文字と絵や写真による手順解説は、これからすっかり動画にとってかわられるのだろうか。私が担当する製本ワークショプでは、作り方を書いた紙を配らずに簡単に板書して「まずはここまで」「次はここまで」とわりと細かく分けて実演してきた。今年試しに少し長めに通して実演してみたところ、なんとほとんどの人が一度で理解してしまった。ちょっとマジで驚いて「なんでわかったの?」と聞いたら「見たからわかります」と言われ、もっと驚いてしまった。たまたまなのかどうなのか、人類の動画認識能力とかその再現能力みたいなもののめまぐるしい進化を見せつけられた気がして、それで冒頭のようなことを思った次第。
手製本の手順解説といえば栃折久美子さんだ。栃折さんのルリユール工房でもらった自筆図解入りのコピー、あのイラストの柔らかいタッチは見るだけでわくわくした。ご自身のエッセイ集の表紙にも使っておられるから、あぁ、あの感じねと思い浮かぶ方がいるかもしれない。栃折さんにはハードカバーの製本手引き書もある。『手製本を楽しむ』(1984 大月書店)は的確な写真と文章で細かく手順が示されているし、『ワープロで私家版づくり』(1996 創和出版)になるとワープロを使った本文の編集・面付け・プリントまで解説してある。実はその丁寧さと完璧さで私などはおじけづいたクチで、このとおりやればきっとあなたも綺麗にできますよという優しさによるプレッシャーと、じゃあこのとおりやればいいのネみたいな、できもしないくせに強がる相反する気持ちからだったろう。久しぶりに読むと栃折さんの口調がたちまち蘇ってきて、そうかこれも栃折さんの製本エッセイだったんだなと思う、写真多めの。
実はこの2冊、ワークショップで作り方指南書として紹介すると「難しそう」と言われることがある。ケータイ動画デフォルト世代にしてみたら「動画はないの?」だろうし、モノクロ写真に長めの解説だから、ぱっと見て、手順の多さや手順書を読み解く面倒くささを先に感じるのかもしれない。作り方を知りたいのならやはり動画がいいだろう。これだけ手軽に動画を撮ったり公開したり再生できるようになったのは最近のことで、それができなかったから、文字と絵による手順解説リテラシーを作るほうも見るほうも互いに積み上げてきたのですもの。この先、手順解説の動画化が進んで心配なのは停電だ。そんなときによりによって何かの手順を知らねばならなくなった場合に、まず印字された紙ペラの手順書をうまく入手できるかどうか。できたとして、それを見てくじけず理解する気力がわれわれに残されているのかどうか――。
8月に聞いたTIGER MOUNTAINでのレクチャー「ブックデザインのオルタナティブ(1)」(ホスト:室賀清徳さん、聞き手:若林恵さん)で、ゲストの郡淳一郎さんが栃折さんの仕事に触れていた。「編集装丁・社内装丁」をテーマに戦後から現在にかけて担った人を3章に分けてのお話で、第1章「4人の復員兵」が田村義也(岩波書店)・小尾俊人(みすず書房)・伊達得夫(書肆ユリイカ)・吉岡実(筑摩書房)、第2章「フィメール・インハウスデザイナーズ」が栃折久美子(筑摩書房)・中島かほる(筑摩書房)・大泉史世(書肆山田)・望月玲子(新潮社)、第3章「作家主義批判者たち」が花森安治(暮しの手帖社)・多川精一(平凡社と)・前川直(新潮社と)・平野甲賀(晶文社と)の各氏であった。郡さんは自身のXでこのテーマについて書いている(2025.8.2)。〈「編集装丁・社内装丁」とはつまり、アーティストとデザイナーによる自己表現でなく、編集者と製作者による自己否定のブックデザイン。グラフィックデザインの共時性、作家性、多様性でなく、出版の通時性、無名性、共同性に根ざす。映像と言語による汚染から物質と精神を救出することは可能だろうか?〉。
レクチャーではこんなこともおっしゃった――きょう見てきた本たちは高いところに憧れたり深いところを見て足がすくむとかそういう感覚がある、書き言葉というのは「水平」の喋り言葉に対して「垂直」で人を内省させ孤独にする、時代の表層を見て平台を気にして消費者にどう見えるかを水平軸で見て装丁する人がいるけれども、本が担うのは垂直性、高さと深さの感覚なんだ、そして、本の美しさは矛盾の強さだと言いたい――。正確な引用ではないのでトークの文字化を心待ちするわけだけれども、当日オンラインで聞きながら、栃折さんが筑摩書房からブックデザイナーとして独立した1967年頃に書いたエッセイを思い出していた。日本で「ブックデザイナー」を名乗ったのは栃折さんが最初という説があるが、栃折さんがその言葉に込めた思いは、徐々に世間がイメージするものとかけ離れていったようだ。その原因の一つになったと思われる、装丁を表層的・平面的、単独でとらえるものへの嫌悪を書いた部分をいくつか見てみよう。
当時のグラフィックデザイナーの中には、表紙のデザインをするのに、やたら刷り色を増やしたりやたらたくさん造本見本を作らせたりやたら何度も校正刷りを出させたり、挙げ句の果てには校正を見てから版下を入れ替えたりする人がいたそうだ。それを目にして、こんなのはすべてデザイナーとしての〈無能〉だと言い切っている。そしてそこに作家性みたいなものをまとわせようとする”デザイン界”は、居心地最悪、と。〈誰がどこで何のために使うお金であっても、よく使われてほしいと思うことと、当たり前のことを当たり前のこととして感ずることとは、別のことではないし、ここに書いた居心地の悪さは、病死した豚を売る食肉業者や郵便物を川へ投げ捨てる配達夫に対して感ずる気持と、つながりのあることに思えておそろしくてたまらない〉(『製本工房から』p30)。筑摩書房で編集も装丁も経験してきた栃折さんだ。〈意識ばかり先走ったデザイナーと、安全性と常識を重んずる依頼主〉(同p27)、そのどちらの立場も理解していた。
デザイナーの仕事については、なんといっても〈私は装幀という仕事の全体を一人でしているとは思っていない〉(同p49)。なぜなら〈誰にも全体はわからない。受け持たされている仕事をほんとうに正直につきつめてゆけば、それは隣合った仕事と自然につながって、つぎ目の目立たない全体になるのである。デザイナーの役割は、装幀という仕事の中で、他の人たちが分担していることのすべてと隣合っている最も直接の部分を受け持〉ち、〈つくろうとしている本の内容と条件という、いわば一種の異物を、のみ込〉まねばならず、しかし〈誰かがそれを身体に引き受けなければ、ものの形は生まれない〉(同p53)。〈おそらく仕事というものはすべて、異なった方向に働き合う力のつり合いが、かたちづくって行く境界線を、外観とするものだろう〉(同p28)。全自動無線とじ製本機については、〈1時間に何万冊もの本を「生産」する製本機は、「大食い」ですから、たくさんのエサ、つまり製本の注文が必要です〉(『装丁ノート』p79)。その「エサ」を、用意する側にあるデザインの仕事の恐ろしさをこんなふうにも書いている。〈出来そこないでも何でも、それがいったん私の手を離れたらさいご機械がうなり出して、同じ出来そこないが何千何万という数にふえてしまう〉(『製本工房から』p52)。
その後、栃折さんは1972年にベルギーでルリユールを学び、帰国してアトリエを構える。1980年から2002年までは西武百貨店池袋コミュニティ・カレッジ内でルリユール工房を主宰した。
ところで、『ワープロで私家版づくり』には栃折さんの詩が載っている。こんなものもワープロで作れますよという例として、「雨」ひと文字と「完」ひと文字でそれぞれ作った作品2つだ。栃折さんの『装丁ノート』(1987 創和出版)のほうには、活字の「の」ひと文字で組んだ作品がある。エッセイ「幻の雑誌『あん』」によると――1968年頃、英国製の小型活版印刷機アダナを買ってこれで詩集を作ろうと仲間を募ると、筑摩時代の先輩や同僚7人がのってきた。原稿が出来た順に版を組んで試し刷りをしたが4人分で頓挫。このとき栃折さんが用意したのが、6ポから36ポまでの「の」を組み合わせた作品「の」で、他の3作品は数字だけで作った作品1つと〈まっとうな詩〉が2つであった――。『装丁ノート』は『製本工房から』(1978 冬樹社)と合わせて集英社文庫(1991)に入り、『美しい書物』(2011 みすず書房)にはエッセイ「幻の雑誌『あん』」が入ったが、両書ともに「詩作品」自体は掲載していない。