前回取り上げたラーマーヤナ同様、マハーバーラタも古代インドの叙事詩である。4世紀頃に現在の形になったと考えられ、東南アジアに伝播した。内容は、王位継承に絡んで、コラワ一族の100人兄弟が従兄弟のパンダワ一族の5人兄弟を陥れようと姦計を繰り返してバラタユダ(大戦争)に至るが、この大戦争は神が定めたものでパンダワの勝利に終わる…そののち静かな時代が訪れるもののパンダワ5王子は世を儚み次々と昇天していく、というもの。
現在、ジャワのワヤン芸能(影絵や劇)の題材はマハーバーラタのエピソードが多いが、インドネシアのアイコンや東南アジア紐帯のアイコンとしてコラボレーションの題材となっているのはラーマーヤナが多い。その一方で、マハーバーラタは西洋や日本において何度も取り上げられてきたという印象がある。
私が思い出すのは、ピーター・ブルックによる『マハーバーラタ』(1985年アビニョン演劇祭初演、1988年銀座セゾン劇場)、②横浜ボートシアターによる日イネ合作『マハーバーラタ 耳の王子』(1996年、水牛2022年3月号のエッセイを参照)、③宮城聰によるSPACの『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(2003年~、2012年ふじのくに⇄せかい演劇祭、2014年アビニョン演劇祭など)、④宮城聰による歌舞伎の『極付印度伝マハーバーラタ戦記』(2017年歌舞伎座)、⑤小池博史によるアジア6か国のコラボレーション『完全版マハーバーラタ』(2013~2020年10か国で上演、2021年東京)などだ。ただし実際に見たのは②のみである。
インドネシアのワヤンで描かれるマハーバーラタは叙事詩全体ではなく、その中の個別エピソードで、物語全体を知らなくても作品を楽しむことに差支えはない。というか、大戦争やパンダワ昇天といった重大なシーンはめったに描かれない。一方、①のブルック作品は全編舞台化を謳っていて、初演時の舞台は9時間、のちにそれを編集して映画にしている。⑤の小池作品もブルック以来の全編舞台化を謳っている。②と④はカルノを中心に組み立てているが、②はカルノにインドネシア独立戦争に参加した残留日本兵の葛藤と悲劇を重ねている。カルノはパンダワ側であるアルジュノと同母兄弟ながらコラワ側で養育され、後にアルジュノと一騎打ちすることになる点で、同族内の対立を象徴する人物だ。③は、コラワの姦計(さいころ賭博)によりパンダワが王国を失って流浪していた時に賢者が聞かせた恋愛物語「ナラ王の物語」を下敷きにしている。未見なので、マハーバーラタ全体のテーマや人間関係をどれほど反映しているのかは不明である。
マハーバーラタの方が登場人物が多くて話もややこしいのに、なぜブルックやら日本人やらはマハーバーラタの方を好んで取り上げるのだろう…と実は不思議に思っていた。もっとも、なぜラーマーヤナではなくマハーバーラタなのか?という問いはきわめてジャワ的だ。上の演劇作品を手掛けた人たちは、インドから伝わった2つの物語しか知らないわけではないのだから。
今年、NHKで放送している大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていて、ふとマハーバーラタは族滅の物語だとあらためて意識する。族滅という言い方が普遍的なものかどうかは知らないが、この大河ドラマを語るツイッターではこの語がよく使われている。大河ドラマの方では頼朝の死が7月初めに描かれた。頼朝が自身のきょうだいや他の源氏一党をつぶしていく様が今まで描かれ、今後は源氏の子孫、北条一族、それら縁続きの御家人同士の殺し合いが描かれていくはずだ。思えば、鎌倉時代の北条氏が主人公となる大河ドラマは1979年の『草燃える』以来で、戦国時代ものや幕末ものに比べてかなり人気がない。
マハーバーラタで敵味方になるコラワとパンダワは従兄弟同士で、争いになる発端には王位後継問題がある。ラーマーヤナの主人公のラーマの場合、継母がラーマを追放するとはいえラーマは異母兄弟の間で戦ってはいないし、むしろラーマに忠実な義弟のラクスマナは一緒に追放される。また、ラーマがランカー国の王・ラヴァナと戦うのは妻のシータ妃奪還のためで、ラーマ自身の王位継承のためでもないし、国同士の覇権争いでもない。
「A国とB国の戦い」や「諸国統一」の物語よりも、マハーバーラタのように「A国内における身内間の権力闘争」の物語の方が個人のむき出しの欲望とその結果の悲劇を極限の状態を描けて、現代の演劇向きなのかもしれない。