ルービックキューブ

植松眞人

 そういうのが得意な人だと思ってた。

 ひとつの面だけが赤い色に揃ったルービックキュービックを冗談めかして見せる僕に、彼女はそう言った。僕がいつもルービックキューブを持ち歩いているわけではない。たまたま立ち寄ったカフェの窓際に、使い込んだルービックキューブが置いてあっただけだ。
 彼女が化粧室へ行き、戻ってきて、頼んでいたハーブティーが来て、頃合いを見計らってカップに注ぐ。その間に、僕は赤い面をせっせと一つに集めてみたのだった。もともと、こういうパズルは苦手なので、他の面のことを考えていては、一面だって完成しない。そんなルービックキューブを横目で見ながら、彼女が僕に投げた言葉は、すんなりと僕の中に入り込んできて、そして、腑には落ちずに小骨のように引っかかった。
 最初、彼女の言葉の棘のようなものに気付かなかった僕は、とても気持ちのいい風が吹くカフェの片隅で、ふいに小さな不快に気付いて、シャツの中にじっとりと汗をかいた。

 彼女がハーブティーを飲んでいる間に、僕はもう一度ルービックキューブを手に取った。そして、ガチャガチャとキューブを回して、赤い面を崩しながら、何気ない口調で彼女に聞いてみた。
「ルービックキューブが得意な人とか、そういう人に憧れるわけ?」
 彼女は僕を真っ直ぐに見つめる。
「どういうこと?」
「さっき、言ったじゃない。そういうのが得意な人だと思ってたって。ちょっとがっかりした口調で」
 そう言うと彼女は微笑んだ。
「がっかりなんてしてないわよ」
「ほんとに?」
 そう問い返すと、彼女は少し考えた。
「そうね、がっかりしたかもしれないわ」
「やっぱりね」
 僕は今度は青い面を揃えようと、ルービックキューブを回している。彼女はそんな様子を眺めている。
「うそよ。がっかりなんてしてない。ただ、本当にあなたが、そういうの得意な人だと思ってたのよ」
 もう一度、そう言われて、僕の中から棘のようなものがすっと無くなるのを感じた。
「今ね、すごい楽になったよ」
「どういうこと?」
 彼女が僕に聞く。
「そういうのが得意な人だと思っていた、って言われて、さっき僕はとても悲しくなったんだよ」
 彼女が僕を見ている。
「だって、君が僕のことを知らなかったってことがわかったんだから。だから、僕は一瞬にして深く傷ついた」
「わかるわ」
 彼女はすまなそうに言う。
「だけど、ゆっくり理解した」
「何を?」
「ああそうか、君は僕を理解していなかったんだなあってこと」
「私があなたを理解してないのに、楽になったの?」
「そうなんだ。なぜだろう」
「なぜ?」
「わからない。わからないけど、それでいいやって」
「私はどうすればいい?」
「どうもしなくていいよ」
 そう言うと、彼女はとても嬉しそうな表情になった。
「このままでいいの?」
「そうだよ」
「わかったわ。でも、なぜなんだろう」
 彼女は僕に聞く。僕は彼女の目をじっと見ながら答える。
「どうせ、わかり合えないんだから、無理することないってことだよ」
 僕がそう言うと、少しだけ微笑みをたたえていた彼女の瞳からそれが消えた。そして、静謐とでもいうような深く濃い瞳になって僕を見つめた。見つめられた僕はルービックキューブの動きを止めた。
 二人の間の空気が硬くなり、やがて、少しずつ柔らかくなり、彼女の瞳が光を取り戻してくる。そして、にっこりと笑うと、彼女は言った。
「そうね、どうせわかり合えないんだから、無理することないのよね」
 僕は手の中のルービックキューブを見た。さっき、青い面だけは揃えたと思っていたのに、そこに小さな赤い四角が一つだけ混じっていた。