関東鉄道常総線・稲戸井駅(取手市)の近くで、ちょっとおなか空いたねーということで中村ストアーに入った。菓子を選んでいたら奥から大根を煮るいい匂いがする。午後にはお惣菜が並ぶのだろうか。店の入り口にサンルーム的な場所があって、その壁に奇妙なものを発見。「ばんぱくちゅうおう 万博中央」という駅名標が無造作に掛けてある。本物なのかな。お店の方に尋ねると、つくば万博(1985)のときに常磐線に作られた仮設臨時駅のもので、牛久駅と荒川沖駅の間にあったという。どうにも気になり後日その場所を訪ねてみたら、ひたち野うしく駅(牛久市)だった。万博中央駅は万博終了とともに予定通り廃止されたが駅前の宅地開発はみるみる進み、13年後に新たな名前で駅舎もリニューアルして開業した。駆けっこできそうなホーム(実際子どもが走っていた)や高い天井はその名残だろう。広々としたコンコースには二所ノ関部屋の大きな案内板があった。
稲戸井駅から、その日は小貝川の岡堰(取手市)に向かったのだった。小貝川が「く」の字に曲がるあたりで、ごく簡単にいうと、江戸時代に伊奈忠次(1550-1610)らにより新田開発・洪水防御・舟運のために鬼怒川と小貝川が分離され、鬼怒川が利根川につなげられ、小貝川も下流で利根川につなげられ、小貝川に設けられた複数の堰のうちの一つが岡堰ということになる。くの字の角の広いところに小さな島があり橋がかけてあるのだが、渇水期だったので川底を歩いていったらオオオナモミにひっつかれて大変なことになった。広場には歴代の岡堰の一部や関連の碑と間宮林蔵(1780-1844)の像がある。近くの農家に生まれた郷土の偉人は小貝川にゆかりが深い。『利根川荒川事典』(平成16 国書刊行会)から抜粋すると、〈先祖・間宮隼人は17世紀初め、徳川幕府の鬼怒・小貝両川流域開発に際し、関東郡代・伊奈忠治に請われ、小貝川ぞいの常陸国筑波郡上平柳村に入植した土木技術者〉とある。林蔵はその七代目、一人息子だった。
吉村昭は『新装版 間宮林蔵』(2011 講談社)にこう書いている。子どもの頃から堰の普請に興味があった林蔵は、〈毎年春の彼岸になると堰をとめて小貝川の水を貯え、土用あけの十日目に堰をひらいて、水を水田に放つのである。その例年くり返される堰とめと堰切りを村の者たちが手つだったが、林蔵は、その作業が面白く、終日堰の傍に立って熱心に見守っていた〉。岡堰の広場の説明板には「間宮林蔵、幕府の役人に築造方法を教える」と書いてあったが、林蔵少年が13~15歳くらいの頃と考えるとちょっとそれは言い過ぎかなぁ。とにかくなにかと手伝い機転もきいた林蔵は、ある役人に目をかけられて江戸に出て地理調査を手伝うようになり、腕を上げ、下級役人の職を得て、やがて伊能忠敬(1745-1818)にも教えを乞うようになる。年齢がだいぶ違うけど忠敬をしのぐほどの健脚でもあったようだ。
さてこちらはぼちぼち歩く。ひっついたオオオナモミをちまちま取って、岡堰を渡り小貝川の左岸に出る。なかなかの強風の中、チュッパチャップスみたいに整えられた庭木をところどころに見ながら間宮林蔵記念館(つくばみらい市 旧伊奈町)を目指す。林蔵は1808年、松田伝十郎(1769-1842)とともに幕府の命を受けて樺太探検の旅に出た。このとき2人は樺太が陸続きでないことをほぼ確認したのだが、いまひとつ納得しかねた林蔵は改めての単独調査にまもなく旅立ち、そこではっきり確認できたと幕府に報告書を出している。記念館はその報告書に基づく資料を展示していて、探検時の道具や防寒具などもあったが、林蔵がのちに隠密となったために親族のもとに残された遺品は多くないそうだ。
報告書である『東韃地方紀行』(1810)や『北夷分界余話』(1810)に添えられた絵がとてもよかった。これらは林蔵の口述とスケッチを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録、模写したもので、風景や建物、人物、動物など対象は多岐にわたっている。細々した道具から街場の群像まで、また母乳をあげるお母さんとか鳥と遊ぶ子どもとか犬ぞりを操る男とかどれもみんな生き生きしていて、衣服も質感や柄や装飾がいちいち鮮やかで建物や舟の構造はどれも緻密でいかにも正確、とにかくどれも色合いがよくて美しい。林蔵は、のちに間宮海峡と呼ばれることになる海峡を渡ってアムール河を進み大陸に上陸しているが、そのときにデレンという町で清朝の役人から接待を受ける自身の姿も残している。
こうした丹念な記録への関心と技量は、林蔵が江戸に出るきっかけをくれた役人、村上島之允(1760ー1808 前出の村上貞助の養父)の影響によるところが大きいのだろう。『新装版 間宮林蔵』によると、あるとき林蔵がアイヌの生活に興味が出てきたと島之允に話すと、〈「よい物を見せよう。他人に見せるのは初めてのものだ」と言って立つと、部屋の隅におかれた箱の中から紙を綴じたものを持ってきて開いた〉。そこにはアイヌの人たちのさまざまな暮らしぶりが描かれており、細かな解説文も添えてあった。〈「測地のかたわら、こんなことをしている。私もようやく蝦夷人のことがわかりかけてきたので、一つ一つ書きとめている。これから、舟づくり、着物、弔い、宝器などを絵にえがき、それらの解説も書いてゆきたいと思っている」〉。林蔵は島之允のそうした作業にも共感し、手伝っていた。島之允による蝦夷地の記録は亡くなるまで続けられ、いくつかまとめられている。
『新装版 間宮林蔵』には、樺太探検の基点の1つとして「トンナイ(真岡)」という地名がたびたび出てくる。〈日本人の漁場の番屋や倉庫〉もあり、ここで〈舟を操るのに巧みなアイヌたちを雇う〉。林蔵が2度目の探検でトンナイを出たのは8月3日。夏、とは言わないかもしれないけれども、舟で北上して間もなく寒さで断念せざるをえなくなっているから、その厳しさはいかばかりかと思う。9月の中旬には雪も降り、かといって海面は凍結せずでトンナイまで陸路を戻るしかなく、10月24日、リョナイに荷物を置いて〈氷と雪のつらなる五十四里〉を歩き出す。到着は11月26日、トンナイの番屋で体を休めて正月29日に再出発、リョナイまではもちろん徒歩、そこからは舟で北上し、最北端のナニオーに着き、樺太が陸続きでないことを確実にしたのが5月の中旬だった。さらに大陸に向かい舟を出したのが6月26日。林蔵は死も覚悟して、これまでのメモをここで一旦整理していたようだ。
ところで「トンナイ(真岡)」は、真岡(現ホルムンスク)と考えていいのだろうか。北原白秋(1885-1942)が書いた真岡にある製紙工場見学記について、最後に触れておきたい。白秋が樺太を旅したのは1925(大正14)年で、ことさら陽気に書かれた『フレップ・トリップ』(2017 岩波文庫)の中にある「パルプ」がそれだ。〈樺太とはいっても八月の炎暑である〉、正真正銘の夏である。王子製紙は1933年に樺太工業を吸収合併しているから、白秋が訪ねたのは樺太工業(真岡工場は1919年操業)の活気ある時代。移動中、旺盛な原生林に圧倒される表現も随所で見られる。対して、樺太を旅した林芙美子(1903-1951)が、豊原までの列車の中から切り株だらけの野山を見て痛烈に批判したのは1935年だった。〈名刺一枚で広大な土地を貰って、切りたいだけの樹木を切りたおして売ってしまった不在地主が、何拾年となく、樺太の山野を墓場にしておくのではないでしょうか〉(「樺太への旅」 『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』2022 中公文庫)。この間、わずか10年。ちなみに戦後、王子製紙真岡工場はソ連の製紙工場になったが、1990年代には操業停止。今はいくつかの建物だけが残るらしい。
話が逸れたが白秋の「パルプ」、おかしくてせつなくて生々しくて好きなのだ。パルプ文学、製紙文学なるジャンルがあるなら史上最高作品とたたえたい。抄紙工程のごく一部を引用します。パルプと水と熱の声が聞こえます。
〈あの固形体のパルプが、ねとねとの綿になり、乳になり、水に濾され、篩われてゆく次から次への現象のまた、如何に瞬時の変形と生成とを以て、私たちを驚かしたか。この化学の魔法は。
あの鈍色の液状のパルプが、次の機械へ薄い薄い平坦面を以て流れて落ちると、次の機械では、それが何時のまにか薄紫の、それは明るい上品な桐の花色の液となって辷り、長い網の、また丸網の針金に濾されて水と繊維とに分たれ、残された繊維はまた編まれて、吸水函に入り、ここでいよいよ水分が除かれると、たちまちの間に、その次では既に既に幅広の紙らしく光沢めき固まって来て、次のまた強く熱したローラーの幾つかに巻きつき巻きつき、そのローラーを蔽うた毛布の上を通されるその幾廻転をもって、遂に最後の乾燥をおわると、はさはさ、さわさわと白い白い音と平面光とを立てながら、ここにすうすうすうと閃めき出して来る。すっとまた切られて同型同吋の長さとなって、一枚一枚と、大きな卓上に、寸分の謬りも無く、はらりはらりと辷り止まって、積り、積ってまたその層を高めてゆくのだ。
何とまた、あの幅の広い広い、そうして薄手の薄手の白紙が、ローラーからローラーへ、一間の余の空間を辷って巻き附くその全く目にも留らぬ廻転と移動とを以てして、些の裂けも破けも、傷つきも飜りもしないことだ。何という叡智と沈着と敏捷と大胆と細心とを、秘めて、また、示していることだ。その神のごとき巧妙、霊性の作用は何から来る〉。