掠れ書き (6)小倉朗のこと2

高橋悠治

小倉朗の初期「ピアノ・ソナチネ」は1937年で、フランスの同時代、新古典主義の音楽の感覚に近かった。瞬間の知覚が古典的な形式の枠のなかに入れられている。これが音楽の同時代様式だったのだろうか。新しい響きと古い枠組みは、シェーンベルクでもバルトークでも共存していた。モダニズムは、自発的な響きのあそびという散乱に耐えられず、統合された構造の家に収容された。

1940年代、戦時下での孤立と戦後数年の交通の回復のあいだは、排他的な民族主義に加担したくなければ、残されていたのは古典への逃避だった。小倉朗の場合、それはドイツ・オーストリア古典音楽の模写になる。粋な響きだけでなく、持続への意志をささえる論理をみつけようとする試みだったとも言える。反時代的な方向が、その時代をやりすごす道となった。

作曲の技術なしには音楽は作れないが、音楽を作らなければ、技術はまなべない。模写をくりかえして身につける技術は他人のもの、ちがう時代、ちがう文化のもので、それを身につけた後に捨てなければ、いま心のなかで響いている音楽をかたちにはできないだろう。

作曲は分析でもなく、ことばによる解釈や批判ともちがう、音をうごかし、定着し、またうごかしていく作業で、その作用は外からは見えないが、そうだからと言って「達人の技」と神秘化するまでもない。一つの音に他の音が組み合わされ、一つの響きが別の響きに変化する、そういう流れが続いていくように心を配り、そのことに集中している時間が作曲と呼ばれるだけだ。音楽はただ時間のそって流れ去るのではない。流れのどこかに循環する回路がひらき、創るとは、すでに作られたものを作り直し、作り変える、つまりそれ自身のパロディーでもあるような関係の網がその内部にはりめぐらされたとき、音楽としての意味をもちはじめる。それらの関係が更新されている限り、音楽は停まらない。音楽はそれをその場で創りつづけている行為のあらわれである響きとなってきこえるが、行為の軌跡が作品として残されても、その分析から見える姿から、それを創った心のはたらきはこぼれ落ちていく。

小倉朗の世代の音楽家たちは、戦後ふたたびひらかれた世界のなかで、やっと同時代の音楽的課題にもどることができた。古典は記憶のなかの面影となり、はじめて現代史と対話する音楽が生まれるはずだった。加藤周一は「音楽の思想」(1972)のなかで、小倉朗の音楽を「形になった感情」と呼ぶ。戦時下の非合理な情念にさからって古典的な論理を構築した同世代の共感があったのだろう。だが、次の世代がすでに迫っていた。音楽をはじめたばかりで戦争によって中断された世代は、戦後出発した世代との感性の落差を埋めることができなかった。

加藤周一が「形になった感情」に対して「身体になった感情」と呼ぶのは武満の音楽だが、後から来た世代の音楽的感情は、これほど理解しがたいものだったのか。戦時下を耐えた古典的な論理は、もうその役割を終えて、共感をさまたげる壁となったのだろうか。

だが、戦後の解放された感覚にふさわしい音楽のかたち、断片をその散乱と逸脱のままつなぎとめる音楽的行為のネットワークは、まだ意識にはのぼって来なかった。前衛的な試みも、考えだされた規則に従って、切り離された構成要素を記号のように操作することに尽きる。音は音符であり、独立して空間のどこかに浮かんでいるオブジェのようにあつかわれていた。これはかたちを変えた古典主義ではないだろうか。「形になる」のでもなく「身体になる」のでもない、視線によって変貌するかたち、知的操作ではなく、身体的共鳴によって循環する変化を創る作曲の方法はすでにあるのだろうか。まだないとするなら、その徴を、書きとめた断片の集積のなかにさがしあてられるだろうか。未完成の建物、あるいは崩れかけている廃墟、進行中のノート、音の身振り、どこかに向けられるまなざし、一瞬の翳りが見え隠れする、隙間だらけの空間。

演奏によって死んだかたちをふたたび生かすのは、まだやさしい。再現や解釈ではなく、と言って、まったくの即興でもなく、反復でもなく、循環しながら即興的に変化し、伝承されたかたちを崩しながら、卵の殻からちがう運動を呼び覚ます、そんな演奏のありかたを思い描くことはできなくはない。響きが消えるまでの短い時間のなかに生きる音楽にとっては、演奏こそが本来のありかたで、作曲は補足的なもの、演奏への指示と結果の記録が、その分を越えて、それだけが創造であるようにふるまっているのだとも言える。

音楽の変化が現場からはじまるとすれば、それは歴史的身体の必要に応じて変化するだろうし、指示や記録方法の不適切は、後になって気づくこと、つまり作曲法の変化は、演奏の場の変化にいつも遅れて起こることになる。20世紀音楽史は、そうしてみれば転倒しているのではないか。それなら、そこに登場する作曲家や作品をエリート主義としてかたづけられるのか。ポップミュージックまで視野をひろげてみれば、実験とそのデザイン的な応用との相互作用は、コマーシャリズムや音楽ビジネスというだけではなく、表層文化の両輪が噛み合いながら回っていく。この音楽装置のなかで、相対的に自律できる場があるのか、そんな可能性は思い込みでしかないのか。

1950年代の小倉朗は、後になって「なぜモーツァルトを書かないか」(1984)のなかで「音の流れが進みながら、句読の和音(ドミナント)に向って盛り上がり切り立っていくその波頭や、砕けて散るしぶきの中に、あたかも夜光虫の光のように光を放つ感情」と要約されているような古典主義にたどりついた。それから日本語のリズムと抑揚に注目し、それも研究というよりは、じっさいにわずかな音をうごかしながらメロディーを作曲し、そのなかで発見していくプロセスだった。「日本の耳」(1977)は、その経験を書いている。

音楽的感情は、音楽の輪郭となるもの、それ(ら)は、分析の結果あらわれる構成要素や、計算された配列のように、分離され、定義され、操作されるというよりは、うごく音の全体として共有される。音楽が響くとき、さまざまな感じかたのちがいを包みこみながら、だれのものでもない空間がひらく。ちがうことを感じながら自由に歩き回れる場で、音そのもののあらわれから位相を移しながら、ちがいをそのままに人びとの心を通わせる通気口になる。それが音楽のもつ強さとしなやかさと言えないだろうか。

小倉朗が作曲から離れていこうとしていた頃に書いた「竹」(1977)という文章の一節、「だが、そうして竹の枝がほとんど露わになったある朝、竹全体が不思議なうす緑の光につつまれているのを見る」、竹の葉が枯れて飛び離れていった後に萌え出た若葉が逆光を浴びている瞬間、そこにそれぞれの意志と方向をもって飛び交う音を包む場の予感が感じられたのだろうか。