パジャマでしかピカソは描けない

イリナ・グリゴレ

節分もとうに過ぎた日、大館の教会で私たちは今年初めての聖体礼儀に参加した。正教会ではこの儀礼は機密の一つであって、赤ちゃんの時から、私が初めておっぱい以外のものを口にした領聖(コミュニオン)で、キリストの尊体と尊血である聖パンと葡萄酒を領食した。このような儀礼に子供の時から参加してきたことによって文化人類学との出会いに導かれ、「人間とは何か」を問う一つのきっかけとなった。2月の太陽に光る北国の氷柱を見ながらそう思う。

娘たちにもこの同じ経験をさせたかった。礼拝の賛美歌を聴きながら、床に転がりながら、イコンの真似をし、絵を描いている娘たちの姿を見て2年半以上ルーマニアに戻れなかった苛立ちから解放された。娘にとってルーマニアという場所がどう見えているのか、娘がこれから自分の身体で体験するルーマニアと、私が体験したルーマニアは領域が違うと気付いた。そして、私も彼女らの目を借りて、教会の礼拝のように領聖(日本語で訳す漢字の味わいもある)の空間に入ることによって、自分の中でルーマニアの苦しい思い出の全ては再領域される。

聖体拝領として赤ちゃんの時から口にする聖パンと葡萄酒は、口にする前に懺悔と断食という心と体の準備の必要がある。子供にとっては、聖体拝領はご馳走だと感じる。大人しか飲んでは行けない酒を口にするなんて、別世界の入り口が開いたようなわくわく感がある。ルーマニアの俗信では聖体拝領の日は他の人からキスされないようにするので、日曜日に家を訪問する親戚から逃げられる。ルーマニアの人間関係は濃いので、親戚同士と友達同士のスキンシップが激しく、会うたびに握手し、ほっぺたにキスする。唾をねばねばとほっぺたに残す遠い親戚の叔母さんを避けたいわけだ。それが日曜日とお祭りの日の領聖のあとは解放されるので、私にとってはいろんな面で楽しい1日だった。この迷信の理由は、日本語訳のイメージの通り、領聖とは身体が更新され、綺麗になり、領聖を受けてない人からキスされたらその神秘が盗まれると思われているからだ。

葡萄酒の味に戻ると、これも昔は村の人たちか修道院で作られた手作りのワインであり、色はロゼに近い。私の実家も葡萄を栽培してワインを作っていたので、祖母はいつも教会に持っていった。彼女が作る、塩と水と小麦しか入ってないパンも一緒に。彼女のパンの味と祖父が作っていたロゼの味は、私にとっては尊体、尊血そのものだ。今でもたまに同じパンを作るし、ロゼは私の大好物である。思い出すと、不思議な食べ方があった。祖母の熱々の焼きたてパンをちぎって、甘くしたロゼに入れて食べていた。甘くて、美味しくて、ほっぺたが赤くなるデザートだった。

昨年の12月の終わりに父が電話してきて、美味しいワインできたから贈りたいと言った。昔から父の作るワインと祖父の作るワインの違いに、私は敏感だ。父のワインは濃い、重い、辛口のフルボディーだ。色もルビー色で血の色に近い。父の家の葡萄畑に白い葡萄があまりなくて、スチューベンのような品種がメインだった。これは村の外の畑にあって、家の前には白い「牛の乳」と呼ばれる葡萄もあったが、それはワインに入れず子供が食べる。父の実家と母の実家の葡萄畑の位置と葡萄の種類は全て思い出せる。地図を書けるほどはっきり思い出す。毎年歩いて、一つ一つ葡萄の粒を味わっていたからかもしれない。母の実家の祖父の葡萄畑の半分以上は白いみずみずしい葡萄で、その白い葡萄と黒い葡萄を混ぜるとちょうどいいロゼになった。毎年、裸足で葡萄を潰すのが嬉しかったし、足の裏で潰す、白と黒の葡萄の感覚がいまだに残っている。ワインが発酵するまでの葡萄ジュースも子供にとって大きな喜び。その時期、秋の暑い日に肌着とパンティだけで暮らしていた村の子供たちの白い肌着に、紫の葡萄ジュースのシミがよく付いていた。腸内で発酵するので、お腹もパンパンでいつも下痢気味だったが、美味しくてたまらない。発酵が進むと舌がピリピリして、ワインに変わる瞬間にガッカリしていたことを覚えている。ロゼになるまでしばらく待つ。秋に絞ったものはクリスマスごろにちょうどいい感じになる。「涙のように透明感がある」という祖父の言葉を借りればわかりやすい。

さて、昨年父がルーマニアから送ってくれたワインを開けてびっくりした。いつもの濃い血の色ではなくて、ロゼだった。味見すると祖父が生きかえったと思わせるぐらい祖父の味にそっくりのワインだった。あまりにもびっくりしたから電話した。テレビ電話で見た父の顔は髭が入っている優しいお爺ちゃんの顔だった。私が知っていた、働いていた工場の同僚と一緒にジプシーの音楽家がいるバーで朝まで飲んで夜遊びする父とは大違い。テレビ電話では「家の畑で取れた葡萄」というが、母は追加で白い葡萄を買ったと説明してくれる。私たちが美味しいと評価すると、嬉しそうに「また送るからね」と言って、「孫を見せて」と素敵な微笑みで娘たちと目を合わせる。優しそうなお爺ちゃんにしか見えない父の姿に感動した。ワインの味まで優しくなって、娘にとっての祖父のイメージは私が見た父と違うと分かった。ルーマニアの教会で賛美歌を歌って、間違えると司祭に叱られる父の姿を母から聞いて驚いた。プライドの高いルーマニア人の男、背が高くて、頭もよく、女性にもてていた父。社会主義時代に生まれ、地方の街の工場でエンジニアになってポスト社会主義の曖昧な時代を生きてきた。アルコール中毒になった。若い時、心筋梗塞を乗り越えて、年をとってからも重い病気と戦い、私は娘の祖父になってありがとうと言いたくなった。今作っているワインの味で自分の父の心が初めて分かった気がした。遠く離れていても、私の娘の優しい祖父になってくれて、改めて彼の全てを許した気がした。ヤギのお世話をしている金髪の少年のイメージが浮かんで、父を自分の子供のように愛し始めた。

父の実家に対していつも複雑な気持ちを持っていたが、美男美女の駆け落ちカップルであった父の両親の写真を見るのは好きだった。私が小さかった時に父方の祖母に似ていると言われるのは好きではなかったが、最近になって彼女がよく夢に出てくる。ある夜、一緒に庭に咲いているライラックの花を望みながらパンとソーセジを食べている、という夢を見た。ルーマニアでは死んだ人の夢を見ると、その日には誰かに食べ物を差し上げなければならないという習慣がある。この行動によって亡くなった方にあの世に届くと思われるから。ソーセージを買って、娘たちに食べさせて、2月の日本ではライラックの花は売ってないので、和花の「青文字」の枝を買って、飾った。

私は確かに父の母親に似ている。酒好き、強気、喧嘩をよくし、プライドが高く、美学的だ。彼女は布の工場で定年退職まで働き続けた。専業主婦になりたくなかったのだ。30年代の古いラジオでジャズの番組を聴いていたし、私と同じく癖毛で、花が好き。ただ、私は私を育ててくれた母方の祖母にも似ているから、個性豊かな人間になっている。自分の中に二人の祖母のイメージがあって、女性としての自分は二人いると感じる。

母に厳しかった父の母は、花に対しては優しい人だった。庭のジャスミンの木が彼女の魂を表していた。満開になると、立派な花の爆発のように見えた。香りも家の遠くから感じられて、母と父の実家の間を毎日のように移動していた私にとっては、匂いの矢印のようだった。庭の葡萄の間に、素敵な屋根まで届いていた薔薇の木には花が咲いていた。その食用の薔薇の花は小さい時から私の楽しみだった。庭で美味しいものと綺麗な花が咲く場所をまず覚えているのは子供のメンタルマップだ。このジャスミンの木も、ライラックももちろんだが、あの薔薇が咲くのを毎年のお祭りのように感じた。それは食べられるからだ。真っ赤な花びらをつまんで口に入れて、香りとともに噛んで飲み込む。薔薇を食べる少女だった。あの時期、薔薇の花でお腹いっぱいになって、歌って、踊って、近くにあった金魚草の花(ルーマニアでは花の横を押すと口が開くように見えるからライオンの口と呼ぶ)で遊んでいた。この食べられる薔薇で母はシロップとジャムを作った。秋がすぎるまで毎日のように口の中で薔薇の香りを味わった。

父の母は家畜も好きだった。豚、牛、兎、鶏、鴨、ガチョウ、七面鳥などで賑やかだった。彼女の家で初めて鶏と豚以外の肉(牛、鴨、兎、ガチョウなど)を食べた。私は食べ物のテイストが母方の祖母に似ていたからあまり口に合わなかったけど、ウサギのお世話をするのが大好きだった。子ウサギといつも遊んで、ふわふわな毛を触ると幸せな気持ちになった。そし祖母の得意技はガチョウを増やすことだった。春になると彼女の庭にはたくさんの可愛いふわふわのヒナが歩いていたから、踏まないように要注意だった。10分離れていた湖から賑やかなガチョウの群れが夕方になると勝手に帰ってくる。そして家を間違えないで入ってくる。そのイメージが今でも目の前だ。小さい頃に最初に覚えているイメージの一つが、朝早く父の実家の窓から湖へ出かける大騒ぎの白いガチョウの群れだ。

全ての家畜はもちろん食用だ。父の母がガチョウの首を男前のように切る姿も見た。身体と頭が離れた白いガチョウの羽は所々赤い血で染まる。体がしばらく庭の中を遠くまで動いて、暴れて、死を受け止めたくない。その瞬間にシーンと空気が変わって、離れた体と頭が踊りのように違う動きをする。目を見ると死が訪れた瞬間に世界が消えていくと感じる。ウサギも、豚も、鶏も、子牛の目も同じ。そして、犠牲となった生き物が食べ物となる。茹でたガチョウの羽を抜くのが私の仕事だった。日本でいえば、その時、ガチョウの羽の布団の匂いがする。ご褒美に茹でたレバーとガチョウの体の中にあった生まれてない卵、金柑をもらえる。鶏と鴨のも。鶏以外、肉あまり食べなかった。特にウサギと子牛を食べることなかなかできなかった。仲間だったから。

ある秋、可愛がっていた子牛と遊びに小屋に向かって行ったら、庭の端っこの薪の上にその子の首が置いてあった。ショックのあまり、大人になって、日本にくるまで、牛肉を食べることが一切できなかった。こうして子供の時から食べ物は命であること気付かされた。しかし逆の事も言える。「私」という肉の塊を生かせるためにどれだけの命が失われているのか分かった。確か、人類の始まりから食べ物のために他の生き物、動物と植物が犠牲になるが、儀礼の一部であったことを忘れてはいけない。私が子供の時みた動物の捌き方はまだ半分ぐらい儀礼的な空間の中で行われた。ドキュメンタリー映画で見る現在のニワトリの大量生産があまりにも恐ろしいので身の毛がよだつ。

「犠牲」というものに対して複雑な気持ちをもち続けた。母が子どもを育てるために家庭を守る犠牲的な行動もそうだった。矛盾だらけの世界だと思った。例えば、つい先まで育てていた兎とやぎの皮をカーペットにする習慣も、土地のための裁判を起こして村の人々たちが喧嘩していることも、森が減っていることもよく分からなかった。大きくなってからそれは「欲」だと分かった。なので、山の森の奥に暮らしていた聖人のような「神様と直接にコミュニケーションできる」すごい人たちのことを憧れていた。鳥や動物と話せて、木の根っこと森の実を食べ、雨水を飲んで生きている人々が一日中お祈りする。私は少しの間の断食もできないのに。すぐ大好物の硬い白いチーズを食べたくなる。

父方の祖母は、村の外にあった葡萄畑の世話に一所懸命だった。私も様々な作業に関わって手伝っていた。葡萄のお世話は意外と大変だ。若い未亡人だった彼女はよく頑張っていたと思う。葡萄以外にも、あの畑にはいろんな木があった。クルミの木の実が赤ちゃんの頭の大きさだった気がする。大きなクルミをまだ緑の皮が残っているうちに食べるのが良い。桃の実もなかなか美味しかった。渋い皮を噛んでから甘い果実を味わうのだ。

ここ数ヶ月、ある薬の副作用で吐き気が激しくて、食欲が減り、ほとんどのものを食べられない状態が続いた。それは自分の身体に必要な食べ物について考え直すきっかけとなった。ある日、家族の晩御飯に味噌汁と卵焼きを作った時、突然泣き始めた。自分が長い間調査地にいて、ここで暮らすようになったことも自分の身体に大きなストレスだったことに気付かされた。マリノフスキの日記を読めばそんなもんだとわかるのに。そういえば、初めて日本に来たときは卵しか食べられなかった。あまりにも食べ物の味が違っていたから。何年かがたって、作るのも食べるのも得意となった和食だが、2年半以上のコロナのせいでルーマニアに帰れなかったからなのか、薬の副作用なのか、全く食べられなくなった。自分はなんのため食べるのか分からなくなった。食べ物に支配されると感じるようになって、作るのも食べるのも嫌になった。時々、女性インフォマントから頂いている食べ物は食べるけど。菊芋の漬物もレバーの料理も食べられたのに、その日はそれ以外何も食べたくなかった。

こんな食べ物の悩みを抱えていた時期に、友達が7歳の息子を連れてお泊まりに来た。私のりんごパイが食べたいというので仕方なく作ったけど、自分が味見しても美味しく感じない。母方の祖母が作っていたカボチャパイとりんごパイ、チーズパイの方がずっと美味しかった。懐かしくなって、自分が作ったパイを飲み込めない。その翌朝に寝坊していた私のところに突然に来たその男の子に「お腹空いた」と言われた。私は夢かと思った。友達がお泊まりしていることさえ忘れてしまい、なぜ私のベッドの近くに男の子がいるのかも理解せず、目が覚めた。その瞬間に食べ物の恐怖から解放された。そうだった、人間は「お腹が空いているから」食べるのだと思い出した。一緒に下に降りて朝ご飯の準備を始めた。寝ぼけたまま最初に用意したのは私の祖父が大好きだったトーストだった。男の子はゆっくりトーストにバターを塗って、溶けるまで少し待って美味しそうに食べた。カリカリという音が聞こえた、噛むたびに。おかわりした。またゆっくり、儀礼のような動きでバターを塗ってまたカリカリ食べた。美味しいと評価した。まだお腹が空いていたから今度は和食を用意し始めた。彼は漬物と梅干しが好きだと知っていたから、それを出して、キャベツと油揚げの味噌汁を作った。熱々のご飯を二杯おかわりして、娘たちと大人が集まったテーブルで賑やかな朝ごはんとなった。ここ最近は朝ご飯の気分ではなかった私まで食べた。男の子はやっとお腹がいっぱいになって、自分で持ってきたお気に入りの、もの久保の最新の画集を手に取って何もなかったように見つめ始めた。本屋で私も買ったが、大好きなイメージだった。私の子供のころの感覚に近いと思った。

友達の息子が教えてくれたことについて何日も考えた。彼の食べっぷりは儀礼そのものだった。娘たちも同じ食べ方をする。なるほど、子供は分かっている。元々食べることは儀礼の行動だったのだ。狩された獣の見える肉だけではなく、見えない魂までもらうので、それはしっかりした踊りと動きで、感謝しないといけないと昔の人々は知っていたのだ。だが現在、このような行動は失われている。衣装も面もない。音楽も歌もないので、現代人にとって食べ物の味は昔の人が感じた味と違うだろう。でも、子供はまだ分かっているはずだ。お腹が空いている時しか食べないから。そしてたまに踊りながら食べるのだ。

2月14日、バレンタインデー。雪がまだたくさん積もっている。体感気温もマイナスになっている。今日は川を渡ったところのスーパーへ行ってお花、牛乳などを買う。ピクルスを買おうとしたが置いてなかった。カウンターのところで後ろを向くと、バレンタインデーの色鮮やかなチョコたちが並んでいて、その隣はひな祭りのいろんな種類のアラレたちだ。気が早いと思いながら、果物コーナーのところを見てなぜかパパイヤを食べたくなる。日本で買うと高い果物を見ながら葡萄畑にあった桃のことを思い出して唾が出そう。車に戻ると娘たちがスキー教室の帰りに散らかしたアメリカンドッグの串、おにぎりのふくろ、桜味の甘いドリンクがゴミ屋敷のような車内の雰囲気を作っている。ラジオから「薔薇が咲いた」という歌が流れる。父の実家の食用の薔薇がいつから枯れてきたのか考え始める。ラジオを止めて携帯でレッドツェッペリンの「Immigrant Song(移民の歌)」を掛ける。弟が送ってくれたルーマニアのストリートの映像を見ながらその曲を聴いた。彼の車のラジオからは「薔薇が咲いた」ではなくウクライナについての暗いニュースばっかりが流れていた。私も調査地に長くいすぎて移民となっていたことに気付かされた。

ある朝、娘はいつものようにパジャマで得意な絵を描き始める。そしたら描いていた少女の顔に髭のような黒い毛が見えた。なんで女の子に髭があるの、と聞くと、「違う、これは後ろから見えた髪の毛だ」と答えた。彼女が同時に前と後ろから描こうとしたのだ。違う側面から物事を見ること思い出させられた。人間とは大人になるにしたがって馬のようにブリンカーをつけてしまうのがいけないのだ。

2月26日。歴史は私たち個人のレーベルまで影響を及ぼす。