死んでも生きる

イリナ・グリゴレ

眠れない夜にお腹が空いている時がある。血糖値を上げて眠くなるようにしている。ハチミツが一番効くけど、ここ最近ではイチジクをいろんなところから頂いたので、イチジクを食べて眠くなる。熱い、娘が喜ぶピンクか、赤、オレンジ、紫の色が付いたバスソルトのお風呂にたっぷり浸かった後、イチジクを食べて寝ると不思議な贅沢感がある。少し腐ったイチジクがいつも一個は入っているので、汁が出て、コバエが寄ってくる。子供が拾った栗からも虫が出ている。夜中にそれらに気づくけれどなんとも思わない。フライドチキンのポテトが入った袋に娘はたっぷりドングリを詰める。横に倒れている袋からドングリが転がるイメージが脳に残る。

それでも眠れない時、携帯の電池が切れるまでレオ・ウェルチのライブを聴く。彼のピンク色のギターと靴の夢を見るといいと思いながら。何年も前に彼のギターと同じピンクのレトロなキャデラックを運転している夢を見たと思い出した。ピンク色のキャデラックを運転すると幸せな気分になる、夢であっても。

娘たちも私の寝つきの悪さを受け継いだようで、3人でどうやって寝ればいいと毎日の悩みになっているが、そんな時間は面白い会話が生まれるきっかけでもある。長女が「いつ寝る?」と聞いたら、次女は「ずっと起きたら寝る」と答えて、笑いたくなる自分がますます眠れなくなる。また、ある夜に長女は「人は死んでも生きるよね」、「自分は何年まで死んでも生きる?」と聞き、どうしても返事が欲しくて泣き始めた。この質問にどうやって答えたらいいのかわからなくて、その夜に娘は先に寝たが、私は完全に眠れなくなってしまった。

眠れない理由は疲れていないからではない。秋は休みの日でも忙しい。獅子舞の練習、門付け、演舞、畑遊び、川遊び、パーティー、観劇、さまざまなイベントでスケジュールが一杯だ。ただ、寝るのは勿体無いという違和感との戦いなのだ。食べることも、寝ることも身体に必要だが、生きることがあまりにも嬉しい時、眠れなくなる、食べられなくなるという逆転現象になると最近気づいた。生きる時間が短すぎるという意識が強いかもしれないが、焦っているのではない。

温泉が大好きな私たちは水曜の午後に気に入った温泉へ向かう。山と川、紅葉していて、春のアカシアの花が咲いていたときに同じ道を通ったイメージが一瞬前だった気がした。こんな早く、青と白から赤と茶色に変わると。娘は秋の空に広がる雲を見て「猪だ、馬だ、犬だ、亀だ」と小さな脳でもうすでに世界を作っている。「ママ、山がついてくる、〇〇ちゃんのところに」と次女が叫ぶ。そう、車が動いているのではなく、山が動いているとパースペクティブを変えないと、この世界の理解は難しい、と運転しながら考えるだけで目眩がする。瞼を一回閉じたら、世界が消える。温泉のサウナに入りながら、2分の約束だったから娘がサウナの窓ガラスに小さな手と身体を置いているのを、幻のように感じる。もう、2分がたったのか、もうここにいる。そしてまた夜になって寝ないとだめ。眠れない。

ある日、友達の畑で白いTシャツを藍染めした。秋の日差しの中で、なぜか何百匹もの天道虫が飛んでいて、服、顔、腕、髪に止まった。天道虫だらけの人間になって、私が好きな青臭い、生の藍の葉っぱをミクサーで潰した。真白い服をその液体に入れると鮮やかな緑色になるとわかった。天道虫の赤と葉っぱの緑で世界が赤と緑となった。畑で干している緑色の服を見ると、周りの森と同じ色だ。その夜に見た夢でもその服が出てきた。夢ではもっと濃い、キラキラしているエメラルド色だった。娘が雲を動物に見えるのと同じ、私の脳の中では色がもっと素敵になっていた。娘の質問の答えを見つけた気がした。人間は死んでも生きることはできないが。人間がこの世界から刺激されて、魂をエメラルドグリーンに染めて、作る本、作品、映画、音楽などがその人が死んでから何年も生きるのだ。毎日、創作をする娘たちを見て、私ももっといろんなことを作りたくなる。人間とはクリエティブな生き物だった、最初から。