「水牛」を読む(1):『水牛新聞』創刊号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 デジタル化した『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』について紹介をしていく、と述べてから、随分と時間がたってしまった(「強度を持ったことばを——『水牛』を読む」を投稿したのは2019年11月末日なので、なんと一年も経ってしまったことになる)。どんなふうに紹介していこうかな、と思っていたが、どうやらぼんやりしすぎてしまったようだ。デジタル化した「新聞」や「通信」を読んでいくと、そもそも「紹介」などできるのか、という思いも強くなってくる。知らない人名や、想像できない文脈が多いし、率直にいって、初めて知ることが多く、読むことの方に溺れてしまうのだ。そこで、方針を以下のように定めた。とにかく毎回一号ずつ、資料全体を読み、ギャップを感じたこと、わからなかったこと、気になったことを書く。時間はかかってしまうけれども、これが一番確実だし、何よりもギャップやわからないことは(単なる無知の場合が多いと思うけれども)時間の経過をはかる目印になってくれるはずである。それから、今、2020年に読んでいるということも大切にしたい。

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 今回は『水牛 アジア文化隔月報』創刊号(1978年10月1日発行)のうち、久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」と「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」を取り上げる。他にも取り上げてみたい文章は多くあった。巻頭に置かれた「水牛、でてこい!」は何度も読み返したし、タイの学生たちによる「反米ポスター」を報告した不破真理「革命のなかでポスターのもつ力を発見した——タイ芸術家戦線の学生たちは語る」は、まさに今、タイで反政府デモが起こっているだけに重要な報告である。タイについては今後取り上げることになるだろう。それに関連して、タイの記録映画「かれらはけっして忘れない」も気になる(今でも観ることが可能ならばぜひ観てみたい)。それでも先に述べた二つの文章に注目した理由は、この二つの文章には特に、歴史の経過を感じるからである。でも同時に、今自分が考えている問題を考える上で、無視できない気もする。そういうどっちつかずの読後感があったので、今回取り上げることにした。

 なお、『水牛 アジア文化隔月報』という表記は長いので、以降、『水牛新聞』と表記する。『水牛新聞』と書かれていたら、197810月から19798月までふた月に1回、合計6回刊行されたタブロイド判新聞『水牛 アジア文化隔月報』(http://suigyu.com/suigyu-tsushin/newspaper.html)のことだと思ってほしい。

 

久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」

 まず久保覚(1937-1998)の「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」を読んでみよう。この文章では、平岡正明(1941-2009)による日韓歌謡曲論(『ニュー・ミュージック・マガジン』1978年3月掲載)が徹底的に批判されている。平岡正明といえば、私のまわりにも『山口百恵は菩薩である』(2015年に完全版が刊行された)や彼のジャズ論(今年、平岡の評論を含む『昭和ジャズ論集成』が刊行された)を愛読している人がいる。その平岡は、歌手、李成愛(イ・ソンエ)の「艶歌」を絶賛し、「東洋の歌心の集約ということのためには、日本をステップにする必要があり、日韓二都物語の上に世界音楽の準決勝戦にたえる普遍性が獲得されるはずだ」と称賛の言を惜しまない。そして、李成愛の歌は「韓国メロディーのリーダーシップにおいて東洋のメロディーが集約される方向」に向かう、「艶歌の革命」だというのである。

 この平岡の李成愛礼讃に対し、久保は、まず、そもそも李成愛はそんな絶賛に値する歌手だろうか、と切り込む。その仰々しい絶賛は、ベンヤミンがいうように「貧しさをまるで富でもあるかのように濫費し、あくびのでるようなお祭りさわぎをデッチあげる」ことではないか、と。

 以下に展開される久保の平岡批判は大きく分けて二つである。まず、第一の批判はこうだ。「李成愛の登場とその人気は(…)日本のレコード資本が、目新しい商品として李成愛と韓国の歌謡曲をとりこんだからこそ可能だった」。なるほど、と思うと同時に、少しほっとした。というのも、久保の文章を読みながら、Youtubeで李成愛の曲をいくつか聴いてみたのだが、どの曲もこれまで一度も耳にしたことがなかったし、彼女の歌が「艶歌の革命」であり、「普遍性」をいずれ獲得する歌であるとは(ファンには本当に申し訳ないけれども)個人的には思えなかったのだ。

 少しだけ平岡を弁護しておきたい。韓国人アーティストたちは今、世界の音楽マーケットを席巻している。フランスでもK-popは大人気である。日本にも多くのK-popファンがいる。そう考えると、李成愛は、韓国の文化輸出の草分け的存在だったといえるはずだ。そして、この文化輸出が今や韓国の一大産業になっていることは疑いえない。この点において、平岡の議論には一定の予見性があったと思う。とはいえ、逆説的ではあるけれども、「世界音楽」になったK-popにとって、「日韓二都物語」よりも重要なのは、より広いアジアを包含したグローバル・マーケットの存在ではなかろうか。もっとも、1978年の平岡の議論にそんなことをいってもあまり意味はない。むしろ目を向けるべきは、久保による平岡批判の二点目である。

 平岡が自覚できていないものは何か。これが久保の批判の二点目となる。すなわち、「朝鮮の音楽的伝統」は日本の植民地政策によって「切られた」ものであり、平岡はこのことを自覚せずに「日韓二都物語」だの「東洋のメロディーが集約される」などと騒いでいる、と久保は批判するのである。それは他人事ではない。久保はいう、「日帝の朝鮮文化抹殺の政策は、同時に、日本の民衆から朝鮮文化の固有性を視えないものとする政策でもあったのである」と。そして、「無知を無知として自覚できないほどの内的貧困へと日本人」は導かれたのだ、と。この指摘は読んでいて耳が痛かった。平岡への批判が、そのまま自分自身の「ハッピー」さへの批判となったからである。ところでこの「内的貧困」とは、たんに知のレベルにとどまるものだろうか。むしろ、「身体的貧困」とでも呼べるものがあるのではないか。

 

「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」

 そんなことを思いながら、次いで取り上げてみたいのは「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」である。インドで行われたアジア民衆演劇会議にかんする三つの報告がなされている。これら三つの報告を読んでいて印象に残ったのは、演劇と教育の関係である。

 演劇と教育の関係の中には、二つの対立する意見が含まれている。まず、演劇を通して「大衆」を教育する際に、場合によっては「劇の形式が内容を裏切って」しまうことがある、というものである。大衆教育というと何やら立派な行いのようにも聞こえるが、ややもすれば「学校教育という、しばしばそれ自体が抑圧的である機構をベース」にした演劇になりかねない。そんな一例として、戯曲『黄金の夜明け』の上演がはらんだ矛盾が指摘されている。この戯曲は、上演のための装置としてマイクやスライドなど様々なテクノロジーを動員するものであった。このような演出上の要求について、PETA(フィリピン教育演劇協会)の事務局長が投げかけたひとことは考えさせられるものである。「あのような大がかりな機械や装置を見せられたら、貧しい農民が自分たちで演劇を作ろうと思った時、あの機械がないから、あんな装置がないからと尻込みしてしまう結果になるのではないか。」この点については後ほど立ち帰りたい。

 さて、演劇と教育には少なくとももう一つの側面があると思う。それは、馴致された身体とその身体のリズムが演劇によって解放される、という側面である。このような演劇の教育的効果がはっきりとわかるのは、ライプールでのワークショップに参加していた俳優、服部良次の報告である。服部はあるエピソードを報告している。彼が死体役として道に寝転がっていると、向こうからもの凄い勢いで牛の群れがやってきて、通り過ぎていった。牛が通過した後にはおびただしい糞が残される。村人はその糞を手際よく片付け、またそこで演劇が始まる。こんなエピソードである。この体験に立ち会った服部は、村人たちの「テムポ」を発見し、感激する。ところで、読みながら思ったのは、そもそも牛が通るような地べたにすわったり、寝転がったりした経験が私にはない、ということである。インドに行って地べたに寝転がってみたい、と思った。外出禁止令下の暮らしなので、そもそも自由に外に出ることもできないのだけれども。そう思ってみて、ふと気がつくのだが、そもそも東京で、あるいはパリで、牛の群れが通過するような場所などあるだろうか。もちろん、そういう状況を意図的に作ることはできる。例えば牛を用意する、という具合に。しかし、それではある種の演出にすぎなくなってしまう。ここで、先のPETAの事務局長の言葉に戻ってみたい。すると、近代的な装置の使用を批判したあの言葉は、反転し、都市社会における私たちの身体の不自由さを指摘する言葉に思えてくる。この点は、ワークショップの報告でも指摘されていた。バルジット・マリクはいう。「黒色テント劇場はトラックとテントによって構成され、日本の各土地を移動する。しかし工業化された日本では、土地そのものが問題なのだ。」

 実は、演劇と教育の関係について耳にしたり、話したりすることが、ここ数ヶ月のうちに複数回あった。カリブ海やアフリカにおける演劇創作、18世紀フランスにおける革命と演劇の関係、そして、中世フランスの典礼における演劇的事象と一般信者の複雑な関係、といった具合である。要するに、1978年にライプールで行われた議論は、インドの農村だけに限定される話などではまったくなく、中世フランスから20世紀のアフリカ・カリブ海まで、幅広い時空間に接続されうる議論だったと思うのである。

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 今回取り上げられなかったが、創刊号にはレンドラの「スリ、情婦にいれ知恵」という誘惑的な詩が掲載されている。レンドラはインドネシアの詩人である。このレンドラについて、吉岡忍の「獄中のレンドラと『スリの歌』について」という文章も掲載されているが、この文章は、レンドラが逮捕され、刑務所にいるところで終わっている。レンドラはその後どうなったのだろう……。そう思って調べてみると、彼は2009年に亡くなっていることがわかった。でも、娘のナオミ・スリカンディが活躍していることも知った。よかった!

 次回は、『水牛新聞』第2号を読むつもりである。

(2020年11月3日 福島 亮)