夜のバスに乗る。(4)朝までに小湊さんがしたかったこと。

植松眞人

長い信号待ち。
 小湊さんは立ち上がって、運転席に向かった。そして、二言三言、運転手と話すと戻ってきた。
「犬井さんっていうんだって」
「いぬいさん?」
「運転手さんの名前。乾くって言う字じゃなくて、犬に井戸の井って書くんだって」
「犬井さんか」
「可愛いよね」
「まあ、そうだね」
 小湊さんは笑ってまた僕の隣に座った。そして、犬井さんから貸してもらったらしいボールペンをカチカチと鳴らした。
「メモ用紙とかノートとかある? なんでもいいんだけど、書けるもの」
 僕はバッグからルーズリーフを取り出して小湊さんに渡した。小湊さんはその紙を裏返して、それから元に戻し、『バスジャック』と書いた。僕はしばらく、『バスジャック』という文字をぼんやりと眺めていた。『バスジャック』というのは、バスをジャックするという意味だ。そう思いながら、バスをジャックスということがよくわからなかった。バスを奪い取ってしまうバスジャックという言葉をなぜ小湊さんが書きつけたのか、その真意がわからない。小湊さんと、僕とがいるこのバスの中という空間と、バスジャックという言葉との間には、ただ、『バス』という連想ゲームのヒントのような言葉があるだけだった。
「やるのよ」
 小湊さんが言ったときに、なぜだか僕は運転手の犬井さんの後ろ姿に目をやった。
「このバスをバスジャックするの」
「なんで?」
「行きたいところがあるのよ」
 小湊さんはまるで、今日の昼ご飯はあのお店に行きたいの、というOLのように楽しそうに言った。僕がまったく飲み込めずにいると、小湊さんは小さくため息をついた。
「手短に説明します」
「よろしくお願いします」
「いまからバスジャックして、海に行きます」
「えっと、どこの海へ」
「説明の最中だから、少しだけ黙っててもらっていいかな。質問は後で受け付けるから」
 小湊さんは僕が以前通っていた学習塾チェーンの受付のお姉さんが入塾手続きについて説明しているような口調でそういった。
「いまからバスジャックして、海に行きます。どこの海でもいいんだけど、朝までに帰ってこなきゃいけないから……。そうね、湘南とか、あのあたりかな」
 僕は聞きたいことが次から次へと浮かんできていたのだけれど、言われた通り黙って聞いていた。
「まず、犬井さんに話をして承諾をもらう。そして、そのままバスで渡辺先生を誘拐する。もちろん、誘拐と言っても渡辺先生にはちゃんと話をして承諾をもらって、誘拐させてもらう」
「誘拐させてもらう……」
 思わず僕が声を出すと、小湊さんは僕を軽くにらんだ。
「そして、私たちは渡辺先生と一緒に湘南に行って海を見て、朝までに帰ってくる。それだけの計画です」
 しばらく僕は小湊さんが話した内容を反芻していた。
「質問してもいいかな」
「どうぞ、斉藤くん」
「このバスをバスジャックして、渡辺先生を誘拐して、みんなで一緒に海を見に行って帰ってくる、朝までに。ということでいい?」
「うん。その通り。朝までにね」
「うん。朝までに。その、朝までに、というのが大切なんだね」
「そう。大切なの」
「朝までに戻らないと……」
「朝までに戻らないと、バスジャックされたということをバス会社の人が知ってしまうし、渡辺先生のご家族が騒いでしまうかもしれないし、つまり、これが事件になってしまう」
「ということは、事件にしないように、バスジャックをして、先生を誘拐して、朝までに帰ってきて、ことを穏便に済ませる、ということだね」
「そう。さすが、斉藤くん。飲み込みが早いわね」
「ありがとう。でも、そんなことできるのかな。それからもう一つ質問があるんだけど」
「なに?」
「どうして、渡辺先生を誘拐するの?」
 僕が質問すると、小湊さんはしばらく
どう説明すればいいのか迷っているような表情を見せてから、話出した。
「こないだの春。ほら、三年生になったばかりのころ、修学旅行があったでしょ。あれに、私が行かなかったの、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ。休んだの、小湊さんだけだったから」
「その理由は知ってる?」
「親族の方に不幸があったから、と聞いたと思うんだけど」
「実は渡辺先生を好きになっちゃって、好きすぎて休んだの。もうちょっと詳しく説明するね。
 私ってけっこうもてるんだ。教室の後ろからみんなをじっと眺めているような女の子って、先生が目を付けるのよ。なんとなく、他のとは一線を画していて、大人びて見えるのかもしれない。ホントはそんなことないんだけど。だから、けっこう中学の高学年くらいから先生に声をかけられたりしたのよ。高校になってからは、特にひどかったわね。いまの高校の先生って、バカだから後先考えずに女子生徒に手を出そうとするの。なんとなく嘘っぽいでしょ。でもね、本当なの。口が硬そうな女子に声をかけてきて、『僕の奥さんの若い頃に似てるなあ』なんて言いながら近づいてくるのよ。すぐにどうこうするわけじゃないけど、隙あらばってことがわかるのよね。だけど、私は見ての通り実は子どもだし、真面目だから、そういうのに弱いの。なんか、そんな素振りを見せられただけで、軽蔑しちゃうの。そこまで極端にならなくてもいいくらいに、そんな先生のことを避けちゃうのよ。
 だけど、渡辺先生は違ってたの。あ、私と渡辺先生はなんでもないよ。付き合ったこともないし、手を握ったこともない。だけど、あ、渡辺先生は私のこと、嫌いじゃないんだなあってことはわかったの。うぬぼれとかじゃなく、女の子って、そういうの感じるものなのよ。だからって、付き合うとかそういうんじゃないの。先生として『真面目でいい子だな』って思っているのがわかる。そして、時々、十代の女の子のきらめくような若さに、クラッときているんだけど、それをおくびにも出さない。そんなふうに思われて、嫌な気持ちになる女の子はいないでしょ?」
「うん。たぶん」
「つまり、説明は長くなったけど、私は先生として渡辺先生が好きだったの。だけどね、修学旅行の一週間ほど前。授業中にみんなが問題を解いていて、先生が教室の中を見て回っていたのよ。その時、私が質問をしたの。数式を指さしながら質問していたら、先生がなんの加減か、私の指先に注目しちゃって、『小湊って指がきれいだなあ』って言ったの。言ってしまってから先生も驚いた顔して、一瞬黙ったあと、問題の解き方を教えてくれたんだけど、先生がうっかり本当に思っていることを言っちゃったんだ、ということがものすごくはっきりとわかったのよ」
 そう言って、小湊さんは右手の指を左手で覆って隠した。でも、その左手の指も充分にきれいだった。
「その瞬間に、わたしはもうダメだった。先生に恋をした、ということじゃなくて、私本当に子どもだから、なんかどぎまぎしちゃって、先生の顔をまともに見れなくなっちゃったのよ。で、いつも教室の後ろから、みんなを訳知り顔でみていたような子だから、先生の顔を見れない、なんてことを他の子に知られたらもう生きていけないって、そんなふうに思っちゃって。結局、一週間後の修学旅行も行けなかったの」
「それで、修学旅行の代わりに、バスで先生と一緒に海を見に行くの?」
「そう。修学旅行で瀬戸内海を見たんでしょ」
「うん。きれいで穏やかな海だったよ。だったら、瀬戸内海まで行かなくていいよ」
「そこまではしなくていい。ちかばでいい。でも、卒業までに海だけは見ておきたい」
 僕は小湊さんが朝までにしたいことは理解した。理解はしたけれど、なぜ、そうしたいのかは充分にわかっていなかったような気がする。ただ、小湊さんが朝までにしたいことを、事件にならないように穏便に決行することはできるような気がしていた。なんの根拠もないくせに。(つづく)