印象と表現

高橋悠治

何も思いつかなくても手を動かし、書き続ける。こうして今書いているように、毎月何か書いていると、同じことを繰り返し書いているのかもしれないが、書いたことから別な何かが生まれるわけでもなかった。

字を書くよりは、音符を書きたい、ところが、ずっと使っていた Finale という記譜ソフトが開発をやめたという知らせを受けてから、使っていた機械に入っているソフトも何故かうまく動かなくなった。手書きに戻っても、今度は手が動かなくなっている。音符は記号として打つのに慣れてしまったから、一個ずつ形を手で描くことにまた慣れるまでに時間がかかり、その間に思っていた形は逃げていく。

そうなると、思い描いた音の動きそのものも、ありふれたフレーズではないか、と疑いがきざす。

一方、20年ほど前に書いた曲を弾くことになって、楽譜を読み返すと、演奏法がわからなくなっている。その時の方法は、説明なしでわかっていたから、書き残す必要を感じなかった。その時の録音でもあれば、見当のつくことがあるかもしれないが、何も見つからない。

そうなると、記号の読み方、あるいは残っている楽譜の断片だけを使って、それ以上書かないで演奏することができるか考えることになるだろう。それができたら、その結果をもっと簡単に書く方法も、見つかるかもしれない。

1950年代から使われていた図形楽譜と記号の説明のように、複雑な分類ではなく、説明のいらない、できるだけ少ない種類の記号で済ませられるように。

音の動きを、眼に見えるような形の変化から、耳に聞こえるような響きを経て、楽器の上の手触りの感触へと、身体化して近づきながら、全身の身振りとして感じられるとき、印象(impression)が表現(expression)に近づくのだろうか。