己が姿を確かめること(2)ビデオを使うこと

冨岡三智

私がまだ留学する前で、ジャワで習った舞踊を一人で細々と練習していた頃、鏡を使って練習するのはよくない、ビデオを使う方が自分の動きが客観的によく分かるとアドバイスしてくれた人がいた。たぶん、鏡を見て練習すると自己陶酔する危険性があるけれど、ビデオに撮ればその心配はない、ということだったのだろう。けれど、実のところ私にとってはどちらも大差なくて、ビデオに撮っても自分の動きは客観的には全然分からなかった。それは―その1 鏡を使うこと―でも書いたように、横に具体的な比較対照者が写りこんでいないと、まだ判断できなかったからなのだった。

今では、公演のビデオ記録を見て動きを見直してみることがある。けれど、自分で意識できている自分の癖はよく見えるけれど、まだ意識できていない癖は見えない気がする。さらに、ビデオを見ることによって、他の人と比較して自分だけが違っている箇所がどこだか分かっても、それが修正すべき悪癖なのか、他の人にはない個性に成り得るものなのかは、私にとってはまだよく分からない。鏡やビデオという外部視線によって自分の動きを確かめるのは、本当は、そういうことがはっきりと分かりたいがためなのだが。

ビデオを使いこなせるのは(このことは録音にも当てはまる気がする)、先生=自分が真似したい見本の動き(演奏)を完璧に真似しようと思っている人だという気がする。最初から先生を真似しようとビデオを見ていて、たぶん先生の動きを見取ることにも長けている。だからビデオに自分1人しか写っていなくても、その横に先生の姿を想像して、比較して見ているのだろう。

それはつまり、自分の外部に既にモデルがあるということなのだ。けれど自分の上達したい先のモデルは既にあるとは限らない。漠然とはしているものの、ある理想のイメージを追う時には、ビデオの中に答えが見つかることはないような気がする。

留学中、私がビデオや録音に精を出さなかったのは、完璧に真似する能力がなかったからでもあるけれど、理想のモデルが現実の先生ではなかったからだ。私は、その時点において先生が達している状況を理想にしていたのではなくて、先生が目ざしていたであろう方向の先に、私の理想の方向を重ねていた。

私の理想は当初は茫漠としていたけれど、それが自分にとってある程度具体的な像を結ぶようになった頃から、比較対照者が一緒に映っていなくても、ビデオを練習に活用することができるようになってきた気がする。とはいっても、以上のようなことだから、私は細部の動きのチェックにビデオを使うことはあまりしない。上記の通り、ビデオを見ても、映っている私の動きが悪癖になるものか個性になるものかを判断してくれるわけではないからだ。そういうところを見てくれるのは、やはり師匠のまなざししかないような気がする。