しもた屋之噺(75)

杉山洋一

春が近づいてきているのでしょう。毎日、庭にさまざまな鳥がやって来るようになりました。去年はそんなこともなかったと不思議に思っていると、どうやら庭の端の落ち葉を積んだ堆肥に、昆虫が増えてきたようです。今朝も、梢で黒い鳥が尾を揚げて求愛していると思った途端、どこからともなくもう一羽が屋根の上を通り越してゆき、先ほどの鳥も、思いつめた必死な形相でいじらしく追いかけてゆきました。

ボローニャの仕事が終わって、そのままスイスのイヴェルドンへ録音のエディティングを仕上げるため出かけたときのこと。録音技師の親友宅に泊めてもらうと、それは落ち着いた素敵な内装で、飾り付けられた果物や紅茶まで用意されていて、キャンドルがともされた朝食のジャムも紅茶もそれは美味しく、さすがにイタリアとはもてなし方が全然違うと感嘆していました。

さて帰ろうという段になり、これほど良くして下さって、どうお礼を言えばよいか、と言った途端に気まずい雰囲気になり、「請求書はどこに出せばいいのかな、レコード会社かね、それとも君に直接請求すればいいのかな」、とぼそっと言われびっくりしました。その場を取り繕いお金を払うと、ていねいに領収書まで切ってくれて、「いやあ本当に来てくれてありがとう! また、いつでも来てね」とご主人に突然抱擁されたのには、二度びっくりしました。

面白かったのは、録音技師のスタジオにゆくと、部屋中がベトナムだらけなのです。ベトナムの大きな地図があり、ベトナム戦争時の大きなポスターがあり、ミキサーの上には、ベトナム語でなにやら入力のガイドが貼ってあって、思わず「ずいぶんベトナムが好きなんだねえ」と言うと、「そりゃそうだよ。娘はベトナム人だもの。ほら、この写真がうちの娘だ」。と、愛くるしい12、3歳の少女の写真を見せてくれました。
「ベトナムに行ったことがあるのかい」と尋ねると、「何度かあるよ。素敵なところだね」。
楽しそうに話す様子から、ベトナムに住んでいた風でもなく、夏にイタリアで録音したとき、金髪のご婦人を彼女だと紹介されていてこちらは少し頭が混乱しましたが、どうやら養子にもらったベトナム人の娘さんと一緒にイヴェルドンに住んでいるようで、2年前のベトナム旅行の写真を楽しそうに見せてくれました。
「それでこれが上の娘でね」、とアルバムの続きを見せてくれると、今度はイスラムの真っ黒の布を全身をかぶり、目のところだけが四角く窓があいているニカーブをまとった女性の写真を見せてくれました。
「彼女はカサブランカにいてね、先日下の娘と会ってきたときの写真なんだ。これが娘婿。ハッサンという気のいいヤツさ」。

こうなると、こちらはいよいよ頭は混乱するばかりで、「娘さんの宗教は何なの」と質問するのがやっとでした。
「彼女はもちろんイスラムだよ」と嬉しそうに微笑みました。
真っ黒のニカーブの女性と、可愛らしいベトナム少女の娘さんをもつ録音技師が淹れてくれた日本茶をすすりつつ、自分はベトナム語のインターネット・テレビの普及に力を注いでいるんだ、と話してくれました。海外に住むベトナム人たちがベトナム語で見られるニュースを、配信を始めて、今ではスイスやフランスなどヨーロッパに限らず、アメリカなど各国からアクセスがあり、そのなかで突出しているのが台湾なのだそうです。彼はその昔はマダガスカルに駐在していて、マダガスカル初のラジオ局を開設して文化的にとても貢献したので、今でも行きたいと言えば、マダガスカルからいつでも旅費から滞在費まで全部賄ってもらえる立場だとか。何とも不思議な録音技師との出会いでした。

スイスから帰ってきて数日して、ブソッティの未初演のオペラの楽譜を読みに出かけました。近所だからと気を許して読んでいると、時間が経つのも忘れて、朝10時過ぎから午後の5時くらいまで、さまざまな大きさの黄ばんだ紙にインクでていねいに書かれた、手書きの原譜を読み続けました。

そのうちの一つ、実に壮大なメロドラマ「悲しみの父 Patre doloroso」は、ルネッサンスの画家、ルカ・シニョレッリについて美術史家のヴァザーリが書いた伝記に想を得ていると言います。シニョレッリは、構図の性別に関わらず常に自分の息子にモデルをしてもらっており、女性の場合は、後から体型を加筆したのだそうですが、言うまでもなくシニョレッリにとって息子はとても大切な存在だったわけです。その息子が他界してしまったとき、シニョレッリは三日三晩その息子を惜しんで絵を書きなぐった、という逸話に基づいています。

「パリのスタジオ。写真家・ルカ・シニョーリが、息子を使ってその昔ルカ・シニョレッリが書いた壁画を写真で再現しているところに、今度トウキョウで執り行われる皇太子の納采の儀(婚約の儀)の写真を撮ることを許された唯一の西洋人写真家だと告げられ、神秘のベールに包まれた街、トウキョウへ向かう。ところが、その仕事の最中、パリから息子セデリック急逝の知らせが入る。仰天した父親は、すぐさまパリに戻り、その昔ルカ・シニョレッリがしたように、美しい息子の姿三日三晩一心不乱に写真に撮り続ける。そして、まばゆい光に輝く霊安室に亡骸を運び、最後は、ブソッティのパートナー・ロッコの故郷にある、海辺の墓地へ埋葬される」。

居間のソファーで楽譜に夢中になっている傍らで、ブソッティは大きなロッキング・チェアーに身を沈めていて、奥の台所では、ロッコがかいがいしくご飯の用意をしていました。小説を読むようにひき込まれながら読んでいると、「どうだ、とても宗教的だろう」、と誇らしげにつぶやきました。

左の筆頭のような同性愛者のインテリが、宗教的という言葉を使うのに時の流れを感じ、思わず感慨をおぼえました。読み進みながら、確かに彼の父性の強さが心を打ち、センチメンタリズムとも違う、息子に対するまなざしは、文字通り父親そのものだと独りごちました。これは何だろう、因襲的な家族という形態とブソッティは遠い存在だと思い込んでいたのは、自分の誤りだったと悟りました。

ロッコが作ってくれた野菜のパスタに舌鼓をうちながら、最近彼らが関わったオペラの演奏について話していました。大凡気に入らないことが多かったようで、演奏よりもむしろ演出の話に花が咲きます。
「指揮者は頑張っていたんだよ。演奏はだからさほど悪くはなかった。でも、やっぱり演出が気に食わない。何しろ劇場支配人が、ぼくとロッコを使わずに、お抱えの演出家を使ってしまったからね。その演出家も若いながら、頑張ってはいたんだよ。でも自分が思い描いていたものとは違うんだ、なあロッコ、そう思わないか」。
ふと、耳を傾けながら、神経が研ぎ澄まされる気がして、思わず息をのみました。

「ぼくとロッコにとって、これが子供だから。どの家族も子供に自らの軌跡を託してゆく。ぼくらにとって、作品は子供と同じなんだ」。

(2月25日 ミラノにて)

追伸
吉清さん親子がどうか一時もはやく見つかりますように。
祖父が網元でよく祖父の船に乗せてもらいました。