パンチャシラの日によせて

冨岡三智

6月1日はパンチャシラの日(インドネシアの国民の祝日)。というわけで今月はパンチャシラ関連の思い出について。

●パンチャシラの日とは

この日の正式名称はHari Lahir Pancasila(パンチャシラ誕生の日)と言う。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のこと。1945年6月1日(日本軍政期)の独立準備調査会の席上で、スカルノ(のちに初代大統領となる)によってその概念が提唱され、独立後に制定された1945年憲法の前文に掲げられた。1970年代末以降国民統合の象徴として称揚され、道徳教育として学校や公務員に浸透している。これが国の祝日に指定されたのは2016年、ジョコ政権下(2014~現在)になってからである。大統領はこの国際競争社会の中、パンチャシラ精神があれば逆境を克服することができると呼びかけたのだが、その背景には初の華人系キリスト教徒のジャカルタ知事・アホック氏に対するイスラム強硬派の抗議や、海外におけるISなどイスラム過激派の動きの活発化と国内の過激派団体の同調などがあり、多様性の中の統一の維持を強く打ち出したかったのだと思える。パンチャシラの5原則の第1項は唯一神への信仰である。インドネシアでは現在6宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー、儒教)が公認されており、このうちどれかを信教しなければならない。パンチャシラは宗教の別を問わず統合の象徴として存在している。

●2007年12月3日 タマンミニでのアンゴロ・カセ

この行事については、実は2008年1月号の『水牛』に寄稿した「外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ」で書いているので、そちらも読んでいただければ幸いである。ジャカルタのタマン・ミニ公園で開催されたアンゴロ・カセというイベントは、2007年1月から観光文化省の唯一神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニと協力して始めたもので、意見の異なるさまざまな信仰団体の人たちが直接意見を戦わせる場として設けられ、毎回ゲストスピーカーを招いて話を聞き、質疑応答が行われていた。実は2006年8月から就任した信仰局長(スリスティヨ・ティルトクスモ氏)が始めたイベントで、それ以前にも同様の機会がなかったわけではないが、長くは続かなかったらしい。私が出席したのは第9回目の開催だった。最初、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」を斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。インドネシアでは信仰と宗教は区別され、管轄も違う。このアンゴロ・カセに集うクジャウィン(ジャワ神秘主義)の団体は観光文化省唯一神への信仰局の管轄で、上でのべた公認6宗教は宗教省の管轄である。そのことはすでに知っていたが、信仰を持つ団体の拠り所もまたパンチャシラであるということに、私はこの場で初めて気づいた。

●2011年5月31日~6月1日 トゥガルで踊る

中部ジャワ州トゥガルにある信仰団体Padepokan Wulan Tumanggalのパンチャシラの日の記念式典で踊ってほしいと依頼がきた。この時でパンチャシラの式典は5回目くらいだったと私はブログに書き残している。ということは、上のタマンミニでのアンゴロ・カセ開始を機に始まったのかもしれない。段取りはまず前夜の5月31日夜に開会式。後援する観光文化省信仰局長(代理)やら警察やら市の関係者やら多くの来賓を迎えてホールで式典ののち食事、その後舞踊上演。私は自作の『妙寂アスモロドノ・エリンエリン』を披露した。翌6月1日朝9時から屋外の広場で国旗掲揚ののち、各種芸能の上演があった。この日は太鼓上演や東ジャワのレオッグなど大人数で大音量で上演するものが多かったが、私は1人でガンビョンを踊った。その後昼食があり、午後1時から4時まで「Pembinaan “Hari Pancasila”(「パンチャシラ」の育成)」をやったあと閉会式。この午後からのイベントがどういう内容だったのか思い出せないのだが、講演かディスカッションだったような気がする。

この信仰団体のパデポカン(施設)は、この種の施設としてはかなり規模が大きい方らしかった。確かに広大な敷地の中に開会式を行ったホールや国旗掲揚広場、信者たちが修行のため寝泊まりする建物が点在していた。修行のため信者はアスファルトの上に直に寝るということで、寝泊まりする部屋の床はアスファルトのままだったことを覚えている。さすがに私の部屋には敷物を敷いてくれたが…。またパンチャシラの日だけでなく、ジャワ暦正月、カルティニの日など、国の記念日に際してさまざまな式典を行っているのも、この種の施設としては他にないようだとのことだった。

実は2011年~2012年はジョグジャカルタで調査していた。今度、パンチャシラの日の記念式典で踊るんだよと知り合いの先生に知らせたら、インドネシアのために有難うという返事がきて、パンチャシラというイデオロギーの重みを少し実感したことを思い出す…。

●2011年9月16日バンドンで踊る

西ジャワ州バンドンにある信仰団体Budidayaの式典で踊ってほしいと依頼が来た。この団体はスカルノがパンチャシラの概念を打ち出すのに影響を与えたメイ・カルタウィナタ(Mei Kartawinata)が立ち上げた団体で、1927年の9月16日にメイに啓示となる出来事があって発足したようだ。RRI(国営ラジオ放送局)バンドン支局でその式典は行われた。これも信仰局が後援。私は自作「Nut Karsaning Widhi」を初演したが、実はこの式典のために作った曲である。音楽はスラカルタの芸大教員であるワルヨ氏に委嘱し、イベントの趣旨を伝えたところ、olah batin=心の鍛練をテーマに歌詞と音楽を作ってくれた。タイトルもワルヨ氏がつけ、「魂を研鑽し、梵我一如となる」という感じの言葉らしい。Budidayaの人たちに聞いた話だが、この団体を始め信仰団体が開催するイベントはしばしば過激なイスラム団体によって妨害されるらしい。西ジャワは中部ジャワよりもイスラムがきついからかもしれない。私がRRIにいた間は大丈夫だった気がするが、開催にこぎつけるまでにいろいろあったようだ。

●2011年大晦日 チャンディ・スクーで踊る

この時のことについては2012年1月号の『水牛』に「チャンディより謹賀新年」として書いている。これは、スプラプト氏が毎年注ジャワのチャンディ・スクー(ヒンドゥー遺跡)で開催している「スラウン・スニ・チャンディ」という催しで、これもやはり信仰局が後援するイベント。スプラプト氏はスピリチュアルな舞踊の第一人者とも言うべき人だ。実はこの時に私が上演した「Angin dari Candi(寺院からの風)」はバンドンで上演した「Nut Karsaning Widhi」と同じで、場に合わせてタイトルだけ変えたもの。私は衣装を借りに行った先で信仰局の人たちと鉢合わせしたのだが、彼らは芸術イベントが終わった後に開催される夜のお祈りで着る伝統衣装一式を借りに来ていた。ジャワの芸術家界隈には多いクジャウィン(ジャワ神秘主義)もインドネシア全土では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、信仰局としてはクジャウィンの活動をバックアップしたいということだった。


というわけで、6月1日が来ると、この2011年の一連のイベントを思い出す。