『アフリカ』を続けて(23)

下窪俊哉

(戸田昌子さんによる前説)
 ここに『音を聴くひと』という本があって、下窪さんがやっているアフリカキカクというところから出ている本です。これは下窪さん自身の短篇集なんですね。私がTwitterで一度、下窪さんのブログを紹介したというか、ふっと見にいって、さーっと読んで、その読後感に特別な感じがあったので、へえ面白い! と思ってパッと書いたツイートがあったんです。それを下窪さんが見て、喜んでくださって、そのコメントをこの本の中で使ってもいいですか? どうぞどうぞ、となって、そのコメントも載っている。この本の中から、「そば屋」っていうのを朗読してみようと思います。

 私は小学生の頃、長いこといじめられっ子で、学校で誰とも喋らない毎日だったんですね。でも国語の授業で音読の順番が回ってくる、じつはそれをすごく楽しみにしていて、声を出したいと思っていた。読むということが好きだったし、読み終わる時に教室がしーんとしているということが度々あったんです。あとは高校生の頃に演劇部にいて、声がいいって言われていたというのもあって。朗読は好きなので、これから趣味でやってゆこうと思ってるんです。
 この「そば屋」は、じつは朗読するのが難しい。下窪さんはテンポが一定の文章を書く人だと思っているんですね。コンスタントに長く書いている人で、文章にもその感じというのが、とてもよく出ています。こういうテンポ感が安定して、ずーっと続いていく文章って、あるようでないっていうか、それが独特の読後感を生んでいるという感じがします。そういう文章なのに、ちょっとトリックがあるんですよね。そこをわざとらしくなく読もうと思うと、難しいんです。

(「ほとぼり通信」より、戸田昌子さんとの対話)
 じつは今日が初対面なんですよね。下窪さんと呼べばよいか、道草さんがいいか。
 どうもはじめまして。
 でもそんな気がしないですね。Twitterではかなり前からの知り合いなので。
 2018年か、それくらいからですよね。
 でもその前に、岡村展(「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」2014年、東京都写真美術館)には来てくれていたんですよね。岡村のことは、それ以前から知ってました?
 あの時に初めて知ったんじゃないかなあ。
 たぶんそういう人が多かったと思うんですね。
 何というか、目を逸らしたくなるような場面がたくさん写っているんだけど、なぜか見入っちゃうというか、くり返しその前に立ちたくなる写真が多かった。よく覚えてます。
 学芸員の方に「こんなに静かな会場って他の展示ではあまりないのよ」って。
 でも戸田さんの名前は、見たと思うけど、覚えてはいなかったですね。あの時の(実質的な)キュレーターだったんだと知ったのは、Twitterでお見かけするようになってしばらくしてからでした。その後、2019年の夏のある日、ご注文いただいたんですよね、『アフリカ』のキャベツの断面が表紙になった号で。
 私は岡村にかんする『シャッター以前』というミニコミをやってもいるし、そういう媒体への関心はすごくあるんですね。『アフリカ』っていう謎な名前だし、道草さんでしょ? 何か書いてあるらしいから、私にもちょっと見せろって思って。読ませてもらったんですけど、たぶんその時には何も言ってない。読んで、満足しちゃったというか。そのときの印象はあまり言葉にならなくて。
 そうですね、感想をいただいたりはしなかった。
 今回の号は、一番最初の方の文章がすごくよかった。こういったものを読むことは私の日常生活の中にはあまりないわけですよ。学術的なものを、すごい勢いで読みこなさなければならないといったものが殆どだし、情報収集という感じがあるから。これは、すごくテンポ感がいいんですよ、ちゃんと歩いている速さで歩いてる、それが私にとっては新鮮なんですね。なつめさんという方の「ペンネームが決まる」っていう文章なんですけど、書き始めたばかりの方?
 どこかに発表するというのは初めてのはずです。なつめさんのような、文芸作品を書こうとは思ってないような人がふらっと入ってくる場所なんです。
 へえ、そこが面白いんですよね。しかもその方の文章がなぜか一番最初に載っているというのが、『アフリカ』っぽいなと思ったんです。それを読んでね、俗っぽい言い方になるんだけど、癒やされたというか、これが生活のペースだよな、と思ってホッとした。
 今回の『アフリカ』で言えば、神田由布子さんも、翻訳者としての仕事はけっこうあるようですけど、詩を発表するのは初めてだそうです。
 詩といえば、詩とはなんぞやってことを考え始めているんですけど、私も10歳くらいの頃から詩は書いているんですね。岡真史っていう人がいるでしょう、『ぼくは12歳』という詩集があるんだけど、その年齢で自死した後に出された本なんですね。亡くなる少し前に両親の前で暗唱したという「便所掃除」という(濱口國雄さんの)詩なんですけど、「便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません」というのがあって。それを読んだ時に、私も詩を書いていいんだ? って思ったんですね。それで書き始めたっていうのがあって。ただ、それが詩なのかどうかっていうのは、わからないものだなって、ずっと思っていて。
 詩とは、書いてもいいもの、だけど、詩かどうかわからないもの?
 わからないんです。でも写真と似てるんです。
 えっ? そうですか。
 写真って、みんな撮るでしょう。それが作品っていうか、つまり人に見せていい写真なのかというのはわからない。結局自分が写真をやれてるかどうかっていう不安を抱くようなんですね。
 詩をやれているか、っていうことですね。
 わからないんですよ。私なんかは自分が満足できればいいと思っているし、別に発表してもいいけど、詩集をつくる気はないわけです。でも、こういう(『アフリカ』のような)場所に出すのはいいんです。学生の頃に文集をつくろうって言ってやっていたのと同じ感じで。
 あー、私も自分の本をつくるということには、ハードルを感じてましたね。あまりやる気がなかったというか。だから『音を聴くひと』も読みたいという人がいたからつくったのであって、自分の中で盛り上がるものは、そんなになかった。
 それまで書きためてきた短篇を、集めたものなんですよね。
 雑記もけっこう入ってますけどね。この中から今日、「そば屋」を朗読しようと思ったのは、なぜですか?
 このあまりにも短い、瞬時に終わるような感じに、びっくりしたんです。極小の短篇というか、あんまりないと思う。ちょっとした風景の描写のようにも見えながら、でも、そうじゃないか。これが架空の話なのか、実際にあった話なのかも曖昧だし、それは他のものにかんしてもあって、リアルな話なんだろうけどちょっと妄想なんじゃないかという部分がある。
 25年前に書いたものなんですね、19歳の自分には、これが精一杯だったんです。
 生まれてきたものという感じがしますよね。たぶん、これなんだな、っていう。
 原稿用紙にして2枚半くらいなんですけど、これだけ書くのに必死だった時代があるんですね、フレッシュでしょう?
 いまは毎日書いているのにね。でも私にはそんなフレッシュな時代一度もなかったな。だって小学校入って、原稿用紙もらって3枚書いて、もっと欲しいって言ったらごめんね3枚以上あげられないからって先生に言われた記憶があるもの。
 とにかく他の人みたいに書けないんですよ。でも周囲の人たちから言わせると、どうしてそんなふうに自由に書けるんだ? っていうことだったみたいで。
 これを読むとそう思いますよね。
「そば屋」はたぶん夢を書いたんじゃないかと思ってますけど、忘れちゃいましたね。現実じゃないことは確かです。
 そうなんだ? 私は「音のコレクション」っていう短篇にもすごく興味あるんですけど、人の収集した音を聴くっていう面白いことをやっている。
 そういう、小説の仕掛けですね。
 えー! 小説ですか? ちょっとショックを受けている私。『音を聴くひと』の中に収録されているんですけど。
 旅に、カメラではなくレコーダーを持って行くっていう人たちへの関心はもちろんありますよ。
 小説だったんだ。ドキュメンタリー的に読んでいた。この本は、私は8割方ドキュメンタリーだと思って読んでる。本当っぽく感じられるんだもの。
 これは失踪した友人の話ですね。フィクションですけど。
 その人が残した録音ディスクが山のようにあって、それをどうしようかっていうことで、この「彼」が聴くんですよね。私は仕事柄、亡くなった人の作品を大量に見せてもらいに行くっていうのが多いんです。誰かが残したもの、作品だけじゃなくて、手紙みたいなものもあったりするし、何かよくわからない、とにかく残してあるものがあって、そうか、「音」に執着する人っていうのもあるかもしれない。それって再生してみないと聴こえないわけです。だからね、再生して聴かなきゃいけないっていうのが、大変というかね、音は聴かなきゃ聴こえないんですよね、ということにふと気づいて。ちょっと朗読にも似てるんですけど、音として再生した途端に理解が全く違ってくる。目で追っているのとは、ひっかかってくるものが違うし。朗読って歌と近いというか、自分が楽器のようなものとしてあって、声を出すためにの楽譜のように考えているのかな。(ふだん本を読む時は、私は)5行くらい一遍に読むんですよ。スキャンしていくみたいに。でも音にするというのは、そのところを音にしていくということなので、テキストの使い方が全く違う。
 声に出して読むことは、意識しているんですね。戸田さんの朗読は、私にはとてもいいんです。2020年だったか、サン=テグジュペリの『夜間飛行』を読まれましたよね、あの頃からずっと聴いている。何がいいんだろう? と考えてみたら、やっぱりテンポ感かなあ。朗読がいいなあと思う人はじつはそんなに多くないんです。速すぎると感じたり、わざとらしさを感じたりして。でも戸田さんの読み方はスッと入ってきますね。
 小学生の頃に初めて自分でカセットテープに朗読を録音して、聴いたんですね、そういう学校の宿題があって。その時、(はじめて聴いた自分の声が)細くて高い声で、この人死んじゃうんじゃないか? と思ってびっくりして。
 それが自分の声なんですね。自分の声をわかって、自分の声で読んでいるからいいんですよ。「音のコレクション」を朗読したら、どうなるかなあ。元々は『アフリカ』の最初の号に載っている作品なんですけど。
 あー! これ? 素敵! いまの『アフリカ』はね、プロっぽいんですよ。えーとね、私の気持ちとしてはちょっと上手すぎるっていうか、でも、もちろん綺麗だから好きなんですけど、この微妙な感じがいいじゃないですか。この表紙の上の方にグラデーションが入っている、仄かなダサさ。でも1号ってこうありたいですよね。
 そうですか?
 いや、だって、1号から上手かったら、お前なに狙ってんの? ってなるでしょう?
 たしかに、そうかも?
 そういえばどうして今日、呼んだのかというと、理由のひとつには、私もそこに書きたいという気持ちがあるんですよ。
 えっ、それは嬉しい、いつでも書いてください。この話の流れは予想してませんでしたね。
 そう思っている人は他にもいると思う。でも自分からそれを伝えにゆくのは恥ずかしいというか。
 私は戸田さんも何か、ミニコミ的な何かを始めようとされているのかなあと予想して来たんです。
 それもね、じつはあります。
 たのしみですね。