メキシコ便り(12)

金野広美

ブエノスアイレスから夜行バスで18時間、イグアスの滝に着きました。ここはアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの3国にまたがるイグアス川が大小あわせて約300もの滝となって流れ落ちています。まずアルゼンチン側から「悪魔ののどぶえ」と名づけられている所に行きました。ここは大轟音とともに流れ落ちる滝を間近で見ることができます。やはり噂通りの迫力に圧倒されました。まるで凶暴なトラが咆哮しながら人間を奈落の底に落とし込んでいくように大量の水が流れ落ちていきます。滝壺は水煙が立ち上り、全く見えません。しかしその恐ろしげな白い奈落から一筋の美しい虹がのびていました。それはまるでその虹をつたって早くよじ登っておいでといっているようなやさしさに満ちていました。

次の日、ブラジル側からも見てみようと国境越えをしました。こちらは「悪魔ののどぶえ」をはじめとして多くの滝を遠景から見ることができます。歩道橋がイグアス川に張り出すようにつくってあるので、細かい水しぶきで全身濡れながらも、たくさんの滝に抱擁されたようなとてもいい気分になりました。人はよく両方の景観を比べ「アルゼンチン側の方が迫力があっていいよ。こっちを見ればじゅうぶんだよ」と言いますが、私はやはり部分と全体の関係のように両方見ないとイグアスの滝を見たことにはならないのではという気がしました。

ブラジルからアルゼンチンに戻り、今度はパラグアイへ行きました。国境の街シウダー・デル・エステはブラジルやアルゼンチンにも頻繁にバスが行き来し、闇マーケットがあるため安い品物を求める人でごった返していました。私のパラグアイでの目的はここから41キロの所にあるイグアス市の移民資料館を訪ねることでした。パラグアイの日本人移民については知らないことはないという園田さんに案内してもらい体験談も含め、いろいろ話を聞かせてもらいました。パラグアイで日本からの移民が始まったのは1936年、1200人が入植しました。日本政府の「少しがんばれば豊かな作物が実る土地が自分のものになる」という宣伝文句を聞き、希望に胸ふくらませてやって来た人たちが連れていかれた所は、うっそうとしたジャングルの中でした。みんなテント生活をしながら、木々を倒し、それらを焼き、畑をつくり、作物を植えました。しかしイナゴの大群にやられ、そのイナゴを食べて飢えをしのいだこともあるということでした。そういえばコスタリカで知りあいになった宮城テツコさんもパラグアイに10歳のときに家族に連れられて入植し、10年間イナゴの被害にもめげずがんばったそうですが、結局パラグアイでは食べられず、アルゼンチンに移ったそうです。今では洗濯屋を営みながら、息子のアキラさんと暮らしています。彼女たちとはブエノスアイレスで会い、カルネアサードをごちそうになりましたが、パラグアイでの筆舌に尽くしがたい苦労話をいろいろ聞かせてもらいました。

このように大変な移住生活がパラグアイではあったようですが、しかし今では野菜の栽培に成功し、特に大豆はもともとパラグアイにはなかったものでしたが、今や強力な国際商品になっているということでした。現在パラグアイには6000人の日本人がいるということですが、ここでの悩みも高齢化で、若者たちはサラリーのいい、豊かで楽しそうな日本に行きたがり、そしてそのまま戻ってこないというケースが増えているそうです。結局、村に残るのは老人と子供。まるで日本の農村と同じ状況がここパラグアイでもありました。イグアス市の日本人居留地は赤土の畑が広がっている何もない、静けさだけがある所でした。食料も日本食材が何でもあるので、もう少しゆくりしていきたかったのですが、このあとアルゼンチンフォルクローレのメッカといわれているサルタに行きたかったので先を急ぎました。

ここではアルゼンチンのバスの便についてはわからないので、とにかく国境だけは越そうとパラグアイの首都アスンシオンのバス停まで行きました。サルタ行きはフォルモサという町から出ているとのこと、3時のバスに乗り4時間、フォルモサに着いた時はサルタ行きはとっくに出てしまい、やむなくここで一泊しました。イグアスを出たのが朝の7時、フォルモサに着いたのが夜7時。すっかり疲れてしまい、その夜は爆睡してしまいました。次の日の夕方5時にサルタ行きに乗り、着いたのが朝の7時、予想はしていましたが長かった――。

サルタはブエノスアイレスから1600キロ。ブエノスアイレスがタンゴのメッカなら、ここはアルゼンチンフォルクローレが盛んなところです。町中どこからともなくフォルクローレの音楽が聞こえてきます。着いた日の夜ペーニャ(フォルクローレが聞けるライブハウス)が集まるパセオ・バルカルセと呼ばれる一画に行きました。完全に歩行者天国になっていて、一晩中各ペーニャやレストランではいろいろなグループが歌っています。その中のひとつに入り、チャンゴ・デ・サルタという男性3人組の骨太の歌を聞きました。次の日はアルゼンチンが生んだ「フォルクローレの巨人」といわれているアタワルタ・ユパンキの生誕100年祭のコンサートが街の中心にある7月9日広場の前のテアトロ・プロビンシアルでありました。2500人は入る会場は無料ということもあるのでしょうが、満杯でした。ゆかりの人たちがユパンキの思い出を語り、マリーナ・カリーソやトーマス・リパンが歌うユパンキの作品を堪能しました。彼の代表作に「トゥクマンの月」というのがあります。これはアルゼンチンに軍政がしかれていた時期、ユパンキが故郷に帰れず、フランスで望郷の思いを込めて作った曲だといわれていますが、私はこの曲が大好きで、長年トゥクマンに行ってこれを歌いたいと思っていました。トゥクマンはサルタから5時間のところにあるコロニアル建築が残る美しい街だそうです。

しかし、バスの便が悪くて時間に余裕がなく、行くことができませんでした。でも、このコンサートの最後に会場も含めた全員で「トゥクマンの月」と歌いましょうという司会者のよびかけに、心をこめて一生懸命歌いました。歌い終わった時、隣に坐っていたヘクトル・モラレスという初老の男性が話しかけてきました。彼もユパンキが大好きだそうで、ユパンキやアルゼンチンフォルクローレ、果てはチリのフォルクローレの話になり、キラパジュンやビクトル・ハラも好きだ、と言ったとき、何だかとてもうれしくなりました。私がメキシコでの生活について話すと、彼もメキシコに5年間いたそうで、おまけに私の家の近くだったためローカルな話で盛り上がってしまいました。そしてなぜメキシコにいたのか聞いた時「亡命していたんだよ」とさらりと言われ、一瞬時間が止まってしまいました。アルゼンチンでは1976年ホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領が指揮する軍事政権が発足、国内のペロン(元大統領のフアン・ドミンゴ・ペロン)支持派や左翼勢力を弾圧したため、3万人が姿を消したといわれています。彼もこの時アルゼンチンを出たそうで、メキシコ、ボリビアで暮らしたといいます。今では柔和な年金生活者といった風情の彼は私をホテルまで送ってくれ「いい旅をしてくださいね」と言ってくれました。そんな彼の背中を見送りながら、これからの人生がどうぞいつまでも平安でありますようにと祈らずにはいられませんでした。