日曜日、ママンが死んだ。施設から電話があって駆けつけると、もう息をしていなかった。息を引き取ったのは未明だけれど、亡くなったのは7時近いのかもしれない。よくわからない。なぜって人の死は医師が診断して確定するから。3時半から3時間、ベッドわきで弟ととりとめのない話をしながら医師の到着を待った。ママンは半月ほど前からそうだったように、体を左に傾け右頬をこちらに見せるようにして静かに目を閉じている。眠っているみたい。でももう、体を覆うタオルケットが小さくふくらんだり沈んだりはしない。
東向きの部屋に暑い陽射しが射し込むころ医師がやってきて診察し、「死亡時刻は6時53分、老衰ですね」といった。97歳。涙は出なかった。
半月前、看護師さんに「あまり召し上がらなくなってきました」といわれても、もうさほど動揺することはなかった。最後の時が近いことは、ゆっくりと下降線を下るように変化していくようすから十分にわかることだった。ママンは骨も肉も内臓も絞るように使い切って、命を閉じようとしている。できるのは、死に向かって静かに降りていく人をじっと見守ることだけ。まだ自力で歩いたり動き回ったりできころは、わずかな変化ひとつひとつに右往左往し胃の縮む思いがしたり心臓がバクバク鳴った私も、これはもはや生きているものすべてがたどる自然の衰え、と受け入れられるようになっていた。
でも、物事が進んでいるときというのはじぶんの目の不確かさもあるのだろうけれど全体はつかめないもので、6月を迎えるころにはかなり衰弱していたんだな、とすべてが終わったいまになって気づいている。それでも、もっとこうしてやればという後悔はほぼない。悲しみも湧いてこない。どこか乾いた気持ちで、遠くに歩いていく母の背を見送っている。天寿をまっとうしたからなのか、20年に及ぶ介護をやり終えまわりからもがんばったよ、といってもらえるからなのか、つきあいやすいとは決していえない性分のママンに振り回されながらも格闘するように向き合ったからなのか。
30年前に父を亡くしたときは、死がじぶんに食い込んでくるようで、後悔がつぎつぎ湧いて苦しかった。あれはまだ若かったせいだろうか。そのころ読んだたしか河合隼雄の本にはうろ覚えだけれど、死には、一人称の死(私の死)、二人称の死(あなたの死)、三人称の死(だれかの死)がある、とあって、父の死は私が初めて体験する二人称の死なんだ、と感じた。会えるものなら一目でも会いたかった。それが高じてか、仙台市中心部の大きな交差点で信号待ちをするときに、信号が青に変わってどーっとこちらに向かって歩いてくる群衆の中に父がいる、きっといると夢想したりした。歩き出すと向こうから父がやってくる。お父さん!と声をかけると、おうっ!と返ってきて視線を交わすのだけれど立ち止まることはなくそのまま行き違う。そんな場面を何度も想像した。
母の死はまぎれもない二人称の死なのに、父の死とは明らかに違う。もちろん三人称の死でもない。母ひとりの死に違いないけれど、その向こうに人がこの世に生まれ落ち生きて、生ききって死んでいく大きな物語が、遠くに山並みが連なるように背景として横たわっているように感じる。私たち人の死だ。いや人だけではないかも。生きものみんなの、万物の死なのかも。
よくきれいなお母さんだね、といわれたママンはおしゃれで華やかで社交的で明るくてパワーにあふれていた。負けん気が強く決断が早くおしゃべりで、食べたいものはからだのことなど気にもかけずなんでも食べ、ひとり暮らしになっても花柄のワンピースを着込み手にはマニキュアをしヒールのある靴をはいて出かけていった。洋裁、編み物、七宝焼き、革工芸と趣味もあれこれあったけれど、何をするにも圧倒的な集中力を見せてものすごい数の作品を作り上げた。私とはすべてが真逆ともいえて、だからなのか娘のころから何かにつけてぶつかった。相手の気持ちなど顧みず感情をむき出しにしてぶつかってくる母には、振り回され傷つけられもしたし、家を離れこの人から早く逃れたいとも思った。母からみれば、何かにつけていらいらさせられる娘だったろう。
そんなママンも晩年はだんだんとおだやかになった。持ち前の明るさは変わらなかったから、ヘルパーさんや施設のスタッフに慕われ、衝突ばかりしていたママンの思いがけない一面を見せられたような気分だった。
二度のコロナ感染を乗り越え衰えてはいても安定していた状態は、昨年の貧血、心不全治療の入院をきっかけにみるみる落ちていった。面会のたびにやせ細っていく足や腕や背中を見ながら、老いの進むその先にひと続きで死があることを意識せずにはいられなかった。
この年齢になるときょうだいはほぼ亡くなり、下の世代でさえ健康体ではなくなっている。ささやかな葬儀のあと、家族と数人の親族で仙台市西方の葛岡という山の霊園に火葬にいった。
1時間半ほど食事をしながら過ごしたあと、アナウンスに促され弟と二人、確認のために炉前でママンを待った。ほどなくしてママンは白い骨になってあらわれた。まだ熱い台の上の頭蓋骨や背骨や骨盤の中に、大きな大腿骨がごろりと転がっている。目を見張った。左足の大腿骨だ。何?この野太い存在感は? ちょうどピンポン玉のような真っ白な股関節が、周囲を見渡すようにしっかりと頭をもたげている。私は骨に気圧され息を呑み、次の瞬間思った。この人にはかなうわけがなかった、と。この太い骨で周囲を振り回し、私に怒り、翻弄し、100年近い時間を生き抜いていったのだ。
死んだママンは静かだ。白い箱の中に納まって隣の部屋にいる。でもその中にあの大腿骨があるかと思うと、油断はできない。怒らせたら、大腿骨をブーメランのように飛ばして私の脳天を一撃するかもしれないから。