山田亮太さんの詩集『オバマ・グーグル』刊行記念のトークショーの中で金澤一志さんが、さらっと、しかし何度かこうおっしゃった。「この詩集のつくりは工芸的で、配慮にあふれている」。8月、oblaat が主催する Support Your Local Poet Meeting でのことで、こんなこともおっしゃった。「僕はこの中で『みんなの宮下公園』しか読んでいません」「この詩集は読む必要はありません。しかし構造を知る必要がある」。読まずに構造がわかるはずはないのです。金澤さんのこのキザな物言いを頭にループさせたままに、『オバマ・グーグル』に改めて目を通す。一部は「災害対策本部」とタイトルされて、「ユリイカ」のもくじや渋谷の宮下公園で見られた文言から引用した作品などが並び、二部の「オバマ・グーグル」は2009年1月25日17時30分にグーグルで「オバマ」を検索してあらわれた100のウェブページから引用したことばで成り立つ「オバマ・グーグル」一編、三部は「戦意高揚詩」として五編が並ぶ。何度もページをめくるうちに三つのタイトルこそが重要であると思えてきて、二部の「オバマ」はほかの名前、たとえば「シカマ」でもよく、この三行による一編の詩がこの詩集のすべてで、”言葉”という著者による陰謀告発本に見えてきた。
今もってこうして何でもかんでもわざわざ印刷して本にしたくなるのは、むしろ言葉が思わぬところまでばらばらにしかも瞬時に広がりうるようになったからこそ、組み立てた順番や時間や場所を保持した一つのかたまりとして認識してもらいたいからであって、あるいは分解を拒む”言葉”自身が孤立防止策として身体に欲求を与えているのかもしれない。”言葉”らは災害対策本部を作って警戒し、”意思”や”思考”に恐れを与えるいっぽうで、それらに依らず自ら集結して戦意高揚詩となる。”身体”は陰謀に気づくことなくまんまと高揚し、印刷して製本してせっせと運び、美しい本とは内容と外形が揃ってこそだ、読めなければ本ではない、書物の美しさは工芸としてのこと、など語ったりする。”言葉”らは微笑む。かためてモノにしてくれてひと組でも長く残してくれたらそれでいいのだ。読んでもらわなくてけっこうけっこう。酸素もいらんのだし。積ん読本に優しく見守られる秋の午後。