二・音の出ないピアノを弾いて
優作と付き合うようになった頃、美代は二十七歳になっていた。優作たちと演奏するのは楽しかった。ピアノを習い始めたのは小学校の終わり頃だった。地元の小さなピアノ教室だった。一緒に習っていた子どもたちはほとんどが幼稚園から小学校の低学年だった。美代と同じくらいの歳の子もいたが、その子たちは何年も通っていて、かなり上手に弾けるようになっていた。小学校の終わり頃にピアノを始めるのは少し遅い感じだったのかもしれない。それでも、美代はピアノが好きだった。弾くたびに体が揺れて楽しかった。
先生よりも巧くピアノが弾けるようになったのは十七歳の誕生日を過ぎてすぐだった。初見の譜面で、先生が見本を弾いてみせてくれた。先生が弾いた見本はテンポがほんの僅かにズレていた。そのことに先生は気付いていなかった。続いて美代が弾くと、先生は楽譜の通りにちゃんと弾くのよ、と言った。美代は楽譜通りなら、先生よりも私の弾き方だと思っていたので、そのことを先生に言った。
そう言った途端に先生の目つきが変わった。小学校の終わりから五年以上教えてもらっていた先生のそんな顔を見たのは初めてだった。驚いて、黙っていると、先生が元の優しい顔になって、
「さあ、もう一度最初から弾いてみましょうね」
と、最初の部分を弾いてみせてくれた。美代はそれに続いて弾き始め、わざと先生と同じテンポで弾き終えた。
「ほら、やればできるじゃない」
先生はいつもよりも少し大きな声で美代を褒めてくれて、その日のレッスンは終わった。
家に帰ると、父が珍しく家にいて、お帰り、と迎えてくれた。美代は普段あまり家にいない父がいたことに驚いたが、それが嬉しくて何か話しかけたくて、今日のピアノ教室のことを話した。
「先生がね、楽譜通りに弾けなかったの」
美代がそう言うと、父は笑って聞いていた。
「それでね、私がそう言ったら、先生がちょっと怒ったの」
「怒ったって、どういうふうに」
「ううん、別に叱られたわけじゃないの。でも、なんかいつもと違う顔になって」
その時、美代が予想したよりも父の顔は深刻になった。
「その教室は辞めた方がいいな」
父は深刻な顔のままでそう言った。そして、すぐに優しい顔になった。
「いいね、辞めるんだよ」
「だけど、私はピアノの先生好きだよ」
父は返事をしてくれなかった。その日から美代は自分のピアノの音があまりよく聞こえなくなった。楽譜通りに指を動かしているので、ちゃんと音は鳴っている。誰の前でどんな曲を弾いてもちゃんと褒めてくれるし拍手もしてもらえる。でも、自分にはいつも通りの曲をいつも通りに弾いてるだけにしか思えなかった。
幼稚園の頃に母に教えてもらってピアノを弾いていた時のように、ピアノを弾き終わった後にも音楽が体中から溢れているような感覚になることはもう二度となかった。美代の弾くピアノの音は美代にだけ響かなくなってしまった。ピアノ教室を辞めてからも、学校の音楽の時間に先生から指名されてピアノを弾いたり、学園祭でも合唱の伴奏をしたりした。演奏の後は、他の学校の先生からも褒められた。その中に音大出身の先生がいて、音楽大学に進みなさいと言ってくれた。指導してくれる教室を教えてもらうと、父親は入学に手続きを進めて費用を前払いしてくれた。
美代は真面目に教室に通い、真っ直ぐなレールに乗ったように国立の音大に進んだ。そこでもピアノを専攻したが、すべての授業で美代は優秀な成績を収めた。それはまるで、最初から評価の定まっている有名な絵画があって、それがどのように描かれたのかをAIが分析して最初の一筆から再現しているかのようなサプライズのないつまらない学校生活だった。
美代は首席で卒業して、乞われるままに学校で教え、プロのサポートミュージシャンとして仕事をした。自分のことをピアノを弾くマシンのように感じる時もあり、そんな時にはピアノから流れてくる音がただのささくれの塊のようになり、ちゃんと聞こえないだけではなく、身体や精神にダメージを与えているように感じられた。実際にある時期にはピアノを弾くだけで本当に肌が荒れたり、ニキビができたりしたこともあった。それでも、幼稚園の頃に母と弾いたピアノの音に身体が突き動かされるような楽しさがまだ美代のすべての細胞の中に少しずつ残っていて、それが自然と美代の指を動かし、ピアノを弾かせているような気がしていた。
優作のバンドのサポートを頼まれたのは、音大を卒業して三年が過ぎた頃だった。同じ音大出身者が集まるオーケストラに所属して演奏したり、町の音楽教室で教えたり、スタジオミュージシャンとしてアルバイトをしていたが、自分自身の音楽をやりたいとか、何かを表現したいという気持ちはなかった。
優作は高校時代からスリーピースバンドを組んでいて、ライブのたびに誰かにキーボードを頼んでいた。いつもサポートしているミュージシャンとたまたま仕事をしたことがあった縁で、美代が紹介されたらしい。まるで面識のない優作からいきなり携帯電話が鳴った。知らない番号だったのでいつもなら出ないのだが、なんとなく出てしまい、「高橋と申しますが」という緊張した声を聞いてしまったのだ。その声は、ミュージシャンの声というよりもなんだか寂しがりの猫のようで、内容もよく分からないまま優作のバンドのライブにキーボードで参加することになった。
美代は指定されたライブハウスに約束よりも一時間近く前に到着した。池袋の駅から大きなビルを縫うように十五分ほど歩いたところにあるライブハウスは三階建てのビルの地下にあった。一階は受付を兼ねたバーがあり、二階は出演者の控室、三階はオーナーが住んでいた。
分厚い鉄の扉には貼り紙がしてあり、消防法の関係でビル内は禁煙であることが書いてある。ふと、扉の脇を見ると、そこにはスタンド式の灰皿があり、その灰皿のそばにも貼り紙があった。外での喫煙はOKだが、近隣からのクレームが多いので、この灰皿を持って裏通りの公園の脇に移動して喫煙するようにとマジックで書いてあった。そして、その横に細いけれど赤字で、公園で子どもが遊んでいたら、煙草を我慢して帰ってくるように、とあった。
貼り紙を見た美代は、これを書いたライブハウスのオーナーに早く会ってみたいという気持ちになって扉を開ける。入ってすぐのところにレジがあり、ライブのチケットもここで売っているようだ。その背後の壁にはこのライブハウスで演奏したバンドのチケットが貼られていて美代は、その数の多さに見入っていた。
バーの奥から呼ぶ声がして、顔を向けると意外に若い男が出てきて、美代さんですかと聞き、美代がそうだと告げると、深々と頭を下げた。
そのまま地下の会場に案内されることになった。
「お客さんにはバーの奥の階段から降りてもらうんだけど、外にスタッフ用に別の階段がありますから」
オーナーはそう言うと、美代をバーの外に案内した。かすかにドラムが響き、人の歓声が聞こえてくる。三階建てのビルの裏手のドアを開けると、ドラムと歓声はさらに大きく美代を包んだ。鉄製の階段を一段ずつ降りると、遮音のための分厚い扉があり、オーナーが小さく「せーの」と声を出しながら扉を引く。こもった音で鳴り響いていたドラムがはっきりとした音になり、歓声に消されていたギターとボーカルが美代に届いた。十代の終わりから二十代初めのように見える若い女の子のバンドだった。ジャミジャミした音楽だなと美代は思った。楽しそうだけれど苦手な音楽だった。キャパの半分ほど入った客は二十人くらいだろうか。ほとんどがバンドのメンバーと同い年くらいの女の子たちだった。みんながタテノリで中には少しトランス状態に入り込んでいる子もいた。ステージの上には四人のメンバーが演奏しているのだが、ステージのすぐ脇で関係者らしき女の子が、曲に合わせ手を叩きながら演奏を見ている。マネージャー的な役割の子なのか、なにかの都合で演奏に参加していないメンバーの一人なのか。そして、美代はその女の子の隣で床に座り込んでギターを弾いている男を見つけた。最初はステージの女の子がエアギターで、この男が影武者的にギターを弾いているのかと思い驚いたのだが、じっと見ているとステージで演奏されている曲と、男がステージの脇で演奏している曲とは関係がない。
この男はいったい何をしているのだろうと思ったころに、ガールズバンドの演奏が終わり、拍手とともにステージが終わった。観客たちは階段を上がって一回のバーへ移動し、出演者はさきほど美代が案内された外へと直接通じる階段で外に出た。そのまま二階の控室に移動するのだろう。
出演者も観客も出て行ったあと、ギターの男がまだステージ脇の床に座り込んでギターを弾いているのが見えた。その時初めて、この男がただ自分のギターの練習をしているのだということがわかった。美代は、しばらくその男を見ていた。
ひとしきりアンプにもつながず練習を続けていた男は、美代に気付いて話しかけてきた。
「美代さんですか?」
そうですと答えると、男は嬉しそうに笑った。
「一緒にやらせてもらう優作です」
そういって、深々と頭を下げると、優作ははにかんでまたギターをいじり始めた。
「どうして」
美代が話しかける。
「え?」
「どうして、他のバンドが演奏している隣で練習を」
美代が聞こうとすると、優作は嬉しそうに笑う。
「ねえ。おかしいよね。だけど、移動するのも邪魔くさいし、どうせ、あと二曲くらいで終わるだろうと思ったから。それにほら、あいつらPA回しすぎてるから、こっちがちょっとくらい演奏しようが歌おうが聞こえないし」
そういうと、優作はさもおかしそうに笑って、いたずらっ子のように美代を見上げた。
オーナーが他のメンバーと一緒にスタジオに入ってきた。優作は立ち上がると、オーナーに会釈する。
「優作、お前また勝手に他のバンドの横で練習してたろ。怒ってたぞ、リンダちゃん」
「リンダって。あいつ、セツコっていうんですよ」
「ここで本名バラすの禁止だって言っただろ」
そう言いながらオーナーも笑っている。
そのまま美代はメンバーたちに紹介され、優作のバンドのリハーサルが始まった。バンドにはちゃんとしたスコアがなかったので、美代は通しの演奏を一度やってもらってからキーボードで参加した。一回聞けばバッキングからアドリブまで、何を演奏すればいいのか美代にはわかった。わかったと言うよりも、頭の中の五線譜に音符がコピーされて、DTMのようにいくらでも演奏として再現できた。練習を重ねてブラッシュアップしていくのも、エモーションではなく頭の中の五線譜に、ただ記号を加えていくだけの作業だった。そして、今日も美代は自分の演奏がはっきりと耳に届かないままリハを重ねていた。
優作はリハーサルからギターの弦を切っていた。そんな激しいカッティングでもないのに、なぜあんなに弦が切れてしまうのか、美代には分からなかったが、それでも、優作のカッティングは美代に響いた。キーボードを楽譜通りに弾き、数パターンのアドリブをうまく組み合わせてこなしていた美代の演奏を優作のギターが切り裂いてくる。その感覚が美代を緊張させた。実際に演奏中に優作のギターに集中してしまうと、ミスをしてしまうこともあった。
いままで周囲がどんなに情感たっぷりに演奏しても、またはとんでもなく下手くそだったとしても、それに引っ張られることなんて美代には一度もなかった。それなのに、優作のカッティングにだけ美代は引きずられた。
「ねえ、どうして弦が切れるの?」
本番のステージが始まる少し前に、美代は優作に聞いた。聞かれた優作はしばらく考え込んでいたのだが、自分でも答えがわからないという表情になった。
「だけど、弦が切れるくらいじゃないとダメなんだ」
優作はそう言って、ギターの弦に触れた。
「だからといって、弦を切ろうと思っているわけじゃないんだ。僕はそんなにお金も持ってないから、ギターを弾く度に弦を買わなきゃいけないのは正直痛い。だけど、弦を切らないように演奏しようとすると、メンバーが腹を立てるくらいに僕の演奏はダメになるらしい』
「らしいって、どういうこと」
今度は美代が優作にたずねてみる。
「自分では正直わからないんだ。弦を切らないようにと言っても、別にピックを当てる力をほんの少し抜いているだけなんだ。あとは、もしかしたら、ピックのあたる角度が悪いんじゃないかとピックを持つ角度をちょっとだけ変えたり。でも、それだけで、メンバーが怒るんだよ」
「じゃ、次の曲のリハで、一度弦を切らないように弾いてみてよ」
美代が言うと、優作が笑った。
優作が言ったとおりの結果になった。美代が聞いても驚くほどはっきりと優作の演奏は変わってしまった。わかりやすく言うと、魅力的ではなくなったのだ。でも、さらに驚いたのは演奏の仕方を変えたにも関わらず、やっぱり優作のギターの弦が切れてしまったということだった。いつもより時間はかかるのだが、やっぱり弦は切れた。
「やっぱり切れるのね」
「やっぱり切れるんだよ」
二人は笑った。リハーサルが終わったあと、ベースの男は、二度とするんじゃねえぞ、と本気で怒った。