しもた屋之噺(215)

杉山洋一

ローマに向かう機中でこれを書いています。ふと気になって窓の日除けをあけて外を眺めると、雲一つない透き通った漆黒がうつくしく、凝らしていた眼が馴れてくると、右奥がほんの少しまだ黒い水平線と空との境界線が見えます。その奥深く、ほんの赤ん坊の足の爪のように細く小さな月が橙色に燃えていて、周りに星一つなく、孤高に光を放っています。どうやら星たちは、ずっと天の上の方で瞬いているようです。

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11月某日 ミラノ自宅
14年前から住んでいる拙宅の玄関の鍵が回らなくなって、ボローニ金物店に相談にでかけた。老夫婦二人で経営していて、外装といえばイタリアらしいくすんだ深緑のペンキで塗られたシャッターにFerramenta Boroniと書いてあるだけで、足を踏み入れれば、まるで数十年間変わっていないであろう古い鼠色の整理棚がびっしり並ぶ空間だったから、時々訪ねては老夫婦と話し込むのが好きだった。

鍵が壊れたので久しぶりに店に顔を出して四方山話をしている、右の棚に高さ20センチほどの黄金色のメダルが飾ってあるのに気が付いた。ミラノ市がこの金物店に贈ったもので、1929年から続く歴史的商店として表彰されている。反対側の壁を見ると、そのメダルの内容と同じ表彰状が、大切に額に入れられて飾ってあった。聞けば店主の祖父の代からミラノで金物店を営んでいて、このジャンベッリーノ通りには1930年後半に移ってきたという。1929年というのは、ミラノ市が商店開業に際しライセンスを発行するようなった年だそうで、実際は1922年から店主の祖父がポルタ・ロマーナで金物屋を開いていたと誇らしげに話してくれた。

ふと、目の前のA4ワープロ打ちの文章に目が留まる。「この11月16日をもちまして閉業いたします。長らく有難うございました」。別の商店のお知らせかともう一度読返すと、閉業するのは何とこの金物屋だった。

驚いて目の前の老夫婦に次第を尋ねると、すっかり歳を取ったので体力的に厳しいし、市から帳簿はインターネットを使えだの言われて困るし、息子は今は建築の仕事に携わっていて、高速道路を設計しているからね。この店なんて継がせられない。と、少し嬉しそうに話した。

店主に腕の効く鍵職人を紹介してもらい、拙宅の玄関扉は直ったので、家人のCDに「有難う!」とサインをして金物店を訪れたところ、もうすぐ閉店だと言うのに、店には老夫婦以外誰もいなかった。二人共うつろな顔をしていたが、CDを差し出すと急に嬉しそうに笑顔になった。ここで話しこむのはちょっと辛いと思い、「じゃあね、またね」と言ってすぐに外に出てしまったが、日本から帰るころには、この外装も変わっているかと思うと寂しい。ここで何度ナポリ式の旧型コーヒーメーカーを買ったことか。このコーヒーメーカーは普通の店には売っていない。鍵職人を紹介してもらったお礼に、売れ残っていたナポリ式コーヒーメーカーを二つ購入した。

11月某日 ミラノ自宅
音楽家をもう随分長い間やってきているのだが、未だに楽譜を広げる度、自分はどうしてこれ程譜読みが遅いのかと思う。譜読みが遅い上に性格は大雑把で、不器用である。乱視の老眼のお陰で目が困憊するし、いつも絶望しながら楽譜を広げる。

頭から精読してゆく性分ではないので、大雑把に全体を何度も眺めてゆくうちに、少しずつ細かい部分に目がゆくようにし、音が鳴るよう努力する。指揮の譜読みは気の遠くなる作業だと思う。初めてエミリオのところにシューマンの交響曲を持って行ったときも、この音符を一つずつ読むことは自分には到底できないし、根気も続かないと思ったが、辞めさせて貰えぬまま、未だに何故こんな慣れないことをやっているのか不思議でならない。単に他に食い扶持がなかったのだから仕方がなかったのだろう。指揮する上で、楽譜を読む作業は8割か9割の仕事量を占めるはずだ。

何度も根気よく続けてゆくうち、炙り出しのように、音が少しずつ浮かんでくる。それは現代作品であれ、古典であれ、ロマン派であれ同じ作業だ。音を単に音として認識するのと、音楽として認識するのは全く異質だ。文字として認識するのと、文字が連なって単語として意味を含めて認識する違いだ。音楽としてスコアから音楽が浮かび上がるときは、まるで三次元の写真や絵を鑑賞するような愉悦を味わうけれど、それは最後のほんの一瞬であって、そこに至る過程は、苦痛と絶望の連続だ。

京ちゃん曰く「洋一くんはやっぱり細かいよねえ」、だそうだが、こちらから言わせれば、正反対である。尤も、彼女と長らく親友として付き合えるのは、丁度反対の性格だからに違いない。

11月某日 ミラノ自宅
折り畳み自転車を抱えて、日帰りでジュネーブに出かける。必要最小限しか楽譜が読めていなくても、とにかくイサオさんと新作の打合せが必要なのは楽譜を開いた瞬間にわかった。自分が理解できるまで読み込むべきものと、実際にやって疑問を氷解させるべきものがある。ちょうどイサオさんがコンクールの審査員でジュネーブ滞在中だったので、コンセルヴァトワール・ポピュレールの地下の一室を借りていただき、リハーサルをした。

ワインセラーのように掘られた地下3階の部屋の入口は、思わせぶりの鉄格子がかかっていて、少し不思議な部屋だった。暴力とや迎合が主題の新作にはお誂え向きの場所だったのだが、それすら気が付かないほど、二人ともリハーサルに熱中した。途中、イサオさんが近所でサラダとフォカッチャを買ってきて、このワインセラーで一緒にお昼を食べながら、初対面だと言うのにすっかり話し込んだ。話題は音楽のみならず、子供の教育環境や政治にも及んだ。イサオさんは、カールスルーエに自ら友人たちと日本語の補習校を開いて、娘さんはそこで日本語を学び韓国語は別の韓国語学校で習得して、ドイツの公立学校を進学して、今は大学に通っているという。

イサオさんの音がとても生命感に溢れていて、愕くのと同時に一緒に演奏するのが本当に愉しみになった。聞けば韓国民謡に新曲のパートを当てはめ暗譜したそうだ。彼は躍るように演奏し、音は彼の音楽と共に躍る。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりにジャコモ・マンゾーニからメールが届き、開いてみるとエウジェニアの訃報であった。11か月に及ぶ闘病生活はいよいよ苛烈になり、最後は手の施しようがなかった。気にかけてくれているのは知っているのでお見舞いなど一切無用だ、と教会嫌いの共産党員らしいメッセージが続く。

エウジェニアはヴェローナ生まれで、ドナトーニの幼馴染だった。戦時中ナチスがヴェローナを跋扈していた頃のエピソードなど、ドナトーニの話としばしば合致した。少し濁った音のヴェローナ訛もドナトーニと一緒で、本当に溌溂とよく話す、小柄で闊達な老婦人だった。戦時下、彼女の家にユダヤ人を匿っていて、そこにナチスの憲兵がピアノを練習させてほしいと訪ねてきた話など何度も聞きながら、戦後イタリアの文化人が揃って共産党員になったのは、戦時中のナチス体験や、その後の内戦が酷く影を落としているのを感じていた。マンゾーニやブソッティのような作曲家、アバードやポリーニような演奏家、パゾリーニのような文筆家のように政治色を詳らかにする時期もあった。

今の若いイタリアの学生からすれば、別の星の出来事のように感じられるかもしれないが、25年前にイタリアに住み始めたばかりの頃は、まだその雰囲気は微かに肌で感じられた。今となっては貴重な体験だったと思う。

11月某日 三軒茶屋自宅
ニュースに映る香港の理工大の大学生たちの姿が、半世紀前のボローニャ大学の占拠や、世界各国の学生運動を想起させる。思想的にはまるで違うが、それぞれの自由思想が行動を起こさせたところは似ている。天安門事件のニュースを見た時は、まだ何も理解出来なかったが、香港では中学生までも自らの信条に基づきデモに参加していて愕く。日本に滞在するチベット難民と知り合ってから、中国各地の民族浄化政策なども、より身近に感じられるようになった。

ところで、日本でポータルサイトのニュースを読むと、見たくもないインターネットゲームや成人漫画の宣伝ばかり写りこむのは何故だろう。その隣に、少女がSNSで知合った成人男性から事件に巻き込まれ、などと書かれてあって、暗澹たる気分になるので、ポータルサイトを読まなくなった。自己責任という言葉を誰もが気軽に口にするようになったのは何時からか。現在のようなインターネットに匿名性は必要ないし、SNSやインターネットゲームで子供が事件に巻き込まれるなら、目立つところになぜ宣伝を出すのか。子供に毒を撒き散らす、我々にも責の一端はないのか。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの新作も、京ちゃんの「むすび」も、悠治さんの「歌垣」にも、雅楽や雅楽の手法が使われているが、それぞれ全く異質な結果をもたらす。我々が継承してきた文化とは、実は幅広い可能性に満ちている。細川さんと悠治さんが繋がっている印象はなかったのだけれど、考えてみれば、イサン・ユンを通して近しかったに違いない。

細川さんの楽譜を読んでいて、音楽の本質とオーケストレーションとの同一性に感嘆する。当然のようだが、音楽の本質とオーケストラの質感が同意義である必要はないし、そうした作風は決して多くない気がする。

細川さんご自身、自作を書道に喩えられるから、本質と形象が密接に繋がるのは当然だが、細川作品の演奏のむつかしさは、演奏の瞬間、演奏者の意識が、たとえば書道で言えばどこにあるのか、それを理解する必要ではないだろうか。

筆を進める書家の魂なのか、手の動きを客観的に凝視する第三者の眼差しなのか、半紙の側から目の前に迫る筆先や垂れたり、ほとばしる墨汁を間近に見続けることなのか。書家の魂は、その意識が筆先に向けられているのか、空や宇宙に向けられているのか、或いはどこにも向けられず、自分の身体の中に留めておくべきものなのかによって、紡がれる音楽は大きく変化する。リハーサル中これらの意識をさまざまに試して、その度毎にオーケストラの音が移りゆくのは興味深い経験だった。これらの意識は細川作品に留まらず、どんな作品にも応用できるはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
ライブラリアンの糸永さんの発案で、今回初めてアルファベット札に挑戦した。かなり複雑なので本番うまく出来るか心配だが、今のところ何とかやり過ごしている。多分これもアルファベットを使わなければ大変なことになっていただろう。

都響と演奏するときは、込入った事情の作品が多いからか、決まって、オーケストラの演奏者や、裏方一人一人の優しさと責任感に圧倒され、演奏していて言葉に表せない不思議な一体感に包まれる気がする。

前回の仕事も「作曲家の個展」だったが、同じ感銘を受けた。オーケストラ全体のプロフェッショナリズムが、音楽を包み込んで高次元の演奏へと昇華させてゆく。

具体的に言えば、最終的に、演奏が色を帯びてくる体験であったりする。今回ならば、望月作品でさまざまな色彩が走馬灯のように変化してゆき、細川作品では、単色の光度が非常に複雑に変化しつづけてゆく。光度がどんどん上がれば、どちらも大きな煌めきに収斂するのかもしれないが、そこに至るアプローチは全く違うものだ。

京ちゃんの「むすび」など、何となく皆が見えていた色彩が、練習するたびに明晰になり、彩りそのものが主張を始める。指揮者としてはその時間を共有できる愉悦に浸れて、それまでの苦労を忘れられる瞬間だ。音楽のもつ至福は、現代作品にもしっかりと存在している。

11月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、久しぶりに父の好きなショートケーキを携え、両親宅に顔を出す。好物のカキフライと一緒に、珍しく頂き物の「くさや」が食卓にのぼった。大学の作曲科合宿で毎年夏に新島に出かけると「くさや」を食べた。何十年かぶりのトビウオの「くさや」は殊の外美味で、幾ら食べても飽きない。

普段はあまり食べないのだが、もう少しで五十の誕生日ということで、今日ばかりは父に勧められるまま、自らの誕生日祝にと、一緒にショートケーキを食すことにした。

母曰く「この歳になるまで生きているとは思わなかった」そうだ。戦時中は天皇陛下は神さまだと信じていたから、戦争が終わって大人が手のひらを返したように言うことを変えて、子供心に人間不信に陥ったと言う。

「当時は皆荒れていたわよ」と言葉を続ける。学校の教師も、戦後は皆とても乱暴になった。当時水泳でオリンピック出場候補だった母の姉の水泳仲間はみな特攻隊に取られ、二人だけ生きて帰ってきたけれど、いつも眉間にしわを寄せ、酷く陰気でやさぐれていた。生きて帰ってこられて倖せとは到底思えない状況だったのだろう。

「あとは皆死んじゃったわよ。特攻に出かける前の最後の休暇には、よくうちに皆ご飯を食べに来てね。その度に着物を売ってお金を作っては、砂糖を買ってお汁粉を作ってあげたりしたものよ」。恋人でもなかったのに、何故わざわざ来たのか尋ねると、遠い郷里に帰る時間すら貰えなかった水泳仲間が、当時横浜に住んでいた母の家にご飯を食べに来たのだと言う。自分が生まれるほんの25年ほど前の話だ。

あなたには、小さい頃から人の意見に流されないで、自分の頭でしっかり物を考えるよう諭して来たのだけれど、覚えているか、と尋ねられて、覚えていないと答えると母は少し残念そうに笑った。言われてみればそんな気もするし、何れにせよそう諭され育てられただけの性格ではある気がする。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの作品を演奏していて、不思議な体験をする。目の前に別の透明の空間がふわりと口を開け、すっと音楽がそこに入り込み、まるで音符が天の川のように光りうねるのだった。かと思えば、清涼で穏やかな心地で、吹きすさぶ嵐に立ち尽くしている錯覚にも陥った。音を読み、楽譜上で理解できることは、音楽の一部でしかない。

11月某日 機内にて
京ちゃんより頂いた「作曲家が語る音楽と日常」を読む。表紙を開くと「杉山洋一さま いつも精一杯のお心尽くしありがとうございます! 私の音楽にいつも命を吹き込んでくださって、本当に感謝しています 京」と書いてある。

彼女の文章のリズムも言葉も実にうつくしく、彼女の書く音楽と同じ響きがする。このうちのいくつかの文章は、既に新聞紙上で読んだものもあったし、特にお父さまの下りは、彼女から直接話を聞いたことも沢山載っていた。

「音楽は特に好きというわけでもなかったが、”もう一度サントリーホールでみさとの曲を聴きたいなあ”と言われたときには思わず涙がこぼれそうになった(94頁)」を読んで、本当に泣いてしまった。

昨日確かにあそこにお父さまはいらしたと思う。不思議なことだが、最後のドレスリハーサルの時から、本番はうまくいく安心感があった。口には出さなかったけれど。もし本番の演奏を京ちゃんが喜んでくれたのなら、それはお父さまのお陰だと思う。

「そこには何より、この場に関わるあらゆる人々へのリスペクトがあった。それは、異なる時代や人々をつなぐ結び目という、芸術の重要な一昨日を照らし出していた(175頁)」。

この本にたびたび登場するご両親や妹さんたちと一緒の京ちゃんの結婚披露宴の席で、新郎のオーレリアンが「みさとさんが書いた”むすび”という曲があってとても好きなのですが、彼女は音楽を通して人びとを繋いでゆくんです」、そう愛情に溢れる顔で語った。あの結婚式で、オーレリアンの願いで京ちゃんが纏った十二単がとても美しかった。あれは震災から未だ一か月経つか経たないかで、日本中が大変な時だった。

(11月29日 ローマに向かう機中にて)