怖い夢がもっと怖い夢の入り口に続いて果てもない、みたいな世界で、できることはもう詩を読むか歌うか、しかない。
内装工事のアルバイトで合計100キログラムくらいの漆喰を壁になすりつけているとき、いつもかけているラジオから、唐突に間宮貴子の『LOVETRIP』が流れてきた。手が止まり、湿った石灰の匂いを吸い込みながら少し聴く。ベルリンのはずれ、ノイケルンのコミュニティラジオを聴く視聴者たちに、このバブル期丸出しの(油ぎった、西洋かぶれの、うそみたいな極東の一時代)惚れた腫れたの歌詞とか演歌的ジェンダー感覚がわかる人がどれくらいあるだろう、と考える。その喪失と、いつまでも退場しようせず物欲しそうな時代の亡霊も。だれかが氷河期時代、と名付けたわたしたち世代は、べつに異邦にいなくともすでに時間のディアスポラなのかもしれない──他のすべての○○世代がそうであるように。それでふらっと懐古的気分に傾きかけて、あーヤダヤダ、と、爆音の友川カズキで前頭前野を上書きしながら垂れかかった漆喰をこそげとった(ブルートゥース・スピーカーってつくづく便利、と脚立の上で思う)。生きているって言ってみろ。
小さいこどもと暮らしていると、忘れていた絵本やわらべ歌を再発見するのが楽しい。夜、ひととおり絵本の読み聞かせが終わると『うたえほん』(つちだよしはるさんのかわいいイラストに、五線譜に起こしたメロディーが載っていて助かる)を開き、こどもが眠りに落ちるまで、本人が指定した歌を歌うことになっている。布団のなかでやわらかく無防備になった意識でそうしていると、日本という国のアイデンティティの分裂を、煮え切らないジャガイモの芯みたいに、口の中に感じる瞬間がある。明治大正昭和、江戸中期以降の「童謡」だけでなくもっと昔の歌や、東北とか山陰の歌も歌ってみたいけれど、どうしたらいいのかわからない。いまのところはとりあえず、『五木の子守唄』を練習してみている。
ドイツの童謡は、いくつか楽譜を仕入れて試して諦め、もっぱら連れに任せることにした。聴いたり歌ったり、わずか二、三小節で、脳が「もう無理です退屈すぎます」、と訴えてくる。こちらの童謡はほぼ例外なく長音階で、全部の音が五、六度以内、シャープもフラットもなし。だからぜんぶ同じ曲に聴こえる。だれかが「こどもが混乱しないように」そうなっている、と言っていた気がするが本当かどうかは知らない。
歌、そして森には何か譲れない感覚があるのだろうか、その感覚とは「繁み感」ではなかろうか──ふとそう思う。宮沢賢治のすごい繁み感。津軽三味線の蔓草の先のように絡まる一音一音とか、リンディックのもつれ、ずれながら始まりも終わりもなく連綿と湧きだす音の泉に身を預けるとき、初秋、遠野早池峰の奥まったところで、稜線の樹々が風にそよぐ景色が浮かんでくる。ターコイズのように目の詰まった青空の下、ダケカンバの銀色の葉裏が何千何万、何億とひるがえってさざめいている。知覚を超越した、圧倒的な捉えきれなさに打たれながら深く安堵する感覚。うたのthicket/繁み。繁みに潜んで、眼を光らせる。