立山が見える窓(1)

福島亮

 窓の向こうの立山は、まだ白い。それでも春は初夏へと着実に移ろいつつあって、我が家の近くでは、チューリップの花弁が散り、ふっくらとした子房が露出している。神通川の土手に植えられたソメイヨシノもすっかり葉桜だ。富山市の駅近くは、おそらく空襲のせいだと思うのだが、古い建物がほとんどなく、街のつくりが幾何学的にできている。とりわけ、神通川に対して垂直にのびる大通りには、欅や花水木といった植物の名前が付けられており、じっさい街路樹として当該の植物が植えられている。だからいちいち地図で通りの名前を確認する必要はないし、おおよその位置関係さえ掴めていれば、目的地まで比較的簡単に行くことができる。それら道標となってくれる植物たちも、柔らかそうな若葉を纏い、日光をほのかに反射して、淡い光に包まれているように見える。それまで室内で保護し、冬の間は水をやらず、干からびていたバオバブも、よく見ると小さな芽を出している。芽を出すための水をどこに隠し持っていたのだろう。

 こんなふうに新天地にも春が訪れているのだが、じつは4月の後半は、せっかく馴染んできた街から離れて、週末は都内にいた。ボリビアの映画制作グループ「ウカマウ集団」の連続上映企画「ウカマウ集団60年の全軌跡」に立ち会うためである。監督ホルヘ・サンヒネス(Jorge Sanjinés, 1936−)の最初期の作品「革命 Revolución」(1962年)から、今回日本初上映となる最新の作品「30年後——ふたりのボリビア兵 Los Viejos Soldados」(2022年)まで、全14作品が新宿のK’sシネマで上映される。この上映を始点として、以降、神奈川、北海道、長野、愛知、大阪……と巡回上映されるというから目が離せない。

 初日は4月26日土曜日の10時30分からで、「革命」と「ウカマウ Así es」(1966年)が上映された。「革命」は白黒の映像と音楽、そして音だけで構成された10分ほどの短編である。小さな劇場にはまだ幸いなことにしっかりとした暗闇があって、その暗闇のなかでスクリーンに浮かび上がる白黒のイメージたち、とりわけ最後に映し出される子どもたちの表情、その目の力、その頬の赤み——きっと、燃えるように赤いはずだ——、その唇の乾燥などが生々しく見えた。続いて上映された「ウカマウ」も、やはり白黒なのだが、今度は台詞がある。ティティカカ湖の島——太陽の島——で暮らすインディオの夫婦と彼らを支配するメスティーソとの言語的差異が印象的だ。その違いはまた、作品中で奏でられる音楽にも表れていて、というかそれこそがこの作品の重要な仕掛けであって、ケーナの音や弦楽器を弓でこする音、そして打楽器の乾燥した音が、本作の最後に用意されたドラマをじわじわと準備しているのである。

 初日の午後に上映された「女性ゲリラ、フアナの闘い——ボリビア独立秘史——Guerrillera de la Patria Grande, Juana Azurduy」(2016年)と「30年後——ふたりのボリビア兵」は、午前中に上映された最初期の作品とコントラストをなすように配置された最新の2作品である。暗闇のなかから浮かび上がる白黒の豊かな世界に浸った目には、これら2作品の鮮やかな色彩はむしろ物足りなさを感じさせもするのだが、「女性ゲリラ、フアナの闘い」は台詞によって、「30年後」は音楽によって、別様の豊かな世界へとその場にいる者を引きずり込む。1932年から1935年にかけてボリビアと隣国パラグアイのあいだで起こった戦争に従軍していた白人兵士ギレェルモと、新婚のお祝いのさなかに拉致され、強制徴用されたインディオのセバスティアンとの間に生まれた友情を描く映画の最後、ふたりがすれ違いそうになる瞬間に鳴るチェロのゆらめくような音は、午前中に観た「ウカマウ」における死者を悼んで老人が奏でるヴァイオリンとの、時を隔てた連続性を感じさせる。

 このような映画を観られるということ、そしてなによりも、「ウカマウ集団」と太田昌国らシネマテーク・インディアスとのあいだに築かれた関係性を目撃できることを嬉しく思う。

 今週末もまた、「ウカマウ集団」にとっぷりと浸ろうと思う。