『いやな感じ』という高見順の小説があったが、日々の暮らしを慎ましく営むおれにも「いやな感じ」がするモノ、ヒト、コトがある。
住宅街の夜道を歩いていると、突然光るライトがある。あれはいやな感じだ。
「人感センサー・ライト」というらしい。あの灯りは無言のうちに、
「おまえは不審者か?」
と、問われているような気がする。昨今とみに物騒な世の中なのはわかるが、
「悪いことをしようとしても、そうはいかないぞ。ちゃんと見ているぞ」
と、あのライトは善良な市民であるおれを威嚇しているのだ。そうに違いない。いやな感じだ。
レストランなどで、最初にこう言われることがある。
「苦手なものはございませんか?」
あれもいやな感じだ。だからおれはこう答えることにしている。
「そういうことを訊いてくるヒト」
おれはなんでも食う奴なのだ。落ちているものまで拾って食うのだ。食いしん坊なのだ。顔つきを見れば、ひとめで「食い意地が張っている」ことくらいわかるだろう。いやな感じだ。
料理を出されて、
「よくかき混ぜてからお召し上がりください」
と言われることがある。いやな感じだ。かき混ぜてから持ってきてくれ、と思ってしまう。なぜおれがかき混ぜなければならないのだ。面倒くさいではないか。いや、気持ちは分かる。料理は目でも楽しむものだろう。たとえばグチャグチャにかき混ぜたあとの石焼ビビンバをいきなりドスンとテーブルに置かれれば「ゲッ」となるかもしれない。ならば、かき混ぜていない状態のもの、つまりは牛肉の細切れ、ほうれん草、キムチ、ゼンマイ、大豆もやし、卵、ニンジンなどが見目麗しく盛り付けられたどんぶりをいったんこちらに見せてから、
「では、かき混ぜて再びお持ちしますね」
と言って、プロの手で撹拌したものを再度供すれば完璧ではないか。石焼ビビンバはかき混ぜ方ひとつで味が違ってくる。おれのような横着者にとって、あの撹拌作業は向かない。ただし「イワシのなめろう出汁茶漬け」ぐらいだったら、あの言葉、
「かき混ぜてからお召し上がりください」
は許す。だって簡単だもん。サラサラッと混ぜるだけでいいからね。とにかくあの言葉はいやな感じだ。
懐石料理もいやな感じだ。おれはサケが一滴も飲めないので、ちんまりと盛られた小鉢が出てくるたびにペロッとひと口で食べ終わってしまう。秒殺だ。あとは次のちんまりが供されるまで何もすることがない。ほかの奴らはサケを喰らい、ガハガハ笑いながらチビチビと「鱧の湯引き・梅肉ソースを添えて」のようなものを愛おしそうに箸でつついている。いやな感じだ。
ようやくひと通り、先付やらお造りやら煮物やら焼物やら八寸やらのコースが終わると、こう訊いてくるではないか。
「このあとのお食事はいかがなされますか? 炊き込みご飯かお蕎麦をお選びいただけますが」
ガーン。するってぇと何かい? おれが今まで食っていたのはお食事とやらではなかったとでも言うつもりかい? と、おれは激しく混乱してしまう。あの訊き方もいやな感じだ。
懐石料理の話が出たので「箸休め」で書いておこう。うまい。いや、別にうまくないか。
おれがここで言う「いやな感じ」というのは、殺意を覚えたり、殴打したり、罵倒したりするほどの憎悪は存在しない。それほどあからさまな嫌悪感はないが、でも、明らかにいやな感じがするという事柄だ。箸休め、おしまい。
炎天下に犬の散歩をしているヒトを見かける。「オサレ」と言われている街に多い。いやな感じだ。可哀想に、犬は舌を出してハアハアと苦しそうではないか。アスファルトの温度に肉球が耐えられるわけがない。地面に近いお腹だって相当の照り返しを受けているはずだ。ヒトサマの犬だから厳しく注意もできないが、いつも内心では、
「おまえも毛皮のコートを着て、犬と同じポーズで裸足で歩いてみろ」
と、毒づいている。明らかな動物虐待である。あれは実にいやな感じだ。
電車内で短い脚をドーンと伸ばして座っているヒトがいる。いやな感じだ。
そのくせ、おれがそこを通り抜けようとすると、スッと脚を引っ込める。引っ込めるくらいなら最初からきちんと座っていればいいではないか。さもなければ初志貫徹、徹頭徹尾、鬼が来ようと蛇が来ようと、そのままドーンと伸ばしっぱなしにしておけばいいではないか。その中途半端な公共心は理解に苦しむ。非常にいやな感じだ。
知り合いの不倫現場に出くわすことがある。いや、おれがホテルの部屋に入ったら、ベッドで知り合いの男女がコトをいたしていたというわけではない。そんなシチュエーション、あるはずがない。
おれが今までもっともヒヤヒヤしたのは、予約していたレストランに入った瞬間に、不倫カップルが隅の席でイチャつきながら食事をしているのが視界に飛び込んで来たときだった。二人ともよぉ~く知っている。男が上司で女性が部下という関係だった。さあ、どうする。奴らは店に入って来たおれのことなど気づきもせず、ねっとりと見つめ合っている。いやな感じだ。
幸いにおれの席は、ねっとりテーブルから離れた席だったが、いつ奴らがこちらに目を向けるか気が気ではない。いやな感じだ。だいたい、なぜおれがこんなに気を遣わなければならないのだ。
「密会するのなら、こんなメジャーな繁盛店を選ぶな。もっと隠れ家的な店で個室を押さえろ」
と、おれは舌打ちをする。あっ、しまった。そういうおれも女性連れだ。どうしよう。おれは慌ててさしむかいで座っている女の顔を見る。妻だった。
「そうか、おれはいいのか。セーフだ」
ホッとしたが、モンダイは奴らだ。二人でテーブルに肘をつき、指と指をからませたりしているのが遠くに見える。大変な事態だ。気づかれたらどうしよう。そのときは、
「やあやあ、これはまたお盛んでどうも」
あるいはグッとくだけて、
「サンカミにはショナイでチャンネーとシーメですか」
とでも声をかければいいのか。いや、それは後日厄介なことになる。おれは帽子を被ったまま、ひたすら下を向き、止めど溢れる我がオーラを全力で消し去り、妻との会話もうわの空でメシを咀嚼し続けた。あれはとてもいやな感じだった。
「ペーパーレス化の促進化について」と書かれたペーパーが会社の机の上に置いてあった。とてつもなくいやな感じがした。
「おまえの悪いようにはしないから」
という言葉もいやな感じだ。おれは上司に何回か言われたことがある。そのたびに思ったのは、
「なぜ赤の他人のあんたが、おれにとっての悪いこと、いいことを知っているのだ?」
ということだった。だからおれはその台詞を言われるたびに、あとに続く話を断わっていた。するとそれからのおれはあまりよくない、いや、相当よくない、つまりは悪い立場へとことごとく追いやられる羽目になった。こうなるとなおさらいやな感じではないか。
ここまで書いて読み直すと、これを書いたおれがいちばんいやな感じのするニンゲンのような気がしてきた。まずい。こうなったら「自己肯定感を高める百の方法」「私らしく生きるヒント」「自分らしさを大切に」などといったジコケーハツ本を読もう。うーむ、読むわけがない。あれほどいやな感じのする本はない。