまった者の使命とでもいえるだろう。
復刻された創刊号の巻頭言(だろうか)「『あれ』について」によると、沙原さんは芥川龍之介の会話を研究する話(?)を読んで、自分も「会話なるものを持って」みようと思ったという。そしていま(当時)最も使われていることばは何か「研究」してみたところ、それは「あれ」であったそうだ。創刊号には会話を書いた沙原さんの創作も載っている。次号に向けて一緒につくる「人材」を募ってもいて、張り切ってつくっている様子が伝わってくる。雑誌をつくるのは愉しい! しかし(事情は知らないが)『あれ』は1号だけの雑誌になってしまったようだ。50年ほど後に2代目の編集人(牧田さん)が現れるまでは。
読んでいると、じわじわと来る何かがある。それを放っておけなくなる牧田さんを想像して、私は他人事のようには思えないのである。
さて、桐生では「ロジウラジオ」で本をつくる話などして、放送後はVillageに場所を移して集まってくれた人たちとご飯を食べながらいろんな話をした。牧田さんは「自分ひとりで本がつくれなくても、雑誌なら出来ると思った」と言っていた。また、書き手には「読者を意識しないでください」というふうなことを言っているとも話してくれた。私は、書く時は読者に媚びないで、教え諭したりもしないで、と考えているのだが、そのことに通じる、と思った。「自由に書く」とはどういうことだろうか。私は人から言われるほどには自分を自由な人だと思っていないし、『アフリカ』も自由な媒体だとは思っていないのである。でも「自由」には、興味がある。牧田さんとはいつか、そんな話をじっくりしてみたい。と、この文章を書きながら考えているところだ。