こんなタイトルをつけると、「ラーマーヤナ」とか「マハーバーラタ」を題材にしたジャワ舞踊のお話をするのかと一瞬思われそうだが、ぜんぜん、そうではない。先月予告した「ジャワ舞踊と落語とガムラン」公演の顛末である。自分の公演について自ら語るので、いつものことながら私の自慢と言い訳だらけになるはず。どうか覚悟を決めておつきあいのほどを…。
●落語
ジャワ舞踊の公演を依頼されたとき、全体を貫く大きな物語の中のシーンとして舞踊をはめ込みたいなあと考えた。いくつかの舞踊作品をただ並べるのではなくて、その作品がどんな風なイメージを持つものなのか、全体の中でなんとなく分かるようにしたかったのだ。かといって、1曲ずつ解説してから上演するやり方だと、学校の鑑賞会みたいになってしまう。神社という場所でやるなら、もっと自然にさりげない方法がいい。
「全体を貫く大きな物語」ということで、落語家さんが作ってくれたのが、ジャワを旅する男が、あの世ともこの世ともつかない所にさ迷いこんで繰り広げるお話である。上演したい舞踊作品はすでに決めていたし、2人で3曲の舞踊を出す都合上、上演順序も決まってしまうし着替えの時間も考えないといけないしで、それに合わせてお話を作るのは大変だったと思う。けれど神社という舞台も取りこみ、下げも舞踊にからんでいて、一期一会のお話を作ってくれたなあと感激している。
この落語家:林家染雀さんはほとんど毎年ジャワに行く人なので、それで安心してお話を依嘱(丸投げ?)できたところがある。彼自身のジャワ体験も反映されているから、話の内容にリアルさがある。もちろんお話は落語だし、古典の落語をいくつか下敷きにして作ってくれたので、ばかばかしさ満載の作りものなのだが、虚構というのは実感のリアリティに支えられているからこそ面白いんだなあと感じ入る。
この物語の中に、舞踊曲以外の部分でも、ガムラン音楽がお囃子としてふんだんに挿入された。落語家さんの出すきっかけで入り、しかも通常よりずっと短く演奏しないといけないから、前奏を変えたところもある。音楽だけで聞かせる曲というのは、短いようでも意外に前奏が長いのだ。でも、私が直接感想を聞いたお客さんには、きっかけがあって音楽がパッと入るその間合いの絶妙さが良かったと言ってくれる人が多かった。もっとも、これは彼が上方落語の噺家で、お囃子についていろいろとリクエストがあったからこそできたことで、江戸落語の人と組んだらどうなっていたのか、私には見当もつかない。
通し稽古の時、この公演はワヤン(影絵)のダラン(語り手であり人形遣い)を落語家に変えたみたいなあと、ふと思う。ワヤンの面白さというのも、私にとっては、語り(ジャワ語の意味は分からないけど)と、音楽が語りと溶け合っているところの面白さなのだ。「マハーバーラタ」のお話が、語りも音楽もなくて文学としてだけ読まれていたら、あれほど庶民の間に浸透しなかったんじゃないかと思う。ワヤンでは、物語によって世界が構成される。その世界の中で、物体としての人形が「声」を吹き込まれたことで、キャラクターとして生き始める。そして、そのキャラクターが生身の人間で演じられる面白さが、人間が舞踊を上演する面白さのような気がする。
ワヤンを見て育った人たちがジャワ舞踊を見るような感じで、日本の人がジャワ舞踊を見ようと思ったら、やっぱり語りがいる。舞踊作品が始まる前に、その作品の持つ世界や人物設定がなんとなく分かる公演にしようと思ったら、物語を語る形式にするのがいい。でも朗読だとまだ固い気がするし、解説で聞かされると、知識として頭に入るけれど、体に浸透してくる感じではない。では、なぜ落語なのかと問われたら、それはやっぱり染雀さんがいたから、という他ない。
●オーバーラップ
1曲目のブドヨ、2曲目のガンビョンの舞踊の途中では、染雀さんに語りを挿入してもらった。彼は舞踊は舞踊として見せたいと考えていたので、これは私からのリクエストである。ブドヨでは、ちょうど前半と後半の間で一度座るところと、最後に立ちあがって去っていくところである。ブドヨ(宮廷舞踊)の上演でこんなことをしたら、特に伝統主義者からは絶対に反対意見が噴出すると思う。
私がジャワでブドヨ公演をした時は照明を使って舞台に陰影をつけたのだが、実は賛否両論があって、かなり批判もされた。しかし、伝統舞踊には、その舞踊が生まれた時代の制約というのがある。ブドヨが生まれたときには今のような照明器具がなかったのだ。私自身、バリバリ古典舞踊というのを中心に勉強してきた経験から、振付のこの部分では、ある人物にスポットライトを当てたいのではないかとか、ここは映像だとスローモーションにしたい箇所ではないか、と思ったりすることがある。しかし、過去にそんなテクニックはなかったから、動きの振付で調整するしかなかった、と思うのである。
ブドヨの前半と後半の間のつなぎ(パテタンとよばれる部分)は、明らかに舞踊のテンションが一時解かれて、映像作品だったら一度カメラを引き、オペラ座みたいに立派な劇場での公演だったら、劇場の天井などをちらっとカメラで写すかもしれないところだ。それなら、ちらっとここで語りが入って一瞬現実に引き戻されるような効果があってもいい。しかも、そこに後半の舞踊を見るヒントなどが入っていたりしたら、もっといいかもしれない。曲の最後で踊り手が消えいらないうちに語りが入るのは、エンディング・テーマが始まらないうちにエンドロールが入りかけるようなもの、という感じだろうか。もっともこれは今回の要望であり、次回の公演では「踊り手が見えなくなるまで喋らないでくれ」と要望するかもしれない。
●おうむ返し、二の舞い
私が個人的に一番面白いと思ったのが、3曲目の「ガンビルアノム」の前後。落語の中で「ジャワの王子がえらく思いつめた様子でやってくる」ことが語られて、舞踊が始まる。この曲では恋に舞いあがっている王子のハイな様子が描かれた後、一点して落ち込んだ王子の切ない気持ちが描かれる。曲も、テンポが速くガンガン演奏する曲から、ゆったりした柔らかい感じの曲に変わり、その柔らかい曲に、今回は男性の独唱で歌を入れてもらう。ちなみに、これはジャワ人音楽家のローフィットさんが歌ってくれる。その後王子はまたどこかへ出発して舞踊は終わる。王子が去った後、さきほどのゆったりした曲を、今度は歌なしで、しかもフル編成ではなくてガドン(小編成)で演奏されるのをBGMにして、染雀さんが再度その歌の意味を日本語で語るのである。もっとも真面目な翻訳ではなく、物語に合わせた意訳になっているけれど、これで先ほどジャワ語で歌われた王子の心情がよく分かる。
王子の心情を伝えるには、ローフィットさんの歌を日本語訳するという手もあるけれど、今回、私はその手法を取らなかった。ただ、こんな風にあらためて日本語で語るという染雀さんのアイデアを見ていると、バリの「ガンブ」とかジャワの「ワヤン・トペン」(仮面舞踊劇)などを思い出す。こういう舞踊劇では高貴な人物には必ず道化などがついている。高貴な王、王子や王女は高貴な言葉でしゃべるので、、観客にはその言っていることが分からない。それで日常語でしゃべる女官だとか道化が登場して、高貴な人の言ったことを俗な言葉で言いなおしたり、滑稽に繰り返してやって見せる。ちょうど舞楽の「二の舞い」みたいな感じでもある。今回の「ガンビルアノム」の場合は、別に滑稽に翻案したわけではないけれど、これで「ガンビルアノム」の王子の物語を「腑に落とす」という感じがして良い。染雀さんとしては、その後の下げに向けてお話を構成するのに必要だから、お話のおうむ返しをしたのだと思うが、ジャワの伝統舞踊劇のツボにはまっている。落語でもこの手法はよくやるんだろうか。
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今回は公演全体ではなくて、語りの部分にだけ注目して公演を振り返ってみた。終わってみたら、なんだか「ガムラン囃子による落語の独演会・ジャワ舞踊付き」みたいになったような気もする…。舞踊だけでなく、舞踊を取り囲む世界を生み出すことができていたら良いのだが…。