翌朝、僕はイネギョルというブルサの東側の村に行くことにした。ここには、カハラマンマラシュで被災したシリア人家族が避難しているというのでお見舞いに行くのである。
その家族というのは、サラーハの父親の妹だ。サラーハという男の子はシリアのアレッポにいる小児がんの子で、父親が2015年に行方不明になり、母親一人で育てるのは大変だろうということで、2020年から僕がお金を集めては仕送りをしている。というのも、ダマスカスの専門病院に行くのに毎回一万円はかかってしまう。行方不明になったお父さんの妹一家がトルコで暮らしていたのだが、カハラマンマラシュで地震の直撃を受け娘がなくなったというのだった。イネギョルはイスタンブールから車で3時間はかかるらしいが、大地震のために何かしなければという思いで旅程を一泊のばしてこの家族に会いに行くことにしたのだ。
イスタンブールのホテルは、一泊5000円くらいだが、朝飯がうまい。オリーブに何種類ものチーズ、サラダも美味だ。意外かもしれないが中東に行くと野菜がたくさん食べれるのである。
朝から小雨が降り肌寒い。アブドラとムハンマドは寝坊したのか約束の時間に一時間遅れてやってくる。結局僕らはフェリーに乗って、マルマラ海を渡ることになった。舟の旅は快適だったがどんよりとした天候で、灰色の海は不気味にも見えた。昼過ぎには、無事にイネギョルにつく。
被災した家族は、カハラマンマラシュをさり、兄弟の家に身を寄せていた。地震の話に入る前に、どうしても聞きたかったこと、サラーハのお父さんのことだった。
「兄は、行方不明になりました。彼の車は見つかり、身分証明が車の中にあったのです。タイヤは燃やされていました。しばらくしたら、シリア政府の刑務所から釈放されたという人がいて、兄と一緒に刑務所にいたというのです。彼は私たちに連絡してきて、情報がほしいならお金を払えと言ってきた。それは、私たちが払える金額を超えていたし、おそらく詐欺師だったと思います。」
サラーハの父はおそらくイスラム国に殺された可能性が高いが、いまだに母は、アサド政権が発表する恩赦のリストの中に夫がいるかを探している。
妹の一家は、2015年にアレッポを出てトルコに移り住んだ。夫は仕立て屋を営み小さなワークショップを持っていたという。地震が襲い、気が付くと瓦礫の中にいた。妻と夫は、12時間瓦礫の中に閉じ込められていたが隣人に救出された。それから一時間後に13歳の双子の息子たちが救出。頭にけがをして出血していたが、大事には至らなかった。
娘3人は閉じ込められたままだった。サラ(18歳)イスラ(16歳)と、マルワ(14歳)だ。イスラはもう自分は死ぬことを覚悟していた。そしてスマホのバッテリーが残っている間に、自撮りした。「私が生きていたことをしっかりと家族に残したかったの」彼女が見せてくれた動画は、がれきの中に挟まっていて、殆ど身動きが取れないでいる自分の姿だった。妹のマルワにも呼びかけるが、声はするもののどこにいるのかわからない。数時間するとマルワは、呼びかけても答えてくれなかった。ものすごく喉がかわいたという。
「幻想をみたの。誰かがやってきてくれて、私に水を飲ませてくれた。助かったと思ったけど、それは幻想だった。」
父もスマホを見せてくれる。「ここにうずくまっているのが私だ。娘たちはこの穴の中にいる。」最初の一日目は、トルコ政府もパニックになっており、誰もレスキューに来てくれなかったので、友人たちで掘り出して救援活動をやっていた。簡単なドリルで穴をあけて行って埋まっている人たちを救出している。穴の中をのぞきながら娘たちが出てくるのをじーっと待っている父の後ろ姿が映されていた。
2人の双子の少年は、興奮気味に当時のことを語り、ムハンマッドの通訳も追いつかない速さでしゃべりまくっていた。僕は、絵に描いて説明してもらい何とか状況を理解していた。
イスラの目の前に光が現れ、気が付くと病院に運ばれていた。地震が発生してから40時間後だった。サラも無事だったが、マルワは、さらに数日後に遺体となって発見された。
「7日後に同じアパートで7歳の女の子が生きて発見されたのに」父は悔しがった。
これからどうするのです?
「わかりません。カハラマンマラシュにはもう家もない。いつまでも親戚のお世話になっていることもできないので、住むとこをまず探さなければ」
トルコにいるシリア難民は350万人。彼らの存在は、国の財政の負担になっている。今回の地震で輪をかけて、トルコ人たちの冷たい目線を感じるという。先日行われた大統領選挙でも現職のエルドアン大統領、対立候補のクルチダルオール氏も難民をシリアに返すことを選挙公約にあげていた。
シリア難民たちにとっては厳しい状況だ。がれきの中で、生きている事を伝え残そうともがいていた、16歳の少女の強さに胸が撃たれた。まさに、シリア難民が置かれている状況を象徴しているかのようだった。