しもた屋之噺(258)

杉山洋一

国連のグテーレス事務総長曰く「The era of global worming has ended.  The era of global boiling has arrived」だそうです。「地球沸騰化の時代到来」という言葉を、既に今年の時点で聞くとは、思ってもみませんでした。沸点に到達してしまえば、後は暫く沸き続けるだけかもしれません。こんな大切な時に、我々は何をやっているのか情けなくも思いますが、身から出た錆びなのは否めません。仕方ないと諦めるべきなのかもしれませんが、子供たちを思うと、それも無責任に思えます。
香港高等法院が、香港政府の「香港に栄光あれ」使用禁止要請を却下したそうですが、法院の矜持を感じます。3年前に「自画像」を書いた際、「香港に」をウクライナ国歌とともに曲尾に使ったのを思い出しました。

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7月某日 三軒茶屋自宅
町田の母が昼食に用意した、ブラウン・マッシュルームと自家菜園ニンニク、それにアスパラガスのパスタの写真が届く。
馬場くんとドナトーニEtwas Ruhiger im Ausdruckについて、ズームで話す。作曲者本人を知っていれば、様々な疑問に関しても、本人の性格を鑑みてそれなりに対処できるのかもしれないが、例え本人を知らなくて、結果的に本人の意志と離れた解決方法で対処したとしても、それは構わないのではないか。特に、ドナトーニのように、音符を書き上げるところまでが自分の仕事と思っている作曲家であれば、猶更そうにちがいない。
この処、早朝世田谷観音に散歩に出かけるたびに、涼し気な澄んだ声で鶯が啼いている。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝から「軌跡」の譜面を眺める。
一足先に功子先生とリハーサルをした清水君よりメールが届き、「幼少期に憧れた巨匠達の名演の香りが溢れていて、言葉にしがたい感情を抱きました」、とある。
東京現音計画演奏会にでかけた。どれも面白かったが、特にドロール・ファイラーに衝撃を受ける。ノイズ音楽に興味があるのでも、爆発的音響が好きなわけでもないが、彼自身が舞台に上がり、突き動かされるようにかかる音楽を自ら体現する必然に、深く心を動かされた。
その強烈な大音響の中、小学校低学年と思しき女児と母親が、耳を抑えて会場を出て行ったので同情していると、直ぐにまた大はしゃぎしながら戻ってきて、駆け足で席に戻った。

7月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの湯浅先生との再会を喜ぶ。思いの外お元気そうだ。湯浅先生はもうすぐ94歳だが、「世界中見渡してもこの年齢まで仕事する作曲家は少ないですから、もう作曲はいいですよ」と笑顔で仰った直後に、「でもまだ書きたいかな」ともぽろりとこぼされるので、断筆宣言は程遠いと安堵する。
菫色のタイにワイシャツを颯爽と併せ、相変わらずお洒落で生粋の紳士だと感嘆。湯浅先生は今日のように少し光沢ある質感の服をお召しになる印象があって、彼の作品の手触りにも通じる。
尤も、実際作品を演奏すれば、宇宙空間の隕石のような質感が、磁力と見紛うほどの強力な方向性と重力を纏って駆け抜けてゆく感覚であって、エネルギーに圧倒される。
クセナキスは音そのものを生々しいほど直截に表現し、音の周りの空間など終ぞ感じさせなかったが、湯浅先生の音は、音が浮かぶ空間全体が俯瞰される。二人とも等しく音の運動を具現化していても、湯浅先生の作品がコスモロジーに繋がるのは、そんなところにも理由があるのだろう。寧ろ、コスモロジーに端を発し、かかる空間性が啓かれたのかも知れない。「軌跡」の最後、明滅する光を、どう表現すべきか、湯浅先生の横顔を眺めながら考えていた。
その後、代々木八幡の功子先生宅にてソリスト合わせ。恩師を独奏者に迎え、自作を指揮するのは何とも不思議な心地だ。恩師を指揮するだけでも落着かないが、それに輪をかけて、恩師が自分の作品を弾き、注文まで付けなければならないとすると、これは全く居た堪れない思いであった。
尤も先生は、この妙な一期一会をすっかり愉しんでいらっしゃるように見受けられた。こちらは全く記憶にないが、先生曰く、相当こましゃくれた坊主だったらしく、その頃を思い出して面白がっていらしたのかも知れない。
とはいえども、無知だから生意気でいられるのであって、馬齢を重ねて多少は世間も見えてくれば、幾ら厚顔無恥であれ、恩師を前に涼しい顔でやり過ごせるものではない。
併し、その当惑をも吹き飛ばすかのように、先生は一音目から実に雄弁で説得力があって、圧倒されるばかりであった。想像していた通りの音が目の前で鳴っていて、その昔レッスンで先生の音に聴き入っていた時のような錯覚を覚える。
演奏会の宣伝に使おうと、百ちゃんが写真を撮りに来てくれたのだが、この光景に感動して泣きそうになっていた。
リハーサル後、百ちゃんと代々木八幡の食堂で軽い夕食。この小学校来の親友とは、もう何十年も前から互いに駄弁を奮って、四方山話に花を咲かせてきた。百ちゃんのところの古部君と家人も古くからの気の置けない親友だから、長らく夫婦通しの付合いが続いている。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝から自作の譜面を広げているが、この作業は本当に苦痛を強いる。
自作を理解しているつもりでも、それは楽譜に書かれた音符のあちら側の事情であって、こちら側の実情には余りに無知だし、頓着していないと悟るのは、あまり愉快なものではない。
勉強に際して、努めて先入観を排して譜読みすべきではあるが、自作ともなると先入観を取り除くのも容易ではない。特に、自作演奏に際しては、極力音符を振るべくつとめるべきであり、音楽について、余計な拘泥などしない方がよいだろう。そんなことをしているうち、10時の美恵さんと悠治さんの待ち合わせに遅刻してしまった。
互いの近況報告、体調報告等、久しぶりに会えば、誰とでもそんな話ばかり、と皆で笑う。昨日、悠治さんから、「ジョンシェ」の下敷きである「エルの伝説」との比較分析の論文をいただき読んでいたので、そのはなし。
ジョンシェのスコア巻頭に、クセナキス自身が、「ジョンシェ」は「エルの伝説」を下に書いたと明記してあるが、具体的にどう使われていたかはわからない。
その論文は、それぞれの音響解析のグラフを提示して、どの部分がどう対応しているかを示す。「まあそうかもしれないけどね」程度に頭に留めておけばいい、と二人で話がまとまる。
「ジョンシェ」の最後、金管楽器が咆哮するあたりは、確かに論文に示された「エルの伝説」対応部分を思わせる。だから、ほぼ間違いなく、その部分を使って、「ジョンシェ」のあの部分を作曲したに違いない。とは言えそれが「ジョンシェ」を演奏に、新しい霊感を与えてくれるものでもない。
尤も、逆の立場から言えば、作曲家として「エルの伝説」で丁寧に用意したグラフを、全く違った音響で肉付けしてみたいと思うのは至極当然の欲求だろう。
同じグラフを使い、テープ音楽のような人間の呼吸が介在しない作品と、人間の集合体の最たるものである大オーケストラを使って、全く違う作品を作りたい、というのは、究極の比較とも言える。時間軸に定着された音響の帯と、無数の人間の呼吸が織りなし、紡ぎだす音の熱量。極度に抑制されたテープ作品の倍音構造と、ほぼ不確定に重なり合う無限の倍音群。
少し早めの昼食、「宝蘭」にて海老ソバに舌鼓を打つ。美味。

7月某日 三軒茶屋自宅
夜、池辺先生、福士先生、三善先生の「詩鏡」を聴きに、東京シンフォニエッタ公演に出かける。池辺先生も傘寿。頓に今年は八十寿の音楽家が多い気がする。
福士先生の作品では、音楽の空間性とその空間性が生み出す方向性、推進力に惹きこまれる。池辺先生の作品は、何より先生の音の質感が好きなのだ。音響を作るのではなく、あくまでも人によって奏され、そこに生まれくる音を書き留めていらっしゃるから、表層としての音ではなく、人が介在した結果としての音を愛でていらっしゃるのが良くわかるし、発音された音はとても強い。楽器の音をぼやかさず、直截に聴かせるから、音の内実も実感できる。楽音が丸裸になっているから、単純に見える楽譜でも、実際演奏はやさしくない。
初演以来から再演されていなかった、三善先生の「詩鏡」を初めて聴く。音の主張の強さ、ぎっしりと詰まった作品の密度の高さに、改めて作曲とは何かを身につまされる思いがする。お前ちゃんとやっているのかい、と問われているような心地で聞いてしまったが、多分それは先生の本意ではなく、単にこちらの問題である。とにかく一つ一つの音の展開は、とても誠実にあつかわれていて、自分はなんとがさつな人間かと思う。
久しぶりに由紀子さんと大竹久美さんに再会。由紀子さんは大竹さんのスタイリッシュなスポーツカーで颯爽と帰宅された。前回お目にかかった時より、足取りも軽くお元気そうで嬉しい。
上野で垣ケ原さんと軽食。未だ仕事しなければならないので、ほやと豆腐とノンアルコール・ビールを頼む。垣ケ原さんは、生前武満さんから聞いた、架空のオペラ計画「コカ・コーラ殺人事件」について話してくれる。
帰宅すると、拙作の演奏者の皆さんよりArdenteとVeemente, Impetuosoは、どれも「激して」という意味のようだが、どう違うのかと質問が届いていた。
ArdenteもVeementeも揃って懐古調で、30年イタリアに住んでいるが、日常会話の中では聞いたことも使ったこともない。古めかしいというか、厳めしいというのか、マンゾーニの小説あたりに出てくる単語だから、イタリア人には通じるが普段使う機会も必要もない。白状すれば、全部同じ標語では単に能がないから変えただけなのだが、一流の演奏家はさすが楽譜の読込み方が違う。
こんな感じで語感が好きな言葉にsubitamente がある。仏語のsubitement も西語のsubitamenteも現在でも普通に使うようだが、伊語でsubitamenteと言えばマンゾーニ時代かそれ以前の響きがするから、ちょうど我々が漱石の日本語を読む塩梅だ。イタリア人にsubitamenteと言えば、もちろん通じるだろうが、仏語か西語経験者と思われるか、イタリア文学研究者と思われるに違いない。
以前、家人がsubitoと言おうとして、subitamenteと話していたが、相手が特に何も反応していないのに、内心酷くがっかりしていた。

7月某日 三軒茶屋自宅
改めて功子先生宅にリハーサルに伺う。近所の伊料理屋でシチリア菓子とナポリ菓子を購い、持参する。先生の気迫と音の張りは、こちらを数倍凌駕している。
その伊小料理屋でコーヒーを一杯呷った際、メニューにカフェ・トニカがあって、これは何かと尋ねると、何でもエスプレッソとトニック水を併せたもので、夏によく吞まれるのだそうだ。元来2014年くらいからあるコーヒーのヴァリエーションだったが、近年特にSNSを介して爆発的に世界に流布して最新の流行となったという。カフェ・シェケラートみたいにエスプレッソと砂糖と氷をシェイクしたり、カフェ・トニカのようにトニック水で割る方が、先にコーヒーを用意して冷蔵庫で冷ましておくよりずっと新鮮な香が楽しめるので、至極論理的に考えられたメニューなのかもしれない。
ミーノより、ハイデルベルグ・フィルの音楽監督に就任したとの報告を受けた。今まで長らくずっとサポートしてくださって、本当にありがとうございました、とある。これは凄いなと感激していると、外山雄三先生の訃報が届いた。
先日の尾高賞の選考にも、外山先生が関わっていらしたはずだ。子供の頃から、折にふれ演奏会やテレビで外山先生の演奏に触れてきたけれど、なぜか鮮明に思い起こすのは、テレビで目にした、読響との「ローマの祭」の指揮姿である。
棒に合わせてオーケストラが弾くというより、外山先生の考えた音をオーケストラが鳴らすよう、外山先生は振っていらっしゃると思った。当時、指揮など皆目わからなかったが、やはり作曲する指揮者は別の視点から見ているのかしら、と生意気なことを考えていた。

7月某日 三軒茶屋自宅
普段、リハーサルに臨むときの緊張とは全く違う緊張感を胸に、リハーサル会場へ向かう。
会場入口手前で功子先生と、手伝ってくれているももかさんにお会いしたが、どこか不思議な気分であった。今までは、ヴァイオリンを習っていた頃の自分と作曲を始めてからの自分が、どこか分離して平行線を辿っているような感覚を持ち続けてきた。
3歳から16歳までの自分と、16歳から現在までの自分という風に、無意識にどこかで境界を曳いていたものが、ここでは何だか解放されたようで、紙縒りのように捩れていたものの存在に気付く。「演奏会をぜひ何かやりましょうよ」と先生にお話ししたのも、自覚していなかったとは言え、実は自分のためではなかったのかとさえ思う。
言霊とは好く言ったもので、とにかく言葉にしてしまえば、その言葉が独りで歩き出し、いつしか実体となって、気が付けばこうして実現していることもある。なるほど面白いものだ。
皆の前で先生が弾き、生徒たちはその音に耳を傾けて、一緒に音を出す。子供のころ繰返しやっていた本当に懐かしい光景が目の前で展開されている。
洋ちゃん小さいからここに立って、などと、てきぱき舞台の立ち位置を決めていらした先生の声が、突然耳の中に甦る。
「これから、忘れられない夢のような3日間になるわ」と喜代ちゃんも感慨深そうである。
思いの外明るく軽やかに、バッハが始まった。ほんの最初だけ、オーケストラは先生を慮って、少し後ろに抑えながら弾いている印象を受けたけれど、直ぐに音楽が混じり合うようになる。篠崎門下は、特定のスタイルがないところがスタイルなのだそうだが、直ぐに互いに音が交り合い収斂されてゆくのは、全く持って肝胆相照らす仲というところか。トップの木野さんの采配も見事だった。
久しぶりに再会した岩田さんから、雨田光弘先生の近況を伺い、どうにも信子先生の位牌に手を併せたくなり、夜、思い切ってお宅を訪ねた。
コロナ禍もあって、つつじが丘を訪れるのは3年ぶりだった。以前信子先生の寝室だった2階の部屋はこざっぱりと片付けられていて、扉のすぐ隣にちょこんと仏壇がおいてある。
その隣の部屋にはちゃぶ台とテレビがあって、そこで一緒にご飯を頂いたことは数えきれない。テレビでは、いつも古い演奏会のヴィデオやテレビ中継がかかっていた。
でも、隣の信子先生の寝室に入ったことはなかった。ここの窓からは遠く富士山も望めるそうだが、いつも薄暗く閉め切っていたから、信子が眺望を愛でることはなかったよと、光弘先生は笑った。仏壇には、今の自分位の年齢と思しき信子先生の写真が飾ってある。高校大学と先生にお世話になっていた頃の写真に違いない。
信子は出来るだけ目立たないようにしているつもりでも、いつも目立ってしまってねえ、と光弘先生は目を細めた。自分に対しても他人に対しても、終わった演奏を批評することも拘泥することも殆どなくて、さっぱりしたものだったよ、と笑った。余り褒めもしなかったが、貶すこともなく、誰に対しても変わりない態度で接していたよ、と話して下さった。
16年近く可愛がった二匹の猫が、揃って忽然と姿を消したのが余程堪えたに違いない。それ以来すっかり体調を崩してしまってね。まさかこれが最後になるとは思わず、病院に行ったんだ。
そんなお話しを聞いているうち、どういう流れだったか悠治さんの話になった。
その昔、日フィルでユージがコンピュータで作った曲をやったときは、小澤征爾の横で、アシスタントがこうやって大きなプラカードを掲げていたんだよ、という話になる。
そのプラカードには小節数が書いてあってね、それを見てオーケストラは弾いたんだ。
でね、あの時小沢征爾に、お前チェロの音が違うって、すごい剣幕で怒られちゃってさ。怖かったんだよ、と仰るので、それは冗談だったのでしょうと言ったが、どうやら本当に震え上がったそうである。
尤もその頃、光弘先生は小澤先生のお子さんにチェロを教えていたくらいで懇意にしていらしたから目を付けられたんだよ、と周りに慰められたそうだ。
なるほど、どうやって「オルフィカ」を初演したのか不思議に思っていたが、少し謎が解けた気がする。日フィルに残るパート譜の落書きを見ると、リハーサル風景まで目に浮かぶようでもある。因みに、オルフィカは小澤先生に献呈されている。
光弘先生が横にいらした間は大丈夫だったが、光弘先生が、じゃあお茶でも用意するね、と先に階下に降りて一人になった途端、涙がこぼれてきて困ってしまった。もっと早くにここに来たかったし、来るべきだったのかもしれないが、やはり来るのも辛かったのも実感する。

7月某日 三軒茶屋自宅
二日目のリハーサル。昨日で雰囲気は大分掴めたので、どの作品も細部の調整や手直しを丁寧にやる。皆から、洋ちゃんと呼ばれる面映ゆさにもさすがに馴れた。「洋ちゃん」はヴァイオリンが弾けた頃の自分に繋がっているから、もう楽器もなく一切ヴァイオリンなど弾けない自分は、そう呼ばれると何とも申し訳ない心地になってしまう。そんな無意識の困惑も、昨日やっているうちにどうでもよくなってしまった。
オーケストラの錚々たるメンバーを見渡しながら、改めて先生の人徳だと恐れ入る。総じて、学生は恩師の真価など、習っている時分は殆ど理解していない。そうして習い終わって社会に出てから恥じ入ったり、青くなったりするものである。
清水君はブラームスのリハーサルで、2楽章の主題がシューマンが自殺を図る直前に書き残したものを、クララの許しを得てブラームスが使ったものだと話してくれた。
清水君とも小学生時代からの付合いだけれど、これほど柔和に丁寧に音楽を紡いでゆく人だとは知らなかったから、その姿にも感動を覚えた。昔からよく知っている積りでも、何も分かっていなかったのだなと内心自らを笑い飛ばしていた。
リハーサル後、百ちゃんと古部くんに自宅まで送ってもらう。何でもまた学校などでコロナが流行しているらしい。

7月某日 三軒茶屋自宅
無事に演奏会終了。こういうのを「水を得た魚」というのか、リハーサル開始から本番終了まで、功子先生は困憊されるどころか目に見えて闊達になって、本番が一番生き生きと輝いていらした。我々誰もがその姿にすっかり感じ入り、首を垂れるばかりであった。先生の後姿を拝見しながら、我々一人一人がこれから自分はどう生きてゆくべきか、それぞれ感じ取り、考えたに違いない。そんな為にここに集ったのではなかったが、結果的に実に素晴らしい機会をいただいたと思う。
拙作も含め、バッハもブラームスも圧巻であった。ブラームスでは舞台上でも舞台袖でも、演奏者も学生も泪を拭っていたのが印象的だった。もちろん、悲しくて感涙に噎いだわけではなく、純粋に心を動かされる音楽だったからだ。何しろ先生が一番溌溂お元気だったのだから。
古部君の渾身の演奏にも、大変感銘を受けた。

木野さんから本番直前、そう言えば洋ちゃん鉄道好きだったよね、と話しかけられる。よく覚えていますね、と感心したが、確かに小学生時分、いつも木野さんに鉄道の話題の相手をしていただいていた記憶がある。彼は今でも鉄道ジャーナルを欠かさず読んでいて、廃線になった兵庫の別府鉄道の車両保存にも関わっているそうだ。洋ちゃんは小学生くらいのとき、別府鉄道に乗りに行っていたよねえ、僕も今も毎年一回は加古川を訪れているんだよ、とのこと。
拙作のオーケストラ最後の和音で、第一ヴァイオリンだけFの数が一つ少ないのはなぜか、と尋ねられる。他のパートは全てFが6つ書いてあるが、第一ヴァイオリンだけ5つで書いてある。これはやはり低音を強調したかったからかと尋ねられたが、謂うまでもなく単に書き落としただけである。作曲者など、概ねそんなものである。

夜、沢井さん宅を訪れ、「待春賦」のリハーサルに立ち会った。沢井さんが十七絃を弾かれるのは久しぶりと聞いて愕くが、ビロードのような沢井さんの音はまるで変っていない。対する二十五絃の佐藤さんの音は透明ですらりとしていて、二人の対比がうつくしい。
弾き進むうち、沢井さんの音はどんどん熱を帯びてくるのにも心を打たれた。沢井さんは二十五絃のパートも熟知していらして、作品が意図する各人の呼吸の差異に関しても、実に的確に指示を出されるのに舌を巻く。わたしとは違う呼吸で弾いてちょうだい、と繰返していらした。
無学ながら、邦楽奏者の音は、まるで声紋のようだとおもう。このように、西洋楽器奏者より、邦楽では各人の音の個性が際立つのは何故だろう。音だけでなく、音を包み込む周りの空間、発音を絡み取り、空間に解き放つ所作、それらすべてが関わっているからだろうか。どこまでも深遠な音の対話に耳を委ね、そこにいつまでも遊んでいられる、全く至福な時間であった。
改めて思ったが、やはり音楽は悪いものではない。例え自分がこの世にいなくとも、その時生きている人の手によって、その瞬間にそれぞれ新しい自分の分身を世に生み落としてもらえるのだから。
それは自分とは、略、無関係かも知れないけれど、素敵なことだ。

(7月31日 ミラノにて)