「水牛」を読む(4):『水牛新聞』第4号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 今回は『水牛新聞』第4号を読む。刊行されたのは1979年4月1日である。以下では、前回扱った喜納昌吉と白竜の「誇りと笑いの祭」の後日談を紹介する。ついで、「ことばについて」と「玄関」という二つの文章に触れる。ただ、今回はあまり多くの記事を紹介できないので、上記三つの記事を紹介する前に、第4号にどのような記事が掲載されているのか外観だけでもおおまかに示しておこう。

 

演劇、言葉、アイデンティティ

 第4号掲載記事を最初から最後まで一通り読むと、これまで読んできた創刊号から第3号までの連続線上にやはりこの第4号もあり、そこで一貫しているのは、演劇、言葉、アイデンティティという要素である。

 まず演劇についていうと、第一面に掲載された「在米フィリピン人による人民のための演劇——シニング・バヤンの運動」という記事は興味深い。シニング・バヤン(Sining Bayan)は「74年にサン・フランシスコのベイ・エリアで生まれた文化活動のグループ。名前の意味は、“人民のための芸術”」であり、もとはフィリピン民主党(KDP)の文化活動の一環として生まれたものだという。教育的効果を狙った集団創作による演劇活動を展開し、政治意識の強い団体だった。例えば、『ナルシソ/ペレツ』という芝居は、「ナルシソとペレツというふたりの看護婦の不当解雇反対のため」に作られたものであり、実際に二人を守る会に多くの人を巻き込むことに成功したという。ところで、記事には、「フィリピンのラディカルな新聞『カティプナン』紙がこのシニング・バヤンのメンバーにインタビューし、グループの歴史、活動の内容などを尋ねているが、その一部をここに紹介したい」とある。『水牛新聞』第4号にこの記事が掲載されたのはどういった経緯によるのだろうか。というのも、シニング・バヤンについては日本語や英語で調べてみても、あまり多くの情報が出てこなかった。この記事はそういう意味でも大きな資料的価値を持っていると思うのだが、この記事は誰が書き(あるいは訳し)、どのような経緯で『水牛新聞』に掲載されたのか、できることなら知りたいものである。

 また、演劇にかんして目をひくのは「解放教育のなかの劇場——湊川高校の実践」という記事である。竹内敏晴が行った湊川高校での演劇教育を詳細に報告したものである[1]。記事を読んでいて最も印象に残ったのは、演劇に対する生徒たちの反応の鋭さ、そして、そのみずみずしい感受性が、非常にもろい言葉で表現されている点である。例えば、1977年11月に、「竹内スタジオ」は湊川高校学園祭で清水邦夫の『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)を上演した。この難解な作品に対して、「つまらない」という反応はなかったという。ではどのような感受性がその時示されたのか。生徒の感想文をここで孫引きしておこう。「私たち、あまり劇には遠い存在である。しかし、その劇を見てとても感動した。劇をする皆さんよくやってくれました。でも、僕たちにはなにがなんだかわからない。全然いみのない劇である。あれをするために、わざわざ東京からやってきたもんだ! 僕は劇を見終わったとき、涙が出た。もう今後こんな劇はやめろ。まんざいしでもつれてきたほうがよい」温かく、しかし屈折した、言葉で言い表せないような言葉がここには綴られている。私はこの感想を読むことができただけでも、この号を読む意義があったと思っている。

 第4号には他にも、「ウリ・スンニ・ハリラ——アジアの女たちの会の集団創作劇」「ヤマトの腹中で沖縄文化をつくる」そして、佐藤信の「主題・アジア演劇論2」が演劇を扱っている。

 言葉については、後に「ことばについて」という文章を扱うが、それ以外にも、まず有原学「朝鮮語——その抵抗の言語」という文章がある。面白いのは、「ヨクロル(辱説)」と呼ばれる罵り言葉について述べたくだりが、本文後半においてキム・ジハの『蜚語』の分析につながるところである。また、言葉、というよりもは詩を扱ったものだが、「チット・プミサック」と題された文章は、この号の中でも特に目立つ記事である。というのは、文章の横に、紙面の四分の一ほどの大きさでプミサックの肖像が掲載されているからである。1930年に生まれ、若くして「作家、翻訳者、詩人、作曲家、ジャーナリスト、評論家、歴史学者、考古学者、言語学者」として活躍し、「生きるための芸術」を唱え、しかし1958年には国家治安法違反で投獄され、釈放後、武装闘争に加わるも1966年に射殺されたプミサク。この人の生については、水牛の本棚に置かれた、荘司和子の編訳による『ジット・プミサク——戦闘的タイ詩人の肖像』が詳しい[2]。

 また興味深かったのは、「太平洋の島々で詩の運動がはじまった」と題された記事である。フィジー共和国のスバで1975年に出版された『ゴング』というアンソロジーをもとにしているのだが、このアンソロジーは太平洋の島々で高校生たちによって書かれた「ピジン・イングリッシュの詩と英語の詩」を集めたものである。このアンソロジーはエファテ島ヴィラにあるイングリッシュ・スクールの生徒たちが1972年から1974年まで3年間刊行しつづけた雑誌から選んだ22篇の詩と文章から構成されているという。アンソロジーの現物を確認することはできなかった。でも訳出されている文章には次のように記されている。「英語で教育された若い少年少女が英語と、書き、撮り、編集し、印刷する技術をつかいこなして、ニュー・ヘブリデス的ななにものかをつくりだし(…)ニュー・ヘブリデスの島々からの声をひびかせる。」

 アイデンティティにかんしてなかなか読みごたえがあるのは、李潤植の「音楽と民族精神」である。紙面を一面まるまる使用したこの論考は、文末を読むと、もともとは『漢陽』という媒体に1971年に掲載されたものだという。どのような経緯でこの文章を訳し、掲載することになったのか。誰が翻訳したのか。ぜひとも知りたいものである。アイデンティティという言葉は、この第4号の他の記事にも見られるものであり(例えば、上にあげた『ゴング』や、これから読む「玄関」など)この号の記事の全体を貫くテーマだといってもいいかもしれない。

 以上、演劇、言葉、アイデンティティという枠組みで第4号の記事をざっと見渡したが、この他にも、第4号には「タイ農民小説の世界『ゾーイ・トーン』」やタイ映画「田舎の先生」の上演会の知らせ、「合言葉をつくる——全国一般南部支部のたたかい」、韓国の風刺的マンガ「コバウおじさん」、そして、非常に感動的なのだが、カラワン楽団のスーラチャイ・チャンティマトンから届いた手紙が掲載されている。これらの記事の中から今回選んだのは、まずは前回紹介した記事の後日談ともいえる「誇りと笑いの祭のあとで」である。

 

誇りと笑いの祭のあとで

 喜納昌吉、白竜(記事では「白龍」と表記)、そして青生舎によって1979年3月8日に行われた「誇りと笑いの祭り」について前回紹介した[3]。そこで引用したのは、次の文章だった。「千人の会場は、けっして広くはないが、79年春にふさわしい意欲と熱気、さらに根拠ある熱狂で埋めつくしてみたい。3月8日は確実に、根のある動きを糾合し、ゆるやかに出会う一つの水路となるだろう。」どんなコンサートだったのか気になっていたところ、第4号にその後日談が掲載されていた。コンサート企画の経緯について次のように書かれている。

 企画は、まず、内申書裁判をたたかう「青生舎」の呼びかけに、「筑豊と共闘する会」「沖縄講座実行委員会」が、共同企画に加わり、これに、『水牛』編集委員会が、協賛した。/とくに、在京の沖縄青年を主体とする「筑豊」「沖縄講座」は、自分たちの運動の一貫として、コンサートの〈場づくり〉にとりくみ、チラシ配りからチケット売りまで、お互いの労働のあい間をぬい、都内にある沖縄料理点を歩くなどして、ひろく仲間に呼びかけた。

 これを読むと、「誇りと笑いの祭り」に水牛がかかわっていたことがわかる。ただ、「筑豊と共闘する会」および「沖縄講座実行委員会」については、どのような組織なのか今回調べがつかなかった。住民図書館編『ミニコミ総目録』を参照すると、「筑豊と共闘する会」については『筑豊通信』という機関紙を発行していたことだけが記されており、「沖縄講座実行委員会」の方については何も記されていない。『筑豊通信』については、立教大学の共生社会研究センターと滋賀県立大学朴文庫に所蔵されていることがわかったので、日本に帰国したら調べてみたい(ちなみに朴文庫は朴慶植が遺した資料を整理したものである)。また、『筑豊通信』の写真が一枚だけインターネット上にあったが、内容まではわからなかった。

 当日、会場は満員だったという。その熱気については次のように説明されている。

 千人の会場をうめつくした当日のコンサートは、舞台からの歌と語りに、客席はわき、前半分は、たちあがり踊った。/(…)/「基地問題」や「反CTS(石油備蓄基地)闘争」が語られ、さんしんによる沖縄民謡が聞こえてくる。つき動かされるものが、じっとしていられないものが、人びとを立ちあがらせる。

 実はこの紹介を書きながら、喜納昌吉と白竜の音楽を聞いた。特に白竜の「アリランの唄」は聴いていると引き込まれてしまい、文章が書けなくなった。文章を通してこの歌声や熱気に手を伸ばすことなどできるのか、という思いも兆してくる。そう思いながら『水牛新聞』創刊号をもう一度読み返していると、そこには「新しい風よ、吹け! 玄界灘から白竜のメッセージ」と題された小さな記事があった。この記事自体は白竜が書いたものではなく、白竜の言葉を紹介する形で書かれている。この記事には署名がない。だから誰が書いたのかはわからないのだが、この記事の約半年後に「誇りと笑いの祭」が行われていることを考えると、このコンサートの準備の過程でこの記事が書かれたと推測するのが自然だろう。この無署名の記事は先に述べた歌声と熱気をさらに深くイメージさせてくれると思うので、最後に少しだけ触れておこう。

 そこには白竜の経歴が、1977年9月に行なった在日韓国人政治犯支援コンサート「無言のままでいられない」から始まったことが記されている。その後、1978年7月の沖縄における喜納昌吉との出会いまでが短く記され、そして白竜の次のような言葉が引用される。「1980年代とは、醒めている人たちが燃える時代だ。これまでの、アンハッピーで、ただ、がむしゃらに自分の感情をぶちまけていたような歌ではなく、あたらしいメッセージ・ソングを、どんどん歌ってゆくつもりだ」。この言葉は、「誇りと笑いの祭」のコンセプトとも、また「アリランの唄」の中の歌詞「さてさて 俺たちのアリランは ともに笑い歌いながら 海を越えて響き渡る 喜びのうた」という歌詞とも強く共鳴している。

 この共鳴、「誇りと笑いの祭り」を包む、新しい風を巻き起こさんとする息吹の背後には、それでも少し、不穏な陰りがある。このコンサートの約2年後、白竜は第二アルバム『光州City』を出すことになるが、それは発禁処分になるだろう。「誇りと笑いの祭り」とこのアルバム発禁処分の間に起こった出来事について、それでも今はまだ触れない。それに触れるのは、もっと先の方、1980年6月16日に急遽刊行された『水牛通信』号外を扱う時以降である。

 

「ことばについて」

 前回、水牛の文体について述べた。文体について言及したのは、『水牛新聞』第3号でそれが問題となっているからなのだが、それに加えて、後に扱う『水牛通信』の文体をめぐる仮説がちらちら頭に浮かんでいるからでもある。どういう仮説か。これは私の感覚なのだが、『水牛新聞』と『水牛通信』との間には何か違いがあり、それは(タブロイド新聞から冊子へというスタイルの変更はいったん括弧に括ると)文体なのではないか。非常に暴力的に言い切ってしまうならば、『水牛新聞』の文体は非常に硬質で、熱く、しかもどこか客観的なところもある。それに対して、『水牛通信』になると別の性格、もっと柔らかで入り組んだ手触りの文体になるように思われる。実は、このような違いを感じている人は当時の読者にもいたようで、『水牛通信』1980年3月号にはこの違いを指摘する読者投稿もある[4]。ただ、強調しておきたいのだが、この文体の違いは『水牛新聞』と『水牛通信』との断絶ではない。『水牛新聞』から『水牛通信』の間で変わらずに受け継がれた文体もあれば、両者の間で徐々に生成していった文体もあり、さらにはきっぱりと違いがある文体もある。ただ、いいたいのは、『水牛新聞』の段階から胚胎されていて、それが『水牛通信』への移行とともにはっきり顕在化した文体があるのではないか、ということである。なぜこんな仮説をくだくだ書いているかというと、これから読む二つの文章のうち、特に「玄関」には先に述べた新しい文体の萌芽が見られるように思うからである。そこで、まずは前回述べた文体の問題をさらに掘り下げ、文体が水牛にとって重要であることを再確認させてくれる「ことばについて」という文章を読む。ついで、「ことばについて」で語られている文体が来るべき文体へと徐々にうつろっていく「玄関」を読んでみよう。

 前回検討したのは、「水牛は何をめざすか」という文章だった。そこでめざされている文体についてのくだりをもう一度引用しておこう。

 この文体は「私」をしらない。すべてを「私」にひきうけるのではなく、一人のものもみんなにわかちあうことが、文体の上でも必要だ。内面の表出ではなく、りんかくのはっきりした身ぶりをつくりだすことば、白紙の上にかきおろされた新鮮さがそのまま引用の持つむだのなさであるようなリズムを発見することだ。

 ここでいう文体とは何か。この問いについて前回はっきりと述べていなかったので、今回はその点に少しだけ触れておきたい。まず、上の引用箇所で述べられている文体は、文体という時に普段私たちがイメージする語義とは違うように思われる。一般的なイメージとは、文の体裁やある書き手に特有な文章の傾向のことである。ごく素朴な見方として、文体は「個人の精神的個性と結びついている」ものとして了解されているはずだ[5]。ところが、先の引用ではのっけからそれが否定され、「この文体は『私』をしらない」と宣言されている。

 では「『私』をしらない」文体とは何か。まず思いつくのは、無署名の文章、誰が書いたのかわからないような文章、要するにジャーナリスティックな文章がもつ文体である。これは、いってみれば字義通りの解釈だ。そこではまず、署名の有無が問題となる。実は、第4号の「編集後記」を読むと、実際、水牛のメンバーがこのような無署名の記事を書くある種の実験をしていることがわかる。前回、金武湾の祭りを論じた津野海太郎の文章に署名がなされていないことを指摘しておいたが、署名がなかったのは、そのためだったのである。「編集後記」にはこう書かれている

 前号あたりから、翻訳や評論のほかに、編集委員会のメンバーが「取材」をして書く、無署名の文がおおくなった。/それにつれて、われわれが「水牛」の運動をつくりだしてゆくために、どのような「ことば」が必要なのか、という問題が生じてきた。新聞をつくるひとつひとつの段階で、かならず、そのことが問題になった。

 これだけ読むと、ごく普通の新聞に掲載されているような、その日その日消費されていくだけの無署名の文章が求められているようにも読める。だが、そう言い切ってしまうのは早計である。というのも、この引用の後には次のように続くからである。「『私』からながれだして、また『私』にもどってくるのではない——そのような『ことば』の必要に直面しているのは、もちろん、『水牛』だけではない。」

 新しい要素が出てきた。「ことば」である。「『私』をしらない」文体とは、「ことば」それ自体をどう捉え直すのか、という問いかけの果てに生まれる文体、新たな「ことば」で綴られた文体ではないか。先ほどの字義通りの解釈に対して、こちらは思索的な解釈、反省的な解釈である。「『私』からながれだして、また『私』にもどってくるのではない」「ことば」の探究とは、そうなると、具体的にこれというモデルを指し示すことのできるものではなく、「ことば」という概念をずらし、別様に眺めてみる試みのこととなる。では、新たな「ことば」の捉え方とは具体的にはどういうものだろうか。第4号に掲載されている高橋悠治の「ことばについて」という文章は「ことば」についてより具体的なイメージを与えてくれる。

 「長い年月音楽をやっていると、ことばがほしくなる」という一文で開始するこの文章は、「ことば」を「かたち」として捉えようとする。引用しよう。

 ことばが理念を意味するのではなく、かたちをしめすとすれば、そのかたちは日本語の「かたち」の語源とはすこしちがうだろう。金属でできたいがたよりはしなやかで、衣服のように身につけることができて、かたちは着るひとによってすこし変わる、そんなものをかんがえてみる。/ことばを意味でとらえれば、解釈が問題になる。ことばをかたちでおさえれば、身につけることが問題になる。それが実践だ。

 衣服のように身につけることができるもの、という「ことば」のイメージは興味深い。同じことばなのに、それを話す人によって(たとえ同じような文脈や状況であったとしても)微妙に雰囲気が異なるということは経験がある。ただ、ここで力点が置かれているのは、そのようなことばの雰囲気や佇まいというよりも、むしろその「かたち」としてのことばを身につけることのほうである。それはもしかしたら、楽器の演奏に近いものなのかもしれない[6]。それでもまだ「かたち」とは何なのか掴めない。具体例が欲しくなる。続きを見てみよう。

 昨年四月、石川県七尾で火力発電所建設に反対する漁師たちは一向一心なむあみだ仏ののぼりをかかげた小舟をこぎだした。このことばは数百年の歴史のなかで風化し、いまは一向一心(ひたすらに心をあわせ)ということをなむあみだ仏とたたえているにすぎないかもしれない。だがもともとは、なむあみだ仏の方がことばの本体だった。

 ことばの「かたち」としての「一向一心なむあみだ仏」。たしかに、念仏はひとつの「かた」を持った言葉の連なりであり、それを唱えるためには、少なくとも「一向一心なむあみだ仏」ということばを身につけなくてはならない。念仏のような習得されるべきことばの組み合わせがここでは「かたち」の一例として提示されているわけである。

 無視できないのは、そのような「ことば」が要求されている文脈、すなわち民衆運動という文脈である。現在の七尾太田火力発電所は住民運動を経て、建設地が一転二転した挙句に現在の場所に建設されたものだった。闘争の経緯については、ある短い回想録をインターネット上で読むことができる[7]。また、当時の新聞を参照すると、「昨年四月」にあたる1978年4月について、読売新聞は、4月3日の朝刊で、「反対漁民が“海戦”」としてこう報じている。「北陸電力が石川県七尾市に建設する七尾火力発電所の海面埋め立て工事が、2日早朝、地元の反対派住民約800人が激しく抵抗する中で強行着工された。漁民たちは30隻の漁船に乗り込んで海上ピケを張り、ナタやトビロを振るって作業船上の作業員に襲いかかるという“海戦”を展開」[8]。また、4月ではないが、この頃の七尾市の住民が置かれていた状況について、朝日新聞は1978年6月19日に「燃え上がる『海の成田』」として報道しており、前回の金武湾闘争の報告でも述べられていたように、地域住民が賛成・反対両派に分かれて分断されている様子が見て取れる[9]。また興味深いのは、ここで七尾火力発電建設結果が成田空港建設問題との類似として報じられていることである。住民への説明が不十分なまま、強制的に力づくで発電所や空港がつくられるという事態が類似しているのもあるが、何よりも問題なのは、生活の糧、生命のよりどころが無理やり汚され、はぎとられるという、住民にとって圧倒的に不条理な状況が共通しているのである。

 ただし、上の引用で「一向一心なむあみだ仏」という「ことば」の使用に、ある留保を加えていることは無視できない。それは、「このことばは数百年の歴史のなかで風化し、いまは一向一心(ひたすらに心をあわせ)ということをなむあみだ仏とたたえているにすぎないかもしれない」という箇所である。たしかに「一向一心なむあみだ仏」という「ことば」によって一つになることができる。だが、それだけでよいのか。それではこのことばは結局スローガンのようなもの、標語のようなものなのか。こういった疑問、そして別の可能性が直接的に表されるのは次の箇所である。

現代の民衆のたたかいの場で一向一心なむあみだ仏ののぼりをみかけるとき、百姓の国は民衆の心にまだ息づいていることを知る。と同時に、現代の民衆運動があたらしいことばをつくりえなかったことをおもう。詩人キム・ジハは東学農民戦争のかかげた人乃天を「めしは天」と変え、現代世界のどん底に生きる民衆が天にさかのぼる革命の歌とした。民衆の心に生きている革命の伝統をことばを変えてうけつぎ、あたらしい状況にあったかたちに再生する作業がいま必要だ。

 「一向一心なむあみだ仏」は標語でもスローガンでも、ましてや法でもない。そうではなく、理念でも法でも救えない「民衆の自己解放」の「実践」である。かたちをもったことばが民衆を立ち上げる。『水牛新聞』から離れてしまうが、この民衆を立ち上げる実践としての「なむあみだ仏」の見方は、守中高明が『他力の哲学』という本の中で提示する親鸞の見方をある程度先取りしていると思われる。守中は吉本隆明の『最後の親鸞』(1976年)を批判する形で、親鸞の思想のうちにある「マイノリティ(へ)の生成変化」という新しい回路を開き、そのような生成変化によって創出された「念仏者による階級闘争」を取り出した[10]。守中が(ドゥルーズ&ガタリを引きつつ)提示する「マイノリティ(へ)の生成変化」という視点は、このあと読む「玄関」とも共鳴するところがあるかもしれない。

 とはいえ、実践としての「ことば」はどこにあるのか。そう自問した時に気がつくのは、新たな言葉を作り出してこなかった、という言葉の欠落である。「ことばについて」では、中国労農紅軍の三項規律と六項注意を「対話の規則」としてあげたうえで、「いまの状況から対話をひきだす規則、人間関係をつくりだすことば、そんなことばがどこにあるのか」と述べられている。実践としての「ことば」への切望、それは同時に実践としての「ことば」をめぐる内的貧困への気づきも意味する。「『私』を知らない」文体の探究は、この「私」の内部にある言葉の欠乏を見つめ直すことでもあるのだ。

 次に読む李銀子の「玄関」では、小さく折り畳まれた薄布がゆっくりとほどかれるように、「自己の内的世界」が拡がっていく様子が見て取れる。その時重要となるのは、「出会い」。「ことば」を一人で占有するのではなく、それを人から人へと受け渡し、まさしく対話することが重要となるのである。

 

「玄関」

 「玄関」とは、なんだか不思議なタイトルである。パリに住んでいると、玄関は二重三重が当たり前で、それぞれにセキュリティーコードがある。でも、フランスの田舎に行くと、玄関は木の扉一枚だ。あるいは日本の田舎の家を思い返してみると、薄い乳白色の曇りガラスが嵌っていて、よく見ると何だか頼りなくもある。それでも玄関には、「よそもの」を侵入させない何かがあるのはたしかだ。

 「建築後、30年近くたつわが家の玄関は、『ガラ、ガラッ』と音をたててひらく、昔ながらのガラス戸だ」とあるから、この文章でイメージされている玄関も、あのちょっと頼りないような玄関ではないかと思う。「外から家のなかに入るとき、あたしは、透明のガラス越しに、家のなかの様子をうかがう。そして心をいれかえ、『ただいま!』と一声かけて入る。」自分の家ではあるけれども、外から内へと境界線を跨ぐとき、「心をいれかえ」ねばならないというのは、なぜだろう。「玄関」という文章の書き出しは、玄関のイメージをめぐって、何やらその境界線に纏わりつく微細な心の動きが暗示されている。そのことが明示されるのは、「コールタールのように」という見出しで始まる次の部分だ。

在日する朝鮮民族の二、三世は、はじめて「朝鮮人なんだ」と思わされる瞬間を、それぞれの心に刻んでいるのではないだろうか。/例えば、16歳になって、はじめて「外国人登録証明書」のきりかえに自分で行かされた時のことはどうだろうか。/(…)「さあ、中に入ってきてください。指紋をとりますから」と言われて、指示されたところからカウンターのなかに入ると、五本の指には黒インクがべったりと塗られ一本ずつ順に指紋をとられる。その黒インクが、私には道路工事のときにあつい熱気を放つ、あのコールタールのように思えてならない。

 内と外との境界線は、私的な世界と外的な世界との境界線だけでなく、「朝鮮人」というアイデンティティをめぐる境界線でもある。内にいるのに、「他者」であると意識させられるのは、たとえば指紋をとられる瞬間、「朝鮮人」であることを知られ習い事の先生がなんとなく素っ気なくなる瞬間、「くにはどこ?」ときかれ、「日本です」と答えてしまった瞬間——。

 そして玄関の前に立ち、明るい声で「ただいま!」と声をかけるが、心は、机の抽き出しにしまわれてある日記帳へとむかう。そんな経験を、二世の誰れもが持っているのではないだろうか。/「朝鮮人なんだ」と思う瞬間というのは、つねに〈他者〉から与えられるものだった。〈他者〉からの「朝鮮人像」に「私」ははめられ、与えられる「朝鮮人像」に私もしがみつこうとする。そうでもしなければ、わたしは「私」の身の置きどころ見失いそうになる。ここで言う「他者」とは、日本人のことであり、朝鮮人のことでもある。

 今回、「玄関」を最後に読むことにしたのは、この文章が『水牛新聞』から『水牛通信』へとうつろっていく文体の変化の最初のきっかけがこの文章にあるのではないか、と感じたからだった。ここまで読んでもわかるように、この文章は、報告ではない。そうではなく、より内密なものの記録である。ただし、その内密なものとは、自己の内側に閉じこもることではない。次の箇所を読むと、「わたし」と誰かを繋ぐ媒体として水牛の存在があったことがわかる。

二月に二日間、私は「水牛」新聞を持って大阪と京都へ行った。その二日間は、私に多くのものを感じさせた。/大阪の猪飼野(いかいの)を一歩一歩歩くごとに、わたしは子供の頃のあたしに戻っていくような気がした。街が、とても若く見えるのだ。

 「私」「わたし」「あたし」というふうに、一人称がずらされていく。「『私』からながれだして、また『私』にもどってくるのではない——そのような『ことば』」というときの「私」それ自体が、実は「私」や「わたし」や「あたし」といった微細なズレを内包し、そのズレのあわいをこの書き手は行き来していることがわかる。「『私』にもどってくるのではない」というのは、単に記述主体としての「私」を「言葉」の占有者の座から引き下ろすことではなく、「私」そのものが変わること、「マイノリティ(へ)の生成変化」をすることではないだろうか。そのような「生成変化」は、「私」という一人称の自明性を問い直してみることでもある。先に挙げた「服」の例を持ち出すならば、他者から着せられた服もあれば、自らが着なければと思って着る服もあり、あるいは家の中だけの普段着もある。「ことば」を「かたち」として捉えるとき、その「かたち」をひとに与えるのは誰なのか、何によってその「かたち」を選びとっているのか(選びとらされているのか)もまた考えるべきものの射程に入ってくるだろう。「玄関」が教えてくれることの一つは、この「ことば」の暴力性と複雑さである。その複雑さを感受するための媒体として『水牛新聞』はあった。でもどうにやって? 水牛を通して人と出会うこと、それがここで示されている方法である。

 私の「大阪」行きは、「水牛」を媒介に、各現場で生きる人々と出会い、また「水牛」の紙面をよりひらかれた〈場〉にしていく、ということが、主要な目的であった。/(…)/これまでは、自分の見聞きしてきたものを、それなりに書くことはできたが、「水牛」に報告されるアジアの活動に触発され、なおかつ自己の立場から「水牛」への参画を試みようとするとき、「私」一人では担いきれないものがある。/「私」をひろげていくには、多くの「わたし」と出会わなくてはならない。

 多くの「わたし」に出会う、とは、他者としての誰かと物理的に出会うことに限定されるのではなく、誰かと生と時間を共有することではないだろうか。いや、共有するとまでいってしまうのは、言い過ぎかもしれない。ただ、ここにあるのは取材とは全く違う誰かとの付き合い方である。それは、「聞く」、だけではなく、「語る」ということとも関係するのかもしれない。

 私は、まず在日する朝鮮民族の二、三世に語りたい。このようにして考え、生きている「私」を、あきらかにしたい。自己の生きているこの「日本」を照らしながら。/この文章を書くとき、大阪で会い、語りあった人々のことが、私から離れなかった。あの体験をどう認識したのか、彼らとの緊張関係を通して、あきらかにしたあい。その出発点として、私は文章に「私」を通過させた。

 このような「語る」文体が、『水牛新聞』から『水牛通信』へとうつろう過程で醸成されていくのではないだろうか。現時点で、私はこのような仮説を立てている。報告するのでもなく、呼びかけるのでもなく、語るような文体が醸成されていくのである。「この文体は『私』をしらない。すべてを『私』にひきうけるのではなく、一人のものもみんなにわかちあうことが、文体の上でも必要だ」という時、分有されているのはそのような語りの時間と空間ではないだろうか。

***

 今回はここまで。毎回『水牛新聞』を読んでいて思うことは、その内容の密度の高さである。次回は第5号を読む。

 

[1] 湊川高校については、2019年の終わりに、かつて教師をしていた登尾明彦による『原初の、学校』という本が書かれている。登尾は1969年から2004年まで湊川高校で教師をしていたようで、『原初の、学校』第三章では「竹内スタジオ」を扱った節もある。登尾明彦『原初の、学校——夜間定時制、湊川高校の九十年』みずのわ出版、2019年。

[2] 次のURLを参照のこと。http://www.suigyu.com/hondana/jit02.html

[3] 細かい話ではあるが、「祭り」の表記には揺れがある。『水牛新聞』第3号では「誇りと笑いの祭り」という表記がなされているが、第4号では「誇りと笑いの祭」、あるいは「誇りと笑いのまつり」という表記がなされている。

[4] 志間耕治「信州より編集部へ」『水牛通信』第2巻第3号、1980年3月10日、17頁。

[5] 佐々木健一監修『レトリック事典』大修館書店、2006年、541頁。

[6] ここで述べられている「かたち」の捉え方は、高橋の音楽と不可分のはずであり、実際、水牛楽団の活動と高橋の音楽については、青柳いずみこが深い考察を行なっている。本稿は『水牛新聞』を読むことを目的としているので、この点についてはこれ以上踏み込まない。青柳いずみこ『高橋悠治という怪物』河出書房新社、2018年。第7章、とくに163-166頁を参照のこと。

[7] 北原久禅「小さな町の小さなたたかい——火力発電所建設反対住民運動」『〈子どもと法21〉通信』173号、2015年11月。次のURLを参照のこと(2021年1月3日最終閲覧)。http://www.kodomo-hou21.net/relay_talk/kenpo18.pdf

[8] 「七尾火電 埋め立て作業船に殺到 反対漁民が“海戦”」『読売新聞』1978年4月3日、朝刊、23頁(ヨミダス歴史館)。

[9] 「月曜ルポ 燃え上がる『海の成田』」朝日新聞、1978年6月19日、東京朝刊、4頁(朝日新聞社聞蔵ビジュアルII)。

[10] 守中高明『他力の哲学——赦し・ほどこし・往生』河出書房新社、2019年、第二章、特に65-67頁。

 

「水牛」を読む(3):『水牛新聞』第3号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 「潜勢力」と前回書いた。この潜勢力に様々な方向からアプローチする手がかりをこれから読む『水牛新聞』第3号は教えてくれる。しかもそのアプローチとは、歴史上に点在する出来事を別個に知るためのものではなく、出来事と出来事とを線で結ぶアプローチ、つまり歴史の海原に点在する島々を結ぶ潮の巡りや珊瑚礁の連なりを想像させてくれるアプローチである。少し飛躍するが、水牛の活動とはこのような想像の地図、海流や風向きや地下水脈が幾重にも書きこまれた地図を作ることなのだと思う。おそらくこの想像上の地図について、私はずっと後の方で(『水牛通信』1981年10月号を扱う時に)より具体的に述べることになるだろう。私の目的は、その想像の地図を見渡し、「いまの地図にむかしの地図を重ねてみる」ことである[1]。

 今回読む『水牛新聞』第3号が刊行された1979年2月1日という日付はどのような歴史的文脈をもっているのか。ひとことでいうならば、それはグローバリゼーションの前段階といえる歴史的文脈である。まず政治経済についていえば、前回述べたように、日本経済が安定成長期に安住する一方で、1月に起こったイラン革命によって第二次オイルショックが起こる。1973年の第一次オイルショックに引き続き、世界情勢を睨みつつエネルギー政策を展開することが日本の課題となる。それと並行するような形で、国際的な文脈に目を向けると、この時期は、サッチャー・レーガン体制が登場する前夜にあたる時期でもある。新自由主義的な経済・国家のあり方へと欧米の先進国が舵をきる直前、といえようか。また、別の文脈に目を向けると、2月にはジュネーヴで世界気候会議(WCC)が開催され(12日-23日)、気候変動が論じられ、人間の資本主義的活動が惑星レベルで持続可能かどうか議論され始めている。惑星に対する人間の暴力的な活動の帰結は、この世界気候会議のひと月後、スリーマイル島原発事故という形で具体化する(3月28日)。直接的なつながりを持たない一連の出来事を羅列したのは、『水牛新聞』第3号が刊行された文脈を知るためでもあるが、同時に、現在の問題との連続性を際立たせたかったからでもある。ちなみに、スリーマイル島原発事故にかんしていえば、後に水牛楽団は土本典昭監督の『原発切抜帖』(1982年)の音楽を担当することになるだろう。何はともあれ、『水牛新聞』第3号の周囲で「グローバルな問題」の布置を構成する出来事が立て続けに起こっていた、ということが確認できれば十分である。

 以下、まず「水牛は何をめざすか——1979年運動方針」と題された短い文章を読む。「運動方針」という硬質な言葉遣いがしなやかな身ぶりへとほどかれていく様子を確認することで、血や肉や皮膚をもつやわらかな「運動」の姿形がみえてくるだろう。次いで、「反CTS闘争の村で50年前の祭がよみがえる」と題された第一面の記事をやや詳しく検討し、「運動」の身ぶりの今日的な潜勢力を探る。そして最後に、少し変わった選択だとは思うが、「喜納昌吉と白龍」と題された非常に短い文章に目を向けてみたい。

 

「水牛は何をめざすか——1979年度運動方針」

 「『水牛』は文化を民衆の運動のなかにひきもどすことを目指す。日本でのさまざまな運動は分断されている。大衆の自己解放のたたかいと解放文化運動が直接むすびつく条件はととのっていない。」——これが「1979年度運動方針」の書き出しである。黒々とした漢字が並ぶ、いささか肩に力の入った書き出しではある。それはこう続く。

 大衆は管理され、消費文化にとりつかれ、自分で自分の生きかたをきめることには関心をもたないようにさせられる。このことに気づく少数の人たちは、いらだちと無力を感じている。(…)

 外側の世界の労働と苦行が島の安楽をささえている。世界の根に根ざせば、そこから養分をすくいあげてさきほこる花も理解できる。分断された状況、無関心と無力感も、根とかよいあう道をたたれ、実をむすぶこともなく、むなしくくされおちる花のくるしみをあらわしている。

 硬質な言葉の向こうにほのかに詩が透けて見える。「世界の根」を幻視するこのような言葉こそ、新たに温めなおすべき言葉ではないか。もっとも、あくまで「運動方針」としてこの文章を読むならば、遅れてやってきた左派的宣言文として読むことのほうが自然な読み方ではあるだろう。なぜ1979年にもなって、「運動」などというすでに事後のものとなった言葉を用いているのか、といった批判的な距離感を保ちつつこの「活動方針」を読もうとする、冷笑的な読み方がそれである。だが私としては、そのような読みは採用したくない。というのも、冷笑的な読みは、「大衆の自己解放のたたかいと解放文化運動が直接むすびつく条件」が、大きな困難を抱えつつも、日本の周縁で、あるいは市場経済の埒外で息づいていた、という事実を見逃しているからである。この点については反CTS闘争について述べる際に触れる。

 「活動方針」の中でとりわけ興味深いのは、このような「大衆運動と文化運動を結ぶ」ことへの希望が、水牛においては「文体」の発見として言語化されている点である。そして、この「文体」への言及を境に、それまで「運動組織の自己変革」などを語っていたテクストがほどけていく点が興味深い。どういうことか。「活動方針」の続きを読んでみよう。

 これまでの反体制運動には、支配文化のうごきを一歩あとからおいかけ、分析・批判するだけのものが多かった。「水牛」は実践のためのモデルを提案する。「水牛」がとりあげる詩は活字で読みとるためではなく、大衆集会で大声で読みあげるため。歌の楽譜は集会で歌うため、劇の台本は活動家たちが上演するため。論文や報告は批判的学習の素材として。

 「水牛」新聞をつくる作業は学習の場でもある。「水牛」はあたらしい文体をもとめる。(…)アジア民衆のわかちあうことばにより、アジア民衆のあたまでかんがえ、かれらの皮膚で呼吸する文体を発見することだ。

 「観念や理論」ではなく、文化そのものがもつ「かたち」を実践すること。実際に運動の場に行き、言葉を口にし、歌い、演じ、学びとる、そういった身体の次元で文化の「かたち」を感受すること。この二つの要請が「水牛は何をめざすか」においては「文体の発見」と結びついているのである。二つの要請については、具体的には、創刊号における服部良次のインド演劇体験、あるいは第2号で扱われていたタイやフィリピンにおける演劇の報告からもその具体的な内容をイメージすることはできる。だが「文体」とは何か。もう少し先も読んでみよう。

この文体は「私」をしらない。すべてを「私」にひきうけるのではなく、ひとりのものもみんなにわかちあうことが、文体の上でも必要だ。内面の表出ではなく、りんかくのはっきりした身ぶりをつくりだすことば、白紙の上にかきおろされた新鮮さがそのまま引用のもつむだのなさであるようなリズムを発見することだ。

 民衆や運動といった黒々とした漢字は息を潜め、代わりに余白のあるひらかなで書かれた「ひとり」や「りんかく」という文字のやわらかさが印象的である。しかしそのやわらかさをいざ言い換えようとすると途端に言葉は手からすり抜けてしまう。説明しよう、言い換えようとするたびに、それをする人は「すべてを『私』にひきうけ」てしまい、「みんな」から言葉を奪ってしまうことになる。逆にいえば、説明や解説ではなく、身ぶりそのものをごろりと提示すること、引用が織りなすモンタージュこそが水牛の文体ではないか。このような「文体」の発見についてより深く看取するために、『水牛新聞』創刊号の巻頭言「水牛、でてこい!」を引用しておこう。

洗練された身ぶりは、ひとつひとつのかたちから「かた」にちかづく。なぞられたかたちは、りんかくがしだいに影をこくし、単純な線の運動に収斂する。(…)目標にねらいをつけ、現実のなかでよけいなものをけずりおとしながら、具体性をうしなわないままの「かたちの原理」とでもいうべきものがあらわれる。そのとき、身ぶりは身体や声にきざみつけられ、しかも別な身体、別な声の上にのりうつる感染力をもつにいたる。(…)身ぶりのモンタージュのなかで、心づかいのつくりだすリズム、人々がいっしょにやってゆくための行動のスタイルが生まれるだろう。

 「身ぶり」と「リズム」の分有に重点を置く水牛の文体論。それにあえて別のイメージを重ねてみるならば、水牛の文体とは、どこか祝祭的な文体ではないか。ここで少し飛躍するなら、この「『水牛』を読む」の最終回は、「可不可」という「オペラ」を扱うつもりなのだが、モンタージュが織りなすリズムをもった文体を発見しようとする「活動方針」には、何年か後にやってくるこの「可不可」が息を潜めていたのかもしれない。今の時点でそこまでいってしまうのは勇み足である。さて、祝祭、といったが、実は『水牛新聞』第3号の一面は、とある村で起こった祭の復興について報告していた。これから読むのは、その祭の記録である。

 

「反CTS闘争の村で50年前の祭がよみがえる」

 その村は屋慶名(やけな)という。うるま市から勝連半島(与勝半島)に入り、その先端、金武湾にのぞむ地区が屋慶名である。これから読む報告は、この金武湾の地理を正確に描写することから始まる。

那覇市をでたバスは、まっすぐ北上、嘉手納基地、沖縄市をとおりすぎ、具志川で右折して、与勝半島にはいる。この間、ほぼ二時間。半島の突端部にちかく、金武湾にのぞんで、屋慶名(やけな)の村がある。正確にいえば、与那城村屋慶名区。70年代をつうじてたたかわれてきた反CTS(原油備蓄基地)闘争の拠点である。

 『水牛新聞』第3号掲載時、この文章には執筆者名が書かれていなかった。だが、後に同じ文章が「よみがえる祭」と題されて津野海太郎の『小さなメディアの必要』に収録されることになる(晶文社、1981年3月25日発行)。したがって、おそらくこの報告は津野の筆によるものなのだろう。津野の本の刊行から数ヶ月後、同じく晶文社から安里清信(1913-1982年)の『海はひとの母である』が刊行されているが、著者である安里清信こそが金武湾反CTS闘争の世話人である。

 報告はこの安里清信の母である安里ウサの97歳のお祝い、「カジマヤーの祝い」について語る。「白寿をむかえる老人が、風車を手に、ふたたび子どもの気持ちになって、二度目の人生のスタートをきる」このお祝いは、チクラマチという棒術によって開始するのだが、このチクラマチこそが50年を経て復活された祭なのである。「チクラ」とはボラの幼魚のこと。川面に満ち満ちるチクラを村人たちは捕まえ、それを干して食糧にするのだが、このチクラ漁の際の魚の動きを模倣したものが棒術チクラマチである。報告には次のようにある。「村人たちにとりかこまれたチクラは、はげしく渦をまいて、はねまわる。このチクラの渦巻をまねた集団棒術がチクラマチである。そこには、チクラの豊漁をねがう村人たちの気持ちがこめられていた。」

 チクラマチは1928年以降、不況や戦争を理由に途絶えていたという。この途絶えていた祭を復活する契機となったのが反CTS闘争である。実は昨年、この反CTS闘争を論じた学術書が刊行されている。上原こずえ『共同の力——1970~80年代の金武湾闘争とその生存思想』(世織書房、2019年)である。著者は金武湾で起こった闘争について多くの論文を発表してもいる。残念ながら今は上記の書物が手に入る状況にない。そこで、公開されている上原の論文や他の資料に依拠して、どのような歴史的脈絡のもとでこの祭がよみがえったのか確認しておきたい。詳細な文脈については、上記の学術書が参照先となるはずである。

 金武湾を埋め立て、原油基地を建設する計画は1972年の施政権返還前に提起されていたという。金武湾闘争の中心人物のひとりだった崎原盛秀によると、この金武湾開発は1967年頃からはじまり、その背景には「本土との格差是正」を目指した松岡政保琉球政府主席の判断による、外資導入政策があった[2]。金武湾開発はオイルショック後のエネルギー戦略の一端であり、それは石油備蓄基地の計画にとどまらず、原発建設計画まであったという。湾埋め立てがもたらす最も大きな問題をざっくり要約するならば、それはチクラ漁が象徴していた豊かな海産資源の破壊、人々が生きていく場である自然環境の破壊、資源と場を奪われたことによる共同体とその文化の破壊、この三つである。住民たちの生存を脅かすCTS建設問題をめぐって、反対運動が起こるのが1973年からである。運動形成過程について、少し長いが、上原の詳細な論文から引用する。

海の汚染が金武湾周辺市村の住民らに「危機」として感知されるなか、金武湾周辺各地の公民館などでは公害学習会が開催され、自主講座・公害原論から派生した「沖縄CTS問題を考える会」関係者との交流も始まっていた。そして1973年9月22日、与那城村屋慶名で150人の住民が集い、工業化に抵抗してきた既存の組織である「東洋石油基地反対同盟」や「宮城島土地を守る会」、「石川市民協議会」、そして新たな組織としての「宣野座の生活と環境を守る会」や「与勝の自然と生命を守る会」、「具志川市民協議会」を連ねるかたちで、「金武湾を守る会」が結成された[3]。

「金武湾を守る会」が登場したのはこのような文脈においてだった。ここで留意しておきたいのは、「守る会」はそれぞれが代表、というポリシーをもっていたということである。「会」ではあるけれども、その中には多様な人が集まっていたのである。たとえばメンバーの中には、ベラウと金武湾を結ぶ太平洋の島同士の平和運動を組織した者もいた(ベラウについては別の回で触れるつもりである)。「守る会」を中心とする反CTS闘争は決して一枚岩の活動ではなかったのである。

 さて、「反CTS闘争の村で50年前の祭がよみがえる」では安里清信の言葉を紹介することで、この文脈がなぜチクラマチ復興を要請するのか明確にしている。以下は、報告者が引用している安里の言葉である。

「人間の生命には、生物としての生命ばかりではなく、文化的な命がふくまれる。だから、わたしたちの闘争は、国と三菱石油による、屋慶名の文化破壊にたいするたたかいでもあるのです。」

 すでに途絶えて久しい祭の復興のために、「守る会」の人々は1928年の最後のチクラマチを経験した二人の老人を訪ねた。猛特訓の末によみがえった祭は次のような生命力溢れるものである

屋慶名大通りの両端に、120人の若衆が東西両軍にわかれ、白装束にあざやかな色どりのたすきがけ、棒を手にして、待機する。やがて、ホラの音がひびき、「ヒャーイ!」「エイ!」という威勢のよい掛声とともに棒術がくりひろげられ、打ちならされる太鼓の音にあわせて、旗持ちを先頭に、行進がはじまる。通りのまんなかで出会った両軍は、そこで渦をまき、また二手にわかれて、もとの位置にもどり、Uターンして、ふたたび出会い、渦をまき、棒をあわせる。

 この祭の場には、CTS建設賛成派の住民も来ていたという。実はCTS建設は住民を賛成派と反対派に分断し、村に対立をもたらしていたのである。実際、CTS建設は雇用機会創出という形で住民の前に立ち現れていた。海中道路を建設し、海の環境を破壊し、それによって土地に根ざした産業のあり方を浸食しつつ、埋め立てや開発によってもっと豊かな暮らしができるようになる、と札束で頬を叩くような権力の介入が村を引き裂いたのである。だからこそ、チクラマチをよみがえらせる必要があったのだ。そのような札束に対して、金で対抗するのは馬鹿げている。そうではなく、誰にも奪う権利などない文化の力でもって対抗すること、それこそが途絶えていた祭の復興が意味するところなのである。「チクラマチ復興を中心とするカジマヤーの祝いの成功は、反対派と誘致派のどちらが、村の文化をつくりだす力をもっているかということを、はっきりと示した。」こう報告者は述べる。文化、それは私たちの権利なのである。より良く生きること、美しいものを求めること、心を満たすこと、歓喜すること、楽しむこと、誰かとともに満ち足りた時間を過ごすこと、それらはみな、私たちの権利なのである。チクラマチの復興が教えてくれるのはこれである。

 話は飛躍するが、2009年に仏領カリブ海の島々で大規模なゼネストが起こった。燃油賃の引き揚げへの抵抗に起因するこのゼネストが訴えたことは、あらゆるものを旧宗主国から金で買い、消費することを強いられるポスト植民地的経済システムの見直しだった。その際にカリブ海の知識人が連名で「高度必需品宣言」という宣言を発している[4]。高度必需、それは詩的なものへの要求である。人は最低必需品だけで生きていくものではない。詩的なものがもたらす歓び、ユートピアへの希求こそがゼネストの中から立ち上がらなければならない。そうカリブ海で声があがったのである。『水牛新聞』第3号に書かれた次の言葉は、まさしくこの「高度必需品宣言」の精神と共鳴するものではないか。「民衆の生存権とは、ただ生きる権利のみを意味するのではない。それは、わたしたちがなにをたのしみ、なにをよろこびとして生きるか、という問題でもあるのだ。」

 反CTS闘争の参加者は、今でも戦っている。たとえば辺野古。今月14日で土砂投入から丸2年だという。現在進行形で壊されていくものを思い描く時、しかしその残酷な想像を硬直した紋切り型に譲渡してしまうことは避けたい。そこで金武湾の具体的な豊かさ、生きた豊かさをイメージするために、2010年に発表された崎原盛秀へのインタービューから引用しよう。

まだ金武湾が破壊されないときの海は、豊かでしたね。それから20年余り、汚染も進みましたが、最近では海が再生してきて、4月になると人々が浜下りして、海の幸がいっぱいとれます。やんばるでも見られない光景ですね。とくにスヌイ、テングサ(このあたりではそう呼ぶ海藻で、こりこりして酒のつまみにも良いものです)があるところとか、知っている人は知っている。やんばるからもテングサとか、海豆腐といって海藻でところてんのようなとうふをつくるのですが、その材料になる海藻とか取りに来る。どこの海でも取れるというわけではない(…)海中道路の右側は砂地ですが、そこに水の流れができていて、水路みたいになっている。干潟になっても流れが速い。砂をかぶってテングサもあまり見えないけれども、掬ってみると、たくさん出てくるんです。行くたびにかごいっぱいとれますから、自家用で一年分まかなうだけでなく、近所に配ったりもします[5]。

 ここには海中道路建設を経てもういちど再生した海の姿がある。また、味覚や嗅覚は食べる歓びだけでなく、そこからさらに進んで、食べ物を自らの手で採ること、そしてそれを近所の人々とわかち合うこととも結びついている。どれだけ壊されてもゆっくりと再生し豊かさを恵んでくれる海の姿を、そして、味覚や嗅覚を総動員しながら行なわれる計算不可能な、しかし生活にとって不可欠な微弱なエコノミーの姿を、浜下りのイメージは教えてくれるのである。

 ただ、最後に付け加えなければならない。この浜下りの様子を語ってくれた崎原盛秀氏は、先月、11月4日に亡くなられた。それを知ったのは、本稿を用意している時だった。

 

「喜納昌吉と白龍——『誇りと笑いの祭り』」

 本稿を締めくくるにあたって、最後に、すこしだけ変わった記事に目を向けてみたい。「喜納昌吉と白龍」と題された、あるコンサートの「宣伝」である。

 「78年のぼくらにとって、喜納昌吉との強烈な出会い、つづく白龍との交流は、一つの転機をもたらした。口先だけの談笑で触れ合い、『いずれまた』という具合いのつきあいを、ぼくらはしなかった。播かれた種は、確実に育てたかった。」文章はこう始まる。「ぼくら」と書かれているが、この文章を書いたのは誰だろうか。そう思って署名を見ると、そこには「青生舎」とだけ書かれている。この三文字を見ただけで、多くの人には70年代のメルクマールともいえる内申書裁判、そしてその後の反管理教育運動が想起されるはずである。おそらくこの文章を書いたのは、「青生舎」を立ち上げて数年目の保坂展人、現世田谷区長である。「喜納昌吉&チャンプルーズバンド」オフィシャル・ウェブサイトの「喜納昌吉の軌跡」を参照すると、1977年12月の項目には次のように書かれている。

「元気印」という流行語を創った人物・保坂展人(現衆議院議員)との出会いも昌吉の大きな転機である。保坂氏は16年にも渡る「内申書裁判」中、琉球弧の住民運動に連帯しようと沖縄に訪れ「島小」を耳にする。強い衝動に駆られ保坂氏は、昌吉の家を訪ねた。二人は初対面であるにも関わらず、夜を徹して語り合い、その後1週間語り続けたという。互いに影響を与えあい刺激しあう仲となった二人は、新しい時代を築こうと日本全国をまわり、各地で自主コンサートを行った[6]。

 1977年といえば、喜納昌吉29歳、保坂展人22歳、白龍は25歳である。「78年のぼくら」というのは、この年表にある1977年12月以降のことをいっているわけだが、それでも最年長の喜納昌吉が30歳である。では喜納昌吉や白龍の歌に、23歳の青年は何を聴き取ったのか? 文章はこう続く。「かれらの歌は、陽気で明るい。文句なしに楽しめ、踊りが客席からとびだすのもゆかいだ。告発でも糾弾でもない。恨みでもない。そこを経過しながら、ついに吹き出してきた太い誇りの歌であり、笑いのある文化だ。彼らのはなしのなかに、身ぶりに、真剣さが充満している。そこにあたらしさがある。未来への可能性がある。」若さと力が溢れている。だが、何度も繰り返したいのだが、この「誇り」と「笑い」は何かを通過したあとのもの、「告発でも糾弾でもない。恨みでもない」もっと深い何かである。

 話はこれで終わらない。なんと三人は、東京でコンサートを企画する。そのコンサートのタイトルが「誇りと笑いの祭り」なのである。1979年3月8日、豊島公会堂で午後6時からこのコンサートは行わる予定だとこの記事には書かれている。「喜納昌吉の軌跡」にも書かれていたように、コンサートの企画はこの一回だけではなかったようである。2008年にある記事の中で保坂展人は次のように回想している。少し長くなるが中略を挟みつつ引用する。

沖縄を最初に訪れたのは、21歳のときだった。(…)那覇で荷物を置いたあとで、沖縄北部の農場に行って働いたり、中部東海岸の石油備蓄基地(CTS)反対運動の精神的なリーダーだった安里清信さんにもお会いした。宮古島に渡り、また石垣島、西表島と足を伸ばした。最後にたどり着いたのがコザ市(現・沖縄市)の喜納昌吉さん(歌手・現在は参議院議員)の店だった。深夜から明け方に至るまで話し続け、ヒートアップした。私は、東京に帰る船の切符もキャンセルして、約1週間にわたって毎晩、夜を徹して話し続けた。(…)それから私は東京に帰り、全国30カ所ぐらいで喜納さんのコンサートを企画・実行した。フリーライターとしての最初のデビュー作は『魂を起こす旅――喜納昌吉の世界』と題して雑誌『宝島』100ページを一気に書くことだった。沖縄を行き来するのはあたりまえになった[7]。

 もうこれ以上私が何か述べる必要はないだろう。ただどのような熱狂が会場を埋め尽くしたか想像するだけである。文章はこう締め括られる。「千人の会場は、けっして広くはないが、79年春にふさわしい意欲と熱気、さらに根拠ある熱狂で埋めつくしてみたい。3月8日は確実に、根のある動きを糾合し、ゆるやかに出会う一つの水路となるだろう。」

 『水牛新聞』が公開されたことであの時の水路が今でもこうして小さな水脈を保っていることを79年の保坂青年は想像していただろうか。私は、もしかしたら想像していたのではないか、と思ってみることにする。

 

***

 今回は、主に三つの記事を読んだ。これ以外にも、触れたかった記事は多い。例えばホセ・マセダの「音楽における根源的技術と近代技術」は科学技術導入以前の音楽技術を考察している。その際に持ち出されるのは「人間精神」や「人々の文化思考」である。今、環境問題を論じる際に無視できないのは、例えば人類消滅後の世界をめぐる議論であるわけだが、ホセ・マセダの文章の中には、それとは異なる可能性が秘められている。科学技術を批判しつつ、もう一度「人間精神」の再構築を試みようとするホセ・マセダの思想は、現代の思想潮流を批判的に考えるうえで重要ではないかと思う。アンジェル・グレイ・ドミンゴによる「大いなる夢想、あるいは……——PETAの10年」は前回触れたPETAの活動を詳細に報告しており、貴重なドキュメントである。私はこの報告を読んで、これまで述べてきた内的貧困と身体的貧困という二つの「貧困」に対して、それらとは異なる静謐な「お祈」、そして「安らぎ」をもたらすものとしての「貧乏」についても考えねばならないと教えられた。キム・ジハの詩を原文と翻訳を比較しつつ精読する李銀子「『ソウルへの道』再考」も興味深い。時間とスペースの関係で他の記事を扱うことができないことが、毎回悔やまれる。次回は第4号を読む。雪が降るかもしれないので、どうぞお身体にお気をつけて。

[1]津野海太郎「地図をかさねる——地図論への視座」堀淳一他『地図の記号論——方法としての地図論の試み』批評社、1990年、32頁。

[2]「崎原盛秀さんインタビュー——現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」『状況』2010年11月号。引用は、このインタビューが転載された「風遊」のサイトによる。URLは以下の通り(最終閲覧2020年12月16日)。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/kinwantoso.html – sakiharaseishu

[3]上原こずえ「民衆の『生存』思想から『権利』を問う——施政権返還後の金武湾・反CTS裁判をめぐって」法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』39巻、2013年、128頁。

[4]『思想』2010年9月号はこの「高度必需」を特集している。この特集には「高度必需品宣言」が中村隆之の訳で掲載されている。

[5]「崎原盛秀さんインタビュー——現在に引き継がれる『金武湾を守る会』の闘い」前掲インタビュー。

[6]「喜納昌吉の軌跡」喜納昌吉&チャンプルーズ公式サイト掲載情報。URLは以下の通り(最終閲覧2020年12月16日)。

http://www.champloose.co.jp/history-cat/1976-1980

[7]保坂展人「第8回『子どもの現在』」『不登校新聞』2008年9月15日。URLは以下の通り(最終閲覧2020年12月16日)。

http://www.futoko.org/column/column-2/page0915-192.html

「水牛」を読む(2):『水牛新聞』第2号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 前回は、『水牛新聞』創刊号から二つの記事を取り上げて紹介した。選んだのは、久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」と「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」の二つである。前者からは「内的貧困」というテーマが、後者からは「身体的貧困」というテーマが見えてきた。これら二つのテーマに共通する「貧困」という言葉は、今後の記事紹介においても鍵になるだろう。「貧困」状態はネガティヴなものではあるが、一転した瞬間、充足を求めてエネルギーを爆発させる可能性を秘めたものでもあり、こう言ってよければ、「貧困」は潜在的な「革命」可能性なのである。ところで、少し視野を広げてみると、『水牛新聞』創刊の翌年、1979年、ハーバード大学出版から社会学者の手による『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が刊行されている。時は高度経済成長がその黄金期に差し掛かろうとする頃だ。そのような時代の流れの中で提示されたこれら「貧困」の潜勢力を知ること。それが本連載を最初から最後まで貫く一本の糸となるはずである。その糸は途中でほつれ、もつれ、網のようになるだろう。

 今回は、1978年12月1日に刊行された第2号を読んでいく。以下の文章では、まず、『水牛新聞』が刊行された経緯について簡単にまとめる。今回紹介する記事の内容とも密接にかかわるからである。ついで、『水牛新聞』第2号の中からいくつかの記事をピックアップして紹介する。

 

『水牛新聞』創刊まで

  『水牛新聞』創刊号が1978年10月1日に刊行されたことについては、前回述べた。その1週間後、10月7日、東京の社会文化会館で行われた「アジア民衆文化の夕べ」というイベントで、8人のメンバーからなる楽団の演奏が鳴り響く。この楽団は「水牛楽団」と命名され、アジアの民衆ソングを歌い、演奏することを目的としていた。「水牛楽団」について知るための簡便かつ充実した資料は、1984年に本本堂から出されたカセット・ブック『水牛楽団 休業』(浅田彰、坂本龍一編)に付録された年譜であり、この年譜を頼りにすることで、『水牛新聞』刊行の経緯も具体的な日付とともに見えてくる。年譜から抜き出してみよう。すべてが始まったのは『水牛新聞』創刊の2年前、1976年10月6日のタイ、バンコクにおいてである。

1976   10.6 タイ・バンコクで「血の水曜日」と言われたクーデター勃発。それに先立つ4日にタマサート大学構内で学生たちの手で政治的即興劇「ナコンパトゥム県の殺害」を上演。その寸劇で首吊りを演じた役者の顔が、ワチラロンコーン皇太子に似ている、これは皇室侮辱罪であるという理由から、軍と反共政治組織「ナワポン」の策謀で翌日の新聞のトップにこの写真(偽造説が有力)を掲載。翌6日、(…)タマサート大学での連日の集会に集まっていた学生や市民を早朝から、軍、警察、右翼勢力が包囲、5時間にわたる銃撃で200人を越える学生、市民を虐殺。学生指導層は逮捕された。

このクーデターで多くの反政府学生は、森と呼ばれる反政府勢力の支配地域へのがれていった。カラワン楽団もその森へ消えていったひとびとの一員だった。(「年譜」)

 カラワン楽団については、ウィラサク・スントンシー『カラワン楽団の冒険——生きるための歌』(荘司和子訳)が最も重要な証言・回想であり、「水牛の本棚」で全文読むことができる(http://www.suigyu.com/hondana/caravan01.html)。カラワン楽団の代表曲「人と水牛(コン・ガップ・クワーイ)」は一本のカセットテープとして日本に渡り、水牛楽団に歌い継がれることになる。年譜から引用する。

1977    「生きるための歌」と題されたメッセージと、カラワン楽団による一本のカセットテープが発信人不明のまま送られてきた。

1978   10.1 タブロイド判新聞「水牛」発行。その名「水牛」はタイの政治即興劇「醜いジャセアン」の劇中でも歌われた、カラワン楽団によるタイの解放歌「人と水牛」からとった。(「年譜」)

 以上が、『水牛新聞』刊行までの経緯であり、この経緯と密接に関係する事柄が今回読む第2号で扱われている。すなわち、タイの反政府・反皇室運動とそれに対する虐殺事件「血の水曜日」である。ところで、上に引用した年譜に目をやると、この抵抗運動が、演劇という形をとっていることが目を引く。前回は演劇と教育の問題を扱った。第2号へ読み進むと、『水牛新聞』が提示しようとしているアジアの演劇とは、具体的な抵抗運動であり、時に権力者が武力をもってそれを徹底的に弾圧せねばならないほど力を持った運動であることがはっきりとわかる。「血の水曜日にアジア演劇の原型を見ることができる——1976年10月4日のできごと」と題された報告書は、そのことを衝撃とともに教えてくれる。

 

「血の水曜日にアジア演劇の原型を見ることができる——1976年10月4日のできごと」

 「1976年10月4日——この日、バンコックのタマサート大学構内で、学生たちが、ひとつの政治即興劇を上演した。」報告書はこう始まり、そして次のように続く。「私たちはそれを、私たちの演劇や文化の経験のうちに、しっかりくみこんでおく必要があるなどとは、かんがえもしなかった。」

 1976年10月4日のバンコクで学生たちが行った即興劇は、そのわずか二日後に、「血の水曜日」事件としてタイ現代史に名を残すことになる。ただし、この報告書は事件のあらましを伝えるだけではない。それだけではなく、虐殺のうちに「アジア演劇の原型」を読み取ろうとする。そもそも、なぜ10月4日に学生たちが行った即興劇が、虐殺の口実となるほどの力を持っていたのか。そこにはタイにおける演劇の特異な位置づけがある。すなわち、「演劇がタイ社会にふかく根をはり、その重要な一部になっているということ」であり、それから、演劇の担い手が「学生や労働者や農民など、演劇の非専門家たちであるということ」である。興味深いのは、そのようなタイの民衆演劇が、闘争の過程で編み出された即興劇として政治運動の中に方法として備蓄されていることである。つまり、タマサート大学で行われた学生演劇は、その場限りのものではなく、それまでの闘争の過程で紡ぎ出されてきた演劇の知恵を即興的に編み直すことによって可能になったものだった、ということである。この点について報告者は、「それは教条的といったものではなく、高度に演劇的なんです」という津野海太郎の言葉を引いている。「高度に演劇的」というのは、おそらく、運動そのものが持つ力と演劇が相即不離の状態にあり、しかもその際の演劇は状況や空間に応じてその都度その都度ひとびとの手によって再編成されていく、ということだろう。この「高度に演劇的」という点にかんしては、津野海太郎『小さなメディアの必要』(晶文社、1981年)収録の「アジア演劇の練習」という別の文章を読むことで、具体的なイメージが見えてくる。

 私はここで引用された「高度に」という言葉に報告者のメッセージを読み取りたい。というのも、報告者は次のように述べているからである。

「成熟した演劇が現存するのは(アジアでは)日本だけである」と信じこみ、だからこそ、「血の水曜日」の新聞記事にせっしても、そこに、私たち自身の演劇的主題を読み取ることができなかった。しかし、日本をのぞくアジア各地の演劇も、じつは、日本がひたすら演劇西欧化の道をつきすすんできたあいだに、それとはべつのしかたで、べつの成熟をとげていたのだ。

 このタイの民主化運動の記事を読んでいると、どうしても、今まさに同時代的に起こっているタイの反政府・反王室運動を思わずにはいられない。今回読んだ報告書によると、「血の水曜日」事件の際に、現在のタイ国王、当時のワチラロンコーン皇太子が軍事警察の一隊とともに現場にいたという。また、2020年8月10日にタイ学生連盟は王室改革要請の声明「10項目の要求」を読み上げ、強い緊張をもたらしたが、その舞台となったのは、タマサート大学であった。大学が持つ民主主義的機能を考えるとき、タイから日本の大学関係者が学ぶことは多いのではないだろうか。

 (ここでちょっとだけ脱線を許してほしい。「高度に演劇的」という津野の言葉の出典は、富士ゼロックスの伝説的なPR誌『グラフィケーション』の「11月号」と書かれている。残念ながら『グラフィケーション』の実物を今すぐ参照することはできなかった。ただ、『グラフィケーション』の全目次はこの雑誌を編集していた「ル・マルス」のサイトからすぐに確認することができる(https://lemars.co.jp/img/pdf/graphication_contents.pdf)。この全目次を見ると、1978年「10月号」の中で、長谷川四郎と津野海太郎によって「アジア演劇の可能性」という対談が行われている。私の間違った推測だとは思うが、「高度に演劇的」という発言は、この対談の中で出てきたものではないだろうか。この点は追々資料にあたって調べていきたい。なお、「11月号」に掲載されている津野の文章は「百科事典、子どものための?」というもので、こちらは『小さなメディアの必要』に「子ども百科のつくりかた」として収録されている。

 『グラフィケーション』について「伝説的な」と書いたのは残念ながら2018年12月号を持ってこの雑誌が終わってしまったからである。ただそれだけでなく、この雑誌の内容もまた、伝説的というにふさわしい、豊かなものだった。それは全目次を見るだけでも伝わってくる。『グラフィケーション』は1967年に創刊されているのだが、その10年後、すなわち1977年に富士ゼロックスは「小林節太郎記念基金」を設立(2016年に「小林基金」に改称)し、アジアの学生への留学助成や、アジアのことを研究する日本人への研究助成を行っていた。アジアに目を向ける水牛の活動は、『グラフィケーション』や富士ゼロックスの助成活動と同時代的に連動していたのではないか、と私は推測している。残念ながら、この基金も2018年に助成事業終了となってしまった。以上は脱線である。

 ちなみに、次回読む『水牛新聞』第3号には、「ル・マルス」の広告が出ているし、『水牛通信』1986年3月号には「ル・マルス」の田中和男と水牛の対談が載っていて、「ふっふっふ」とか「はっはっは」という、私が聞いてみたいとどんなに思っても、今となってはもう聞くことのできない笑い声が響いている。ついでながら、広告から水牛を読むのもまた楽しい。例えば第2号に掲載されている「庄建設株式会社」の広告や、そのすぐ横に置かれた「未来社」の広告などは、様々なことを考えさせてくれる。広告については、いつか番外編で扱ってみようと思う)

 長い脱線をしてしまったが、話を戻し、演劇とのつながりで、もう一つ別の記事も読んでみよう。堀田正彦「ミンダナオへ——民衆演劇をもとめて」である。

 

堀田正彦「ミンダナオへ——民衆演劇をもとめて」

 前回「アジア民衆演劇会議」が明確にしたことは、「われわれ[日本人参加者]は、『農村』(RURAL)ということばが、アジアにおいて持つ真の意味を理解し共有するには、あまりに『都市』化されすぎた存在だった」ということである。そこで、「農村演劇」についてより深く知るために、堀田たちは1978年2月18日、マニラに赴き、市内にあるPETA(フィリピン教育演劇協会、Philippine Educational Theater Association、1967年設立)の事務所を訪れた。さて、事務所に行ったはいいが、民衆演劇会議で知り合ったドン神父が堀田たちに約束した演劇の上演は、マニラではなく、ミンダナオ島のダパオで行われるという。かくして、18日の午後、一行はダパオへ向かう。

 ダパオで一行を出迎えてくれたのは、神学校で教師をしていたドン神父と17人の学生たちだった。ドン神父が堀田たちに見せようとしてくれた演劇は『わが村』という作品である。舞台はとある漁村。ある日「地主の奥さん」が住民たちに「土地を売った」と宣言する。人々は途方にくれる。そのうち、土地を取り上げるために兵隊がやってきて、検問所が作られる。地主、権力に阿る宗教者、メガネとカメラを身に付けた日本人観光客、アメリカ人などは、自由に検問所を通ることができる。他方で漁村の住民たちは、自分たちが住んでいた土地なのに、それを一方的に取り上げられ、自由にすることができない。そして叛乱がおこる——

ある一瞬、村人は立ち上がる。兵隊の包囲が押し破られる。/と、嵐の海。/必死で波と戦う、漁民たちの小舟。(戦いと反抗の表現は、こうした抽象的な方法に頼らざるを得ないのだ。と、ドン神父はある感情をこめて語っていた)/浜辺では、女たちが男たちの無事を祈っている。/帰らぬ小舟。/ひとり、また、ひとりと、村人たちは立ちあがり、唄い出す。(…)

大海原よ、わが心。

わが生きゆくは、この村。

と一斉に、こぶしが空に突き出された。

 歌声と身振りによって劇化されたこの叛乱のシーンは、多くの人々の情動を突き動かし、共感の嵐を巻き起こしたのか。いや、実は、そうはならなかった。準備の不足などいくつかの理由も考えられようが、特に理由として大きかっただろうと思われるのは、上演がミンダナオ島の、とりわけイスラーム教徒の漁村でなされたことである。堀田は次のようにこの点を強調する。

ドン神父たちは、「わが村」の再演を決定したとき、この劇の内容とまったく同じ状況に追い込まれている、ある回教徒の漁村でやろうと考えた。しかしその村は、かれらキリスト教徒からの何度かの接触に、容易に門戸を開こうとはしなかった。もともと、ミンダナオ島は回教徒の島だったし、現在もモロ民族解放戦線が、ミンダナオ島の独立を求めて政府軍と戦っている。

 もちろん、ドン神父はこのようなイスラームとキリスト教の対立関係を熟知したうえで活動をおこなっている。それはドン神父の言葉がはっきりと示している。「自分たちのコミュニティを守ろうとする、かれらの固い結束は、学ぶべき文化であり、乗り越えるべき障害ではない。かれらを排他的にしたのは、われわれなのだから。だが、かれらとわれわれは、おなじ抑圧と不正の中にいる。そのことさえおたがいに理解しあえれば、いつか共通のコミュニティをつくりだせるだろう。」そして、ドン神父は自分たちの活動について、「拡大しつつある、少数派」と位置付ける。

 私自身、今フランスに住んでいて、イスラームと共和主義、そして国際的なイスラーム組織とフランス国内の政教分離の理念が織りなす複雑な空気を吸って生きている。だからなのか、この堀田の報告を読みながら、どうしても、ここ数年のミンダナオ島での動きを思い出さずにはいられなかった。2017年、ISIL(「イスラム国」)に呼応した活動組織アブ・サヤフとフィリピン軍との間でマラウィの戦いが起こる。アブ・サヤフは先の引用に登場したモロ民族解放戦線から分岐した組織らしいが、いずれにしても、活動の背景にはイスラームとキリスト教の根深い対立関係がある。堀田の報告は、このような現代まで連なる世界情勢の脈絡の中に再分脈化し、読み直す必要があるだろう。そのとき『水牛新聞』は、小さなメディアであると同時に、今を考えるための大きな力となるはずである。

 この連載を開始したとき、私は気になった記事を短く紹介するだけで良いと思っていた。しかしそれは甘かった。水牛を読めば読むほどに、自分のこととして反応したくなる、そんな力が水牛にはあると思うのだ。だが、今の段階であまり長すぎてもいけない。まだあと数年間は読み続けていくのだから。最後に『水牛新聞』第2号の中で、最も短く、そして最も私が心動かされた文章を紹介して、今回はおしまいとしたい。それは、「『水牛』創刊号を読んで」と題されたひとつの手紙である。

 

「『水牛』創刊号を読んで——在日タイ学生からの手紙」

 「私は『水牛』を友人からもらいまして、一気に読み終わりました。」このように始まるわずか二段ばかりの短い手紙の書き主は、「一在日タイ学生」である。記名はなく、どのような書き手なのかも不詳であるが、それはあまり重要ではない。重要なのはその内容であり、そこに書かれている内容は力強く、しかも今後の『水牛新聞』および『水牛通信』の活動を予言するような手紙でもあるのだ。在日タイ学生は言う。

私の目からみた日本社会は、統制された、あるいは管理化された社会になりつつあるようです。(…)文化は今では一つの商品としてとりあつかわれていて、現に氾濫している品のない週刊誌、テレビ番組等をみれば、そう感じとってもしかたがないのではないかと思います。

 この手紙が1978年に書かれているという事実を再度強調しておきたい。この手紙から40年以上たった今、日本の状況はどうか。そう考え急ぐ前に、もう少しだけ手紙を読もう。このタイの学生は『水牛新聞』創刊号にも若干の不満を持っている。そして、二つの提言をおこなっているのだが、この提言がまた考えさせられるものなのである。

(1)(…)アジア諸国の文化運動を学ぶ際に、ただ現在のアジア諸国の文化運動の動きを報告することにとどまらず、もっともっと深くまで、歴史的に研究することが必要ではないかと思います。(…)

(2)アジア諸国の文化運動から学ぶ過程のなかで、日本の新しい真の民衆文化を同時に創造しなければならない。

 これから『水牛新聞』と『水牛通信』を読み進めていくなかで、この在日タイ学生の二つの提言がしっかりと息づいていることが明らかになるだろう。それに加えて、「文化は今では一つの商品としてとりあつかわれていて」というタイ学生の言葉は、今ではより深刻なものとして受け止めねばならないようにも思う。例えば、今の日本では、人間の命までが「一つの商品としてとりあつかわれて」いるのではないか。コロナ禍以降、外国人技能実習生に対するあまりに非人道的な扱いが明らかになっている。そのような文脈から、私は『水牛新聞』をどうしても読み返してしまうのである。

 

***

 さて、もうさすがに一回の投稿としては長すぎる。今回はここまで。

 ちなみに、今月末(2020年11月30日)までYouTubeで野田秀樹(作・演出)の『赤鬼』が公開されている(https://www.geigeki.jp/ch/ch1/akaoni_streaming.html)。この作品について、野田のロング・インタビューも同じくYouTubeで公開されているのだが、そこで野田は、この『赤鬼』上演史の重要なポイントとして、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督・佐藤信の依頼によるタイでのワークショップがあったと証言している。このタイでの『赤鬼』上演は、1997年に行われたそうだ。『水牛新聞』第2号の中で、佐藤は「アジアはわれわれを見返す。その視線の中にわれわれの演劇を位置付ける」と述べているが、ちょうど今配信されている『赤鬼』という作品もまた、アジアをめぐる視線の往還と交錯の中にあることに、私は胸がジンとなるのである。

 次回は、『水牛新聞』第3号を読んでいく。

(2020年11月24日 福島 亮)

「水牛」を読む(1):『水牛新聞』創刊号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 デジタル化した『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』について紹介をしていく、と述べてから、随分と時間がたってしまった(「強度を持ったことばを——『水牛』を読む」を投稿したのは2019年11月末日なので、なんと一年も経ってしまったことになる)。どんなふうに紹介していこうかな、と思っていたが、どうやらぼんやりしすぎてしまったようだ。デジタル化した「新聞」や「通信」を読んでいくと、そもそも「紹介」などできるのか、という思いも強くなってくる。知らない人名や、想像できない文脈が多いし、率直にいって、初めて知ることが多く、読むことの方に溺れてしまうのだ。そこで、方針を以下のように定めた。とにかく毎回一号ずつ、資料全体を読み、ギャップを感じたこと、わからなかったこと、気になったことを書く。時間はかかってしまうけれども、これが一番確実だし、何よりもギャップやわからないことは(単なる無知の場合が多いと思うけれども)時間の経過をはかる目印になってくれるはずである。それから、今、2020年に読んでいるということも大切にしたい。

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 今回は『水牛 アジア文化隔月報』創刊号(1978年10月1日発行)のうち、久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」と「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」を取り上げる。他にも取り上げてみたい文章は多くあった。巻頭に置かれた「水牛、でてこい!」は何度も読み返したし、タイの学生たちによる「反米ポスター」を報告した不破真理「革命のなかでポスターのもつ力を発見した——タイ芸術家戦線の学生たちは語る」は、まさに今、タイで反政府デモが起こっているだけに重要な報告である。タイについては今後取り上げることになるだろう。それに関連して、タイの記録映画「かれらはけっして忘れない」も気になる(今でも観ることが可能ならばぜひ観てみたい)。それでも先に述べた二つの文章に注目した理由は、この二つの文章には特に、歴史の経過を感じるからである。でも同時に、今自分が考えている問題を考える上で、無視できない気もする。そういうどっちつかずの読後感があったので、今回取り上げることにした。

 なお、『水牛 アジア文化隔月報』という表記は長いので、以降、『水牛新聞』と表記する。『水牛新聞』と書かれていたら、197810月から19798月までふた月に1回、合計6回刊行されたタブロイド判新聞『水牛 アジア文化隔月報』(http://suigyu.com/suigyu-tsushin/newspaper.html)のことだと思ってほしい。

 

久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」

 まず久保覚(1937-1998)の「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」を読んでみよう。この文章では、平岡正明(1941-2009)による日韓歌謡曲論(『ニュー・ミュージック・マガジン』1978年3月掲載)が徹底的に批判されている。平岡正明といえば、私のまわりにも『山口百恵は菩薩である』(2015年に完全版が刊行された)や彼のジャズ論(今年、平岡の評論を含む『昭和ジャズ論集成』が刊行された)を愛読している人がいる。その平岡は、歌手、李成愛(イ・ソンエ)の「艶歌」を絶賛し、「東洋の歌心の集約ということのためには、日本をステップにする必要があり、日韓二都物語の上に世界音楽の準決勝戦にたえる普遍性が獲得されるはずだ」と称賛の言を惜しまない。そして、李成愛の歌は「韓国メロディーのリーダーシップにおいて東洋のメロディーが集約される方向」に向かう、「艶歌の革命」だというのである。

 この平岡の李成愛礼讃に対し、久保は、まず、そもそも李成愛はそんな絶賛に値する歌手だろうか、と切り込む。その仰々しい絶賛は、ベンヤミンがいうように「貧しさをまるで富でもあるかのように濫費し、あくびのでるようなお祭りさわぎをデッチあげる」ことではないか、と。

 以下に展開される久保の平岡批判は大きく分けて二つである。まず、第一の批判はこうだ。「李成愛の登場とその人気は(…)日本のレコード資本が、目新しい商品として李成愛と韓国の歌謡曲をとりこんだからこそ可能だった」。なるほど、と思うと同時に、少しほっとした。というのも、久保の文章を読みながら、Youtubeで李成愛の曲をいくつか聴いてみたのだが、どの曲もこれまで一度も耳にしたことがなかったし、彼女の歌が「艶歌の革命」であり、「普遍性」をいずれ獲得する歌であるとは(ファンには本当に申し訳ないけれども)個人的には思えなかったのだ。

 少しだけ平岡を弁護しておきたい。韓国人アーティストたちは今、世界の音楽マーケットを席巻している。フランスでもK-popは大人気である。日本にも多くのK-popファンがいる。そう考えると、李成愛は、韓国の文化輸出の草分け的存在だったといえるはずだ。そして、この文化輸出が今や韓国の一大産業になっていることは疑いえない。この点において、平岡の議論には一定の予見性があったと思う。とはいえ、逆説的ではあるけれども、「世界音楽」になったK-popにとって、「日韓二都物語」よりも重要なのは、より広いアジアを包含したグローバル・マーケットの存在ではなかろうか。もっとも、1978年の平岡の議論にそんなことをいってもあまり意味はない。むしろ目を向けるべきは、久保による平岡批判の二点目である。

 平岡が自覚できていないものは何か。これが久保の批判の二点目となる。すなわち、「朝鮮の音楽的伝統」は日本の植民地政策によって「切られた」ものであり、平岡はこのことを自覚せずに「日韓二都物語」だの「東洋のメロディーが集約される」などと騒いでいる、と久保は批判するのである。それは他人事ではない。久保はいう、「日帝の朝鮮文化抹殺の政策は、同時に、日本の民衆から朝鮮文化の固有性を視えないものとする政策でもあったのである」と。そして、「無知を無知として自覚できないほどの内的貧困へと日本人」は導かれたのだ、と。この指摘は読んでいて耳が痛かった。平岡への批判が、そのまま自分自身の「ハッピー」さへの批判となったからである。ところでこの「内的貧困」とは、たんに知のレベルにとどまるものだろうか。むしろ、「身体的貧困」とでも呼べるものがあるのではないか。

 

「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」

 そんなことを思いながら、次いで取り上げてみたいのは「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」である。インドで行われたアジア民衆演劇会議にかんする三つの報告がなされている。これら三つの報告を読んでいて印象に残ったのは、演劇と教育の関係である。

 演劇と教育の関係の中には、二つの対立する意見が含まれている。まず、演劇を通して「大衆」を教育する際に、場合によっては「劇の形式が内容を裏切って」しまうことがある、というものである。大衆教育というと何やら立派な行いのようにも聞こえるが、ややもすれば「学校教育という、しばしばそれ自体が抑圧的である機構をベース」にした演劇になりかねない。そんな一例として、戯曲『黄金の夜明け』の上演がはらんだ矛盾が指摘されている。この戯曲は、上演のための装置としてマイクやスライドなど様々なテクノロジーを動員するものであった。このような演出上の要求について、PETA(フィリピン教育演劇協会)の事務局長が投げかけたひとことは考えさせられるものである。「あのような大がかりな機械や装置を見せられたら、貧しい農民が自分たちで演劇を作ろうと思った時、あの機械がないから、あんな装置がないからと尻込みしてしまう結果になるのではないか。」この点については後ほど立ち帰りたい。

 さて、演劇と教育には少なくとももう一つの側面があると思う。それは、馴致された身体とその身体のリズムが演劇によって解放される、という側面である。このような演劇の教育的効果がはっきりとわかるのは、ライプールでのワークショップに参加していた俳優、服部良次の報告である。服部はあるエピソードを報告している。彼が死体役として道に寝転がっていると、向こうからもの凄い勢いで牛の群れがやってきて、通り過ぎていった。牛が通過した後にはおびただしい糞が残される。村人はその糞を手際よく片付け、またそこで演劇が始まる。こんなエピソードである。この体験に立ち会った服部は、村人たちの「テムポ」を発見し、感激する。ところで、読みながら思ったのは、そもそも牛が通るような地べたにすわったり、寝転がったりした経験が私にはない、ということである。インドに行って地べたに寝転がってみたい、と思った。外出禁止令下の暮らしなので、そもそも自由に外に出ることもできないのだけれども。そう思ってみて、ふと気がつくのだが、そもそも東京で、あるいはパリで、牛の群れが通過するような場所などあるだろうか。もちろん、そういう状況を意図的に作ることはできる。例えば牛を用意する、という具合に。しかし、それではある種の演出にすぎなくなってしまう。ここで、先のPETAの事務局長の言葉に戻ってみたい。すると、近代的な装置の使用を批判したあの言葉は、反転し、都市社会における私たちの身体の不自由さを指摘する言葉に思えてくる。この点は、ワークショップの報告でも指摘されていた。バルジット・マリクはいう。「黒色テント劇場はトラックとテントによって構成され、日本の各土地を移動する。しかし工業化された日本では、土地そのものが問題なのだ。」

 実は、演劇と教育の関係について耳にしたり、話したりすることが、ここ数ヶ月のうちに複数回あった。カリブ海やアフリカにおける演劇創作、18世紀フランスにおける革命と演劇の関係、そして、中世フランスの典礼における演劇的事象と一般信者の複雑な関係、といった具合である。要するに、1978年にライプールで行われた議論は、インドの農村だけに限定される話などではまったくなく、中世フランスから20世紀のアフリカ・カリブ海まで、幅広い時空間に接続されうる議論だったと思うのである。

***

 今回取り上げられなかったが、創刊号にはレンドラの「スリ、情婦にいれ知恵」という誘惑的な詩が掲載されている。レンドラはインドネシアの詩人である。このレンドラについて、吉岡忍の「獄中のレンドラと『スリの歌』について」という文章も掲載されているが、この文章は、レンドラが逮捕され、刑務所にいるところで終わっている。レンドラはその後どうなったのだろう……。そう思って調べてみると、彼は2009年に亡くなっていることがわかった。でも、娘のナオミ・スリカンディが活躍していることも知った。よかった!

 次回は、『水牛新聞』第2号を読むつもりである。

(2020年11月3日 福島 亮)

強度を持ったことばを——「水牛」を読む (福島 亮)

水牛だより


 2019年12月1日から、水牛のホームページ上で『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』のPDF版が公開される。公開にともない、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』にかんする文章を「水牛だより」のコーナーでこれから書くことになった。それはこの二つの刊行物に掲載された記事を少しずつ読み、紹介する文章となると思う。とはいえ、紹介するのに必要な知識などないのだから、もとより案内役などできるはずもなく、文章を書くにあたって、ここしばらくどうしようかと悩んでいたし、実は、今も悩んでいる。

 悩んだ時は、これまでの経緯を振り返るとヒントが見つかることがある。だから、少しだけこのPDF公開がどのような出会いによって実現したか書いておこうと思う。僕と「水牛」との出会いは2019年11月の「水牛のように」で触れたとおりで、もともとは「水牛楽団」の活動に関心があって、そこから刊行物の方へと目が向いたのである。『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』は1987年にリブロポートから水牛通信編集委員会編『水牛通信:1978-1987』として本の形になっているのだが、これは数多ある記事から抜粋したものを集めた一種のアンソロジーで、これだけでは『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』の全貌を知ることはできない(それでも、少し大きめの厚手の紙に印刷された『水牛通信:1978-1987』は、子どもの頃読んだ古い雑誌や児童書を思い出させてくれる、僕の大好きな本の一つだ。今では古本でしか手に入らないようだから、こちらもいつかホームページ上で公開できたらと思っている)。どうにか「水牛楽団」の刊行物を読むことはできないだろうか、と思った僕は、2018年7月31日に、水牛ホームページに記載されているメールアドレスに次のようなメールを送ったのである。

「水牛」さま
 
初めまして。
突然メールをお送りしてしまい申し訳ございません。
福島亮と申します。
水牛楽団についておうかがいしたく、メールを書くことにいたしました。
(…)
私はリブロポートから出版された『水牛通信:1978-1987』を読みながら、そこに収録されていないものも読みたいと思いました。
(八巻さんのあとがきによれば、本に収められたのは、100号分の一割弱だそうですが、私は残りの九割も読みたいのです。)

(…)

 今読み返せば厚かましい文面で、これでは返事など来ないのでは、と思われるメールである。が、翌日、8月1日になんと八巻さん本人から返事が来たのである。そこにはこう書いてあった。「水牛通信は各一部しかありませんし、いくつか欠号がありますが、すべてお送りしてもいいですよ。薄い冊子100冊分ですから、小さな段ボール箱ひとつにおさまる分量です。」そして、8月17日、その頃住んでいた三鷹台のアパートに小包が届いた。それは小脇に抱えられるくらいの本当に小さな段ボール箱だった。開けると、整理されたタブロイド新聞と冊子が入っていて、おまけに淡いブルーのインクで書かれたメッセージカードと一緒に『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』(サウダージ・ブックス、2012年)が入っていた。僕は9月4日には日本を離れ、パリに留学することになっていたので、それから大急ぎでお礼のメールを書き、お借りした『水牛 アジア文化隔月号』と『水牛通信』をPDFにした。こうしてPDF化したものが、今インターネットを介して、全世界に届けられる資料なのである。資料は公開される。その資料以上に何か付け加えるものなどあるだろうか?

 最初に述べたように、これから何を書いて良いのかものすごく悩んでいる。いまこうして「水牛」のホームページが読まれている以上、「水牛」は過去のものではないから、どういう気持ちで(しかも「水牛」そのもののサイトで)書いて良いのかよく分からない。確かに、「水牛楽団」としての活動は1985年には終わっている(2001年に出たCD「水牛楽団」に三橋圭介氏が寄せられた解説による。実際には、その後も必要な時は少しだけ演奏したこともあったそうである)。そして、『水牛通信』はその2年後、1987年に通算100号で終刊を迎える。でも、「水牛」は活動の舞台をホームページに移して、こうして今でも活動しているのだ(そう考えると、そもそも「水牛」ってなんだろう、という疑問が出てきてしまうのだが、それについては今は考えないことにしよう)。まだ現役で執筆している作家の伝記を書くことが難しいように、「水牛」について何か論じたり、分析したりすることは、僕にはとても難しい。ただ、『水牛 アジア文化隔月報』や『水牛通信』を読んで強く心を動かされたことだけは本当なのだ。もしも僕に何かを書くことができるとしたら、この本当のことに拠って立つしかないのではないか。どうしようもなく主観的なものかもしれないけれども、読んだ時に僕の頭をガツンと殴ってくるような強度を持った文章をどうにかして誰かと分け合うことはできないだろうか。そういう自問からスタートして、これから少しずつ『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』を読んでいこうと思っている。できれば、僕が読んで、心を動かされた文章をここに書き写すことで、読者に僕の心の動きと、その動きのもとになった文章を届けることができたらうれしい。そして、興味を持ってくれた人が、PDFをどんどん読んでくれたらもっとうれしい。

 強度を持ったことばを手渡すこと、それがこのコーナーで僕が自分に与えたテーマだ。このテーマを教えてくれたのも、じつは「水牛」なのである。『水牛 アジア文化隔月報』創刊号には次のようにある。「『水牛』は市販しませんので、ぜひとも予約購読をお願いします。(中略)アジア各国の文化の動きについて、日本で文化市場向けの商品生産とは無縁に、さまざまなしかたでこころみられつつあるある文化の動きについて、原稿を送ってください。」(8頁)僕もこれから、商品生産とは無縁に、「水牛」を読み、読んだものを誰かに手渡ししたい。

 というわけで、これから散歩でもする気持ちで「水牛」を読み、心動かされたものや、面白いと思ったもの、気になったことなどをここで書いていきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。 (福島 亮)