「トロイメライ」のあとさき

高橋悠治

トロイメライは夢
夢のあとさきでは 漫画だな
如月小春はトロイメライは子守唄という意味だと思っていた
シューマンの「子供の情景」というタイトルをつけた曲集のなかに
「トロイメライ」がある
三宅榛名が弾いた「トロイメライ」をきいて 演奏は自由なものだと知った
それまでは 設計図である楽譜にしたがう精密な実現でしかなかった
いま考えると あれもまだメロディーの流れる時間だった
このごろは音楽を空間として観ている
音色と音色の間の距離 渦 泡 幻として
終わりのない質問 みたされない思い たちまち消える瞬間の光
作家としては失敗だったと自覚したアンデルセンが「雪の女王」を書いたとき
一人暮らしのサミュエル・ベケットが転んで
意識をとりもどした病院のベッドで書いた最後の詩
comment dire / what is the word
ことばにならないことば 声にならない声が あらわれ きえる
またあらわれ またきえる
この もどかしさ
わずかなことばのあいだに しのびこむ書かれない沈黙
声を待つ身体の
浮かび漂う
力がぬけ 力ないかたむき
おもわずよろけこむ曲がり角
逸脱からの創造 クリナメン
あそび プレイ 付け加えるのではなく 取り去る即興
手根管症候群の進行するデレク・ベイリー だが
決まり文句をつづりあわせて物語を紡ぐホメーロスではなく
穴だらけ ぼろぼろの「トロイメライ」
如月小春との出会い 「黄金虫」 孤独な身体のもがき
少女たちの空虚なことばあそび
水牛楽団と旅した「高い塔のうた」 ありふれたあいさつの 明るい闇
如月小春は広場だった
もう思い出せない「マタイ1985」
京都大学で 白い地球をかぶった浅田彰と如月小春が連弾した「トロイメライ」
その頃からの「トロイメライ」計画
配役なし 演技なし 装置なし 振付なし 白い地球以外の道具なし
舞台は薄暗く 客席は薄明るい
演劇を解体して 最小限の単語とフレーズをパフォーマーに配分する
深夜放送で知った如月小春の死
弔辞のなかによみこんだ「都市」「杉並区の自動販売機」
わ わわ わわわた わた わたし たしがこ ここに いる しらせ せせ
切れかかるくもの糸
夢で会ったものは
めざめたときにみつからない
演劇に 物語になっていった あの広場を
すべての鏡のかけらが
ほかのすべての鏡のかけらを映す夜の光に
とりもどして りもどし りも も
鳥のように地上をすぎ
as pessoas não morrem
ficam encantadas
麗という字は 並んだ鹿の角
遠くはなれた場所にいても
世界のどこかにいることを知っていた
ともだちを ひとり ふたりと みなうしない
という尹東柱の「たやすく書かれた詩」を
つぶやきうたうカヤグム奏者と小合奏のために書いた
「夜の雨がささやいて」がソウルで演奏されたのは
つい先日のこと そこには行かず
「トロイメライ」のあとは
休日もなく 他人のためにピアノを弾いてすごした
音楽はどこかよそにある
見える 一瞬だけ
見えると思いたい
なにか
なんというか
あの 遠い