精霊馬たち(1)

新井卓

目を瞑ると、いつもおなじ景色が見える。ヤマユリの大群落がみなおなじ背丈に咲き誇り、その見事な顔のひとつひとつに、ほそやかな篠竹の支柱が添えられている。そり返った花弁にとまった塩辛蜻蛉が微動だにせず、その複眼に千の空を映していた。慈悲、抜苦与楽。抹香臭い語彙しか見あたらぬその光景は、この世の極楽に違いないと思った。山の冷気を含んだ微風が、死者たちの一年ぶりの訪れを告げていた。殺戮者たちが思う存分にこどもたちの命を踏み躙り、それでも何事もなかったかのように回転する世界の一隅からその場所がどれほど隔たっていようとも、それら極楽と地獄のどちらも、ヒトの手が生み出す景色であることに違いはない。三ヶ月の日本帰国は長い盆の里帰りだったのかもしれない。今は、そう思う。

ひと月ほど一緒に帰国していた連れとこどもは六月下旬、一足先にベルリンに帰り、生まれ育った家で何年かぶりのひとりの時間が始まった。抱えていた仕事のあれこれで一週、二週があっというまに過ぎ、ようやく一呼吸、久しぶりにお会いしたと思っていた人々と連絡をとり始めた。

今回は必ず、特に心に決めていたのは第五福竜丸平和協会顧問の山村茂雄さんだった。山村さんは震災のすぐあとに出会ってから変わらず、事あるごと気にかけてくれ、批判と激励をつづけてくださった恩師である。山村さん行きつけの新橋の寿司屋にでもお誘いしよう、とアドレス帳を検索した途端、第五福竜丸展示館から電話が入った。あまりのタイミングになにか誤発信でもしたのだろうか、と怪しみつつ通話をオンにすると、久しぶりです、と、学芸員の安田和也さんの声が聞こえた。そうか、とその声の調子から分かってしまい、果たしてそれは、数日前に山村さんが逝去されたという報せと、わたしが以前撮影したポートレイトを遺影に使いたいがよいか、というお尋ねだった。

その写真は飯能市にある真言宗智山派寺院、金蔵寺の山門で、コロナ禍が始まる前の年の秋口に撮影したものだった。まだ夏の湿り気と暑熱が残るよく晴れた日で、山村さん一家と、山村さんのご著書『晴れた日に 雨の日に』(現代企画室、2020年)のための撮影だったから、編集の小倉裕介さんも一緒だったと思う。山村さんが少年時代を過ごした寺の境内で撮り終え、帰りみち、おいしい鰻をご馳走になったはずだ。

通夜で、抜けるような笑顔を湛えるその写真に再会した。参列者の中には日本被団協の田中熙巳(てるみ)さんの姿もみえた。原水爆禁止日本協議会時代、山村さんが編集に携わった伝説的作品集『Hiroshima Nagasaki Document 1961』における長崎行をなぞる旅をしたこと。閏日に件の寿司屋に集まる、恒例の誕生会のこと。たくさんの思い出が駆けめぐり、人ひとりの仕事とは思えない山村さんの活動に触れる弔辞や弔電が読みあげられるあいだ、わたしは通りに駆け出して大声で叫びたかった──みなさん、核廃絶の闘いに一生涯をかけ、東松照明を長崎に導き、若い世代を励ましつづけ、片時も詩の心を忘れなかった偉大な男が、いま、さよならを告げているんですよ!と。まあそんなことより一杯、近くに〇〇という店があってね……という山村さんの声が今にも聞こえてきそうだったが、あとに残された者として寂しい、やるせないものは致し方がない。

写真家・民俗学者の内藤正敏さんの訃報に触れたのは、その翌週だった。
内藤さんに初めてお会いしたのは2015年か2016年の初夏、当時遠野市博物館館長だった民俗学者・赤坂憲雄さんの計らいで、鼎談、というかたちの催しに呼んでいただいたときのことだ。震災の前年から東北に通うようになって以来、たとえば内藤さんの『遠野物語』(春秋社、1983年)を写真というメディウムによる前人未到の到達点として見つめてきたので、ご本人にお会いする思いもよらぬ機会にとても緊張したことを思い出す。

その日、博物館の会議室に通され、所在なく本を読むふりをしていると、ややあって内藤さんが到着した。内藤さんは会うなり、あなたの仕事には知性と品性があるんですね、なかなか珍しいことだ。とわたしの目を見据えて言った。どう応えたか、たぶん変な声しかでなかったと思うが、山村さんといい、内藤さんといい、人並みならぬ魂は一瞬で相手の心をとらえて離さない。

鼎談は、ほとんど内藤さんの独壇場となった。アナログ・スライドを持参した内藤さんは、次、次、とカルーセルを回しながら始まりも終わりもない記憶のクラスターに分け入って行った。一つの物語はいくつもの枝に分かれ、立ち消えたかと思えば別の場所に返り咲いた。南方熊楠もきっとこんなふうに話したのだろう、と変に合点しながら、無限に分岐、結合するシナプスとして垣間見る、内藤正敏という生態系の一端に身を浸すのは、わたしにとって至福の時間だった。

内藤さんが東北芸術工科大学で教鞭をとっていたとき、キャンパスに散歩に来る幼稚園児たちが内藤さんによくなついていたという。内藤さんは芝生に腰を下ろして、そのこどもたちに大学生にするのとおなじ講義をしたが、こどもたちはそれに聞き入っていた──さもありなん、とやはり変に合点しながら、後日赤坂さんから伺ったその逸話を、記憶の大切なところにそっと置いた。

宇宙のように深遠な青空に、百日紅の花がフラクタルな輪郭を刻んでいた。修験の法螺貝が響きわたり、僧侶の読経が始まった。内藤さんの葬儀は、神仏習合そのものだった。実際には二度、三度しかお会いできなかった内藤さんに、お別れの挨拶をすることを許されたのは、宇宙からの贈りものだと思った。

ほんらい写真は、写真という表現形式としてあるわけではない。それはメディウム=媒介するものであり、眼に視えず耳に聴こえない世界の振動に向けられた傷つきやすい感覚器のひとつだ。のみこみやすさ、伝わりやすさばかりに囚われ息の継ぎかたも忘れそうな喧騒のなかで、これから写真を学ぶ人はいっときでも内藤さんの仕事に目を向けてほしい、と思う。と同時に、そんなことをわたしが強調するまでもなく、呼吸する皮膚のようにざわめき、ヒトならぬ世界に向けて触手をのばすそれらイメージを、わたしたちの魂が本当に必要とする時代がいずれ到来するだろう、とも考えた。

八十年目の太陽はすべてを灼きつくすかのように燃え、広島、長崎、東京をめぐる三千四百キロの旅が目前に迫っていた。
(つづく)

*山村さん、内藤さんのことは、こちらの文章に詳しく出てきます:
・新井卓『百の太陽/百の鏡 写真と記憶の汀』岩波書店、2023年
・新井卓『炭取をまわす死者たち──『遠野物語』とモノ、イメージ、浦田穂一をめぐる覚書』現代思想2022年7月臨時増刊号 総特集=遠野物語を読む、青土社、2022年