『アフリカ』を続けて(6)

下窪俊哉

 先日、1週間ほど、「活字の断食」をやっていた。その期間は一切本を読まず、新聞や雑誌も見ず、SNSからも離れ、インターネット・ニュースも見ない。初めてやった時には多少の怖さがあったが、いまは「やれば、スッキリする」ことを知っているので、やろう! と決めたら、少しワクワクする。
 普段からあまり読まない人がやっても意味ないだろうが、自分のように、いつだって何かしら読んでいるような人がやるから効果がある。「読む」以外のことはいつも通りなのだ。「聴く」はもちろん「書く」もじゃんじゃんやってよい。
 ただ例外として、メールのやりとりをして送られてきたものを読むのはよし、日々の仕事に支障が出るから。原稿を読むのもOK、原稿は「取り組む」ものだから(というのは屁理屈かもしれないが)。
 その「活字の断食」を始めて数日すると、いま世の中で何が起きているのか、さっぱりわからないという気分になる。こうなるのは、いとも簡単なことなのだ、と思った。SNSがないせいだろうか、ニュースを見ていないせいだろうか、とても静かだ。
 テレビは10年前に捨てた。ラジオはいつものように聴いているが、音楽番組が中心で、その合間にラジオ局が伝えてくるニュースの情報量はとても少ない、というより音でそれを取り入れる習慣をこちらがなくしてしまっているのかもしれない。と思いながら聴いていると、詳しい情報はホームページを見てくださいなどと言う。
 本はどうかというと、たとえば手元に長く置いてあるような本は、もうそのページを開かなくても、いつでも読んでいるような気がするから不思議だ。

 本や雑誌をつくる編集の仕事にもいろいろなことがあると思うが、『アフリカ』編集人の仕事は、まずは何をさておき「読む」ことである。
 どうやって読むか? まずは送られてきた原稿をただ読むのだが、いまはメールで、データで送られてくることばかりなので、それを手元にある適当なフォーマットに流し込んで、プリントして読む。パソコンやスマホの画面で読むことをしないのは、なぜだろう? つくるものが紙の、印刷物だからかもしれない。あるいは、紙にインクを染み込ませて読まなければ、何かしらの力が出ないと感じているところもあるかもしれない。
 とにかくそれをまず読む。最初は通しで読んでみて、唸ったり、笑ったりする。それからまた読む。今度は鉛筆を持ち、メモをとったり、線を引いたりしながら。そこには「考える」という行為が入り込んできている。満足するまでくり返し読む(長い原稿だとくり返しの回数は落ちるが、それでも部分的には何度も何度も読み返している)。それから、書き手に返信のメールを書く。
 自分の中の「読む」も一定してはいない。いまはよく読めると感じる時もあれば、まったく読めないと感じる時もある。常に揺れている。揺れが大きい時はしんどいが、頑張って読んでいると読めてくることがあるから諦めずに読む。読み終えて、しばらくたってから再び読むと、そこに以前とは違う風景が立ち上がっているというふうなことも、本を読む人にはよくあることだろう。『アフリカ』の編集人が最初に読むのは書きたてホヤホヤの原稿である場合が多いので尚更、その最初に読むという行為の中にしかないものが、ありありと感じられる。熟成されていない、生に近い状態で、整えられてすらいない。
「どう読んだか?」を書くことは、「読む」を深めているような気がする。書かなければ読めなかったような要素すら出てくる。しかし「書くために読む」ようにばかりなると、それはそれで奇妙なことになりそうだ。「読む」と「書く」はいつも、行きつ戻りつしている。

 今回、「活字の断食」をやっている期間中、ある人たちと行った座談会の原稿に取り組んでいた。たまたま「断食」初日の朝に、メールで送られてきたのだった。
 その人たちが言う「ZINE」という呼称に、いまだ自分は慣れないのだが、彼らは自然とそのことばを使う。いまは「ZINE」をつくる人たちがたくさん出てきていて、『アフリカ』や私のやってきたことは先駆的だというふうなことも言われている。そう言われて嬉しくないわけではないが、奇妙な感じも受ける。だって、自分にも先達はいて、ミニコミは今も昔も変わらずたくさんあるように見えるし、文学をやる人たちが自分たちで雑誌をつくる文化だって、ずっと前からあったのだから。
 考えてみれば、SNSの隆盛によって、以前からあったその文化が多くの人たちに知られるようになったという側面もあるだろう。知らなかっただけでしょう、と。しかし一方で、この数十年、作家とはコンテスト(新人賞)によって生まれるものだという認識がひろまりすぎたという側面もあるのではないか。
 この数年、文章教室や読書会などのワークショップをやっていて、いろんな人が来てくれるが、その中には「書くからには新人賞をとってデビューしなければ」といった話をする人も時折いらっしゃるのだ。書いているものがあって、応募するのは自由だからやればいいと思うが、「新人賞をとれなければ書き続けられない」というのはどういうこと? という話をしたこともある。

 25年くらい前、『ラジオ英会話』のテキストで、青山南さんの連載を毎月楽しみに読んでいた。それは後に『アメリカ短編小説興亡史〜とめどもなくあらわれるアメリカの短編小説をめぐる、めどもなくあられもない断片的詳説』という単行本になり、さらに後年、平凡社ライブラリー『短編小説のアメリカ52講』にもなった文章だが、その中に「プッシュカート賞」(小出版物からのみ選ばれる年間ベスト)をつくった人の話が出てくる。いま、久しぶりに本を出してきて確認したのだが、ビル・ヘンダースンという人で、彼は20代の大半を「一冊の小説を書くため」に費やし、出来上がった小説を出版社に送りまくるが、全て断られてしまう。そこで彼は、もっと良い作品を書いて再挑戦しようというふうにはならず、「太っ腹の伯父さんの協力」を得て、つまり資金援助を受けて自分で出版社をつくり本を出してしまう。初版は2000部で、500部が売れ、残りは「ベッドの下に積み上げた」らしい。
 その後の行動が面白い。さて次は、小説の二作目ではなく、「じぶんの本はじぶんで出せばいい」のだという自分の経験を書いて本にしようと考えた。図書館で調べたら、「エドガー・アラン・ポーもウォルト・ホイットマンもアプトン・シンクレアもジェームズ・ジョイスもアナイス・ニンも、みんな、じぶんの本はじぶんで出しているのがわかった。それはおおいに励みになった」。読んでいると、その姿が自分の若い頃に重なる。
 自分だけでなく「いろいろなひとの体験談も集めよう」「この本もじぶんで出そう」と決めると、彼はアナイス・ニンに手紙を書いた。まずもらえないだろうと考えていたニンの原稿が届いた日の、彼の感動が伝わってくる。「あなたの本は求められています」と書き添えてあったそうだ。いまから約半世紀前の話である。
 ニンが若い頃、「じぶんの本を、文字通り、手作業でつくっていた」話も、青山さんのその連載で初めて知ったのではなかったか。その時、私はまだ10代だった。
 そんなエピソードを読んだ経験に支えられて、やってきたのかもしれないと、いまふり返って思う。