もうすぐ、あの美しい場所に近づいている。まわりのもの、特に果物が大きくなるから。畑はやめたけれど、道の駅で買ったスイカは驚くほど大きい。親友に送った。自分用と親友用、合わせて三つ。あまりに大きいので、スイカの中で暮らせそうな気がする。私と娘、ルーマニアから来たばかりの母と。「女の家」で暮らそう。なぜ平安時代の日本に憧れるのか。たぶん、和歌で心を通わせていたからだと思う。今、日常の中で言葉を使うのは、私にはほとんど無理に近い。無駄だと感じるから、日常が残酷だから。最近、人の話を聞いてない。聞こえてない。この贈り物のような世界を語る言葉がない。子どもの頃と同じ感覚で、世界をずっと見ていたい。味わうことに集中したい。
大学の敷地では、毎年6月に桑の実が実る。その木の下を通ると、セメントに黒い染みがたくさんできている。わざと赤い靴を履いてその間を歩く。黒い実の跡と赤い靴のコントラストが好きだ。手に取ると、汁が指に赤い跡を残す。まるで皮膚全体で食べているような感覚に気づく。私、回虫に似ているかもしれない。皮膚から栄養を吸収して生きる。サンゴも同じ。今日、桑の実から教わった。寄生虫やサンゴの目で世界を見てみたい。ハリガネムシという寄生虫に魅了されたのは、カマキリの中に入るその映像を見た日だった。ハリガネムシはカマキリを操り、水中に飛び込ませて脱出し、そこで繁殖する。生き物の性についての講義で、学生たちがカマキリの話を話題にした。オスとメス、メスがオスを殺す、生き物のジェンダー論。先日、運転中に突然、腕にカマキリの赤ちゃんを見つけた。透き通った緑色で、元気に私の体に飛びついてきた。美しい生き物だった。もし大人のカマキリだったら、寄生虫に操られ、私の車に乗って水まで運んでくれと頼むかもしれないと想像した。でも、それは赤ちゃんだったから、まだ寄生虫に支配されていない。自由に私のシルクのシャツの上を飛び、どこかへ消えた。透き通った小さな体に、羨ましさを感じた。大人になると、潰れた桑の実のように黒く、影のようになる。人間も、カマキリも。
人類学者ロバート・ガードナーの『Forest of Bliss』を学生たちと見た。インドのベナレス、ヒンドゥー教の聖地の日常を詩的に描いた民族誌映画。この映画についてなら、いくらでも話せそう。私の内に、美的な寄生虫がいるのかもしれない。美しいものだけを、ずっと見ていたい。ガンジス川に浮かぶ死者も美しい。彼らにとっては幸せな死に方だった。最近、生きることも死ぬことも素晴らしいと思う。特にこの映画を見ると。何度見たかわからない。ガンジス川には人間だけでなく、犬、猫、牛の遺体も運ばれる。この映画を見た日、私の靴下が映画の中の無数のマリーゴールドと同じ色だった。みんなで笑った。一緒に民族誌映画を見るのは、儀式のようだ。ガードナーのタイトル通り、至福の森に入る感覚。儀式はみんなで見て、みんなで参加するから。一人ではない。この映画に森は映らないけれど、生き物と場所はまさに至福の森そのもの。好きなシーンは、100歳くらいのおばあちゃんが死にかけている場面。日本の祭りでよく聞く鉦の音に迎えられながら、まだ完全に死んでいない。死後、小さな細い体をピンクの布で巻き、ガンジス川に降ろす。あのピンクの布の下の小さな体が、幸せそうに見える。ガードナーの一番有名な映画は『Dead Birds』だ。パプアニューギニアのダニ族についての民族誌映画。この映画はダニ族の理解に繋がったが、詩的すぎるという批判もあった。60年代のこの作品から『至福の森』までの20年で、ガードナーの撮り方はさらに詩に変わった。彼の思想がよくわかる。生き物の真実を伝えるには、詩でしかできない。
大学の講義が終わり、子どもの迎えに出た。敷地内の桑の実をまた摘んで食べた。甘い愛の味がした。幸せな気分。道の駅では、スイカだけでなく、大きなイチジクも見つけた。白い紙タオルに丁寧に置かれた、私の手よりも大きな二つのイチジクを買った。インドのピンクの布に包まれたおばあちゃんに供えてから食べた。まるで至福の森のイチジクの味だった。