しもた屋之噺(78)

杉山洋一

5月、相変わらず瞬く間に一ヶ月が過ぎていきました。
中学の頃から繰り返し読んでいる本の一節に、「人生は信じられないほどのスピードで過ぎ去って行く。私たちは秒速30キロで空間を走っている」とあるのを思い出します。さして出歩いているのでもなく、家でぼうっとする時間もあった筈なのに、振り向けば、軽い眩暈のように揺らめいて見えるのは何故でしょう

日付は既に31日になりました。大阪・京橋のホテル、21階から眺める夜景はとても美しいです。数日前、初めて京橋に着いた日に一人で出かけた、国道1号線沿いの鰻屋「紫煙」に、今日最後の練習が終わったところで、望月みさとちゃんと連立って出かけ、気のいい親父さんが焼く絶品の蒲焼に舌鼓を打ってきました。それからホテルのロビーで、照明の岩村さんや音響の有馬さんと明日、最早今日の本番の最後の調整をし、今部屋に戻ってきました。この21階の部屋に遠くから聞こえてくる、懐かしい踏切の警報機の音や、馴染み深い学校のチャイム、穏やかな救急車のサイレンが、自分が生まれてから25年間送った時間の深さを思い起させてくれます。

今回の演奏会では、大阪いずみシンフォニエッタの皆さんと、みさとちゃんのエテリック・ブリープリント3部作を演奏します。今回、特に限られた時間内での練習でしたが、内容の濃い、充実した時間を過ごすことができました。15個のワイングラス、ワインボトルの他、旨い加減で水滴を落とすものなど、特殊な楽器装置が数多く使われているので、練習の前にまず楽器の調達、準備だけでも大変なのに、とても前向きで気持ちのよい練習をさせて頂けてとても嬉しかったです。

5月末だというのに、数日前に飛立ったヴェニスの空港は深い霧に包まれていて、パリ便が1時間遅れで漸く飛立ったときには、おもわず溜飲をさげました。機中今回のみさとちゃんの楽譜を眺めつつ思い出していたのは、「自分にわかるのは、自分が何も知らないという事実のみ」。何度見返しても、気付かなかったことばかりが目につき、文字通り自分の目は節穴かと納得したものの、着いてすぐ練習が始まることを考えて、思わず溜息がこぼれました。

みさとちゃんの楽譜は「生物」のように見えます。それはつまり、狭義における対位法的声部の成立、発展よりむしろ、作品がひとつの社会を形成しているように感じられたからです。「生物」が社会の構成員としてばらまかれていて、それらは対位法のように多層構造として、重ねあわされるのではなく、まるで航空写真で衛星地図か航空写真で、社会の俯瞰図を眺める気がします。

曲という社会、枠を与えて「生物」を放すと、解放たれた「生物」は、社会の中で、各自社会の規律を学んでゆきます。アメーバーのような自在な形をしていて、生きているから当然各自別々に呼吸をしてゆくことで、社会構造が活気を帯びてくる。彼女の楽譜はそんなイメージをさらさらと書いたようなところがあって、決して頭でっかちな音楽にならないところに感嘆します。

今回、水滴や、盥に溜めた水をかき回したり、そこに息を吹き込んだり、沢山のホース、なわとび等、多くの非楽音・日常音が取込まれています。この手の非楽音を取り入れた作品は、得てしてコンセプチュアルに妙に頑ななものが多いのです。楽音でない素材の「楽音化」にあたり、強烈な格式化、形式化のような手続きが踏まれることが多いなか、みさとちゃんの場合、「まあいいのよ、使っても使わなくても」という、投げやりなくらいの距離感があり、それが曲としてとてもよい影響を与えていて、彼女はこれらと楽音がまるでじゃれ合うかのごとく、ほとんどユーモアのセンスすら交えて、上手に「社会構成員」としての役を果たせることに成功しているとおもいます。難しい定義づけとか、格式化のような重苦しさがないため、社会は常に活気と驚きに満ちていて、それが彼女の音楽の魅力になっているとおもいます。

同じものを見ていても、ちょっと視点を変えるだけでまるで別のものに見えたりしますが、この同い年で、実際仲よしの作曲家の楽譜を勉強していると、彼女がものを観察するときの視点の柔軟さに、思わず彼女がこの社会をどんな風に見ているのか、ひょっとしたら、同じものを見て、同じことを感じていても、全く違う風に見えているのではないのかしら、と訝しく思ったほどです。音楽の構造や、「社会」の並び、「社会」のアメーバー具合を見ていると、一番近い感覚は「雅楽」ではないかと感じました。その昔「雅楽」に啓発された話も聞きましたし、あながち的は外れていないかもしれません。

ではこの1ヵ月、自分にとって秒速30キロの社会生活は何を残しているか、考えてみました。

毎日、何通と送られてくる指揮科の生徒間のメールのコピー。ベルルスコーニに政権が移り、ミラノ市は学校の援助資金、大幅カットを決め、学生たちは集会を重ね、署名運動をし、市長や文化担当官に書簡を送り、新聞に抗議文を掲載し、見直しを叫んでいるけれども、そんな姿をどこか冷めて見つめる自分。

時を前後して、或る朝9時、早朝のスカラ座脇の喫茶店で、学院長を必死に説得する自分の姿。「フルヴィオ、よく考えてみてほしい。本当に後で後悔しないのかい」。困憊した顔を、より一層険しくさせ、彼は目を落とし、すくめた首は長い影を引いた。エスプレッソは、不釣合いな大きなカップに無機的に入っていた。

まだ楽譜は送ってこないの、演奏者からメールが届くと、続いて彼女のエージェントから、様子はいかがでしょうと慇懃な電話が掛かり、しどろもどろになりながら応答しつつ、庭の向こうの中学校の校庭でサッカーに興じる子供たちを眺めている。

次々と送られてくる楽譜。自分の譜読みが遅いのを恨めしく思いつつ、秋までに読まなければいけない楽譜を試しに重ねてみて、厚さに仰天し、すぐに戸棚にしまい込み、怖気づいて近所の喫茶店に出掛けた。

学校の授業で学生に歌わせたメシアンの旋律課題の美しさ。シンプルな和声進行と、艶かしい旋律。学生は嬉々として繰返し合唱していて、2階のどこからともなく聞こえるメシアン即席合唱団に、中庭で遊ぶ子供が思わず手を止め聴き入っていた。

一足先に日本へ発つ家人と息子が、空港のパスポートコントロールの向こうで、手を振る。庭の芝生のまにまに生え盛る雑草の逞しさを思う。無心で毟った雑草の山。芝生を刈ったあとの草の匂い。

朝4時に起き早朝の便でローマに飛び、ボルゲーゼ公園「映画の家」で記者会見。オペラ座の関係者と一緒に叩きつけるスコールをコーヒー片手にぼんやり眺め、文字通りとんぼ返りでミラノに戻って24時、自宅のキッチンで、庭で摘んだパセリを沢山刻み、一人、唐辛子入りのジャガイモのパスタを作る。

21年の誕生日を目前に死んだ実家の老猫。端正な三毛猫。腹に氷を敷いた亡骸の前に神妙に煎餅を供えしていた3歳の息子。楽譜を眺めていて、全ての音符が有機的に浮き上がる瞬間、別の自分が小さく呟いた。「Take off!」

放っておくと、もうすぐ夜も明けてしまいます。みさとちゃんの「エテリック三部作」どんな素敵な演奏会になるか、期待に胸を膨らませながら、布団に潜りこむことにいたします。この数日間、ハードなリハーサルに文句一つ言わずついて来て下さった演奏家の皆さんに心から感謝しつつ。

(5月31日朝5時 大阪のホテルにて)