「水牛」を読む(2):『水牛新聞』第2号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 前回は、『水牛新聞』創刊号から二つの記事を取り上げて紹介した。選んだのは、久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」と「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」の二つである。前者からは「内的貧困」というテーマが、後者からは「身体的貧困」というテーマが見えてきた。これら二つのテーマに共通する「貧困」という言葉は、今後の記事紹介においても鍵になるだろう。「貧困」状態はネガティヴなものではあるが、一転した瞬間、充足を求めてエネルギーを爆発させる可能性を秘めたものでもあり、こう言ってよければ、「貧困」は潜在的な「革命」可能性なのである。ところで、少し視野を広げてみると、『水牛新聞』創刊の翌年、1979年、ハーバード大学出版から社会学者の手による『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が刊行されている。時は高度経済成長がその黄金期に差し掛かろうとする頃だ。そのような時代の流れの中で提示されたこれら「貧困」の潜勢力を知ること。それが本連載を最初から最後まで貫く一本の糸となるはずである。その糸は途中でほつれ、もつれ、網のようになるだろう。

 今回は、1978年12月1日に刊行された第2号を読んでいく。以下の文章では、まず、『水牛新聞』が刊行された経緯について簡単にまとめる。今回紹介する記事の内容とも密接にかかわるからである。ついで、『水牛新聞』第2号の中からいくつかの記事をピックアップして紹介する。

 

『水牛新聞』創刊まで

  『水牛新聞』創刊号が1978年10月1日に刊行されたことについては、前回述べた。その1週間後、10月7日、東京の社会文化会館で行われた「アジア民衆文化の夕べ」というイベントで、8人のメンバーからなる楽団の演奏が鳴り響く。この楽団は「水牛楽団」と命名され、アジアの民衆ソングを歌い、演奏することを目的としていた。「水牛楽団」について知るための簡便かつ充実した資料は、1984年に本本堂から出されたカセット・ブック『水牛楽団 休業』(浅田彰、坂本龍一編)に付録された年譜であり、この年譜を頼りにすることで、『水牛新聞』刊行の経緯も具体的な日付とともに見えてくる。年譜から抜き出してみよう。すべてが始まったのは『水牛新聞』創刊の2年前、1976年10月6日のタイ、バンコクにおいてである。

1976   10.6 タイ・バンコクで「血の水曜日」と言われたクーデター勃発。それに先立つ4日にタマサート大学構内で学生たちの手で政治的即興劇「ナコンパトゥム県の殺害」を上演。その寸劇で首吊りを演じた役者の顔が、ワチラロンコーン皇太子に似ている、これは皇室侮辱罪であるという理由から、軍と反共政治組織「ナワポン」の策謀で翌日の新聞のトップにこの写真(偽造説が有力)を掲載。翌6日、(…)タマサート大学での連日の集会に集まっていた学生や市民を早朝から、軍、警察、右翼勢力が包囲、5時間にわたる銃撃で200人を越える学生、市民を虐殺。学生指導層は逮捕された。

このクーデターで多くの反政府学生は、森と呼ばれる反政府勢力の支配地域へのがれていった。カラワン楽団もその森へ消えていったひとびとの一員だった。(「年譜」)

 カラワン楽団については、ウィラサク・スントンシー『カラワン楽団の冒険——生きるための歌』(荘司和子訳)が最も重要な証言・回想であり、「水牛の本棚」で全文読むことができる(http://www.suigyu.com/hondana/caravan01.html)。カラワン楽団の代表曲「人と水牛(コン・ガップ・クワーイ)」は一本のカセットテープとして日本に渡り、水牛楽団に歌い継がれることになる。年譜から引用する。

1977    「生きるための歌」と題されたメッセージと、カラワン楽団による一本のカセットテープが発信人不明のまま送られてきた。

1978   10.1 タブロイド判新聞「水牛」発行。その名「水牛」はタイの政治即興劇「醜いジャセアン」の劇中でも歌われた、カラワン楽団によるタイの解放歌「人と水牛」からとった。(「年譜」)

 以上が、『水牛新聞』刊行までの経緯であり、この経緯と密接に関係する事柄が今回読む第2号で扱われている。すなわち、タイの反政府・反皇室運動とそれに対する虐殺事件「血の水曜日」である。ところで、上に引用した年譜に目をやると、この抵抗運動が、演劇という形をとっていることが目を引く。前回は演劇と教育の問題を扱った。第2号へ読み進むと、『水牛新聞』が提示しようとしているアジアの演劇とは、具体的な抵抗運動であり、時に権力者が武力をもってそれを徹底的に弾圧せねばならないほど力を持った運動であることがはっきりとわかる。「血の水曜日にアジア演劇の原型を見ることができる——1976年10月4日のできごと」と題された報告書は、そのことを衝撃とともに教えてくれる。

 

「血の水曜日にアジア演劇の原型を見ることができる——1976年10月4日のできごと」

 「1976年10月4日——この日、バンコックのタマサート大学構内で、学生たちが、ひとつの政治即興劇を上演した。」報告書はこう始まり、そして次のように続く。「私たちはそれを、私たちの演劇や文化の経験のうちに、しっかりくみこんでおく必要があるなどとは、かんがえもしなかった。」

 1976年10月4日のバンコクで学生たちが行った即興劇は、そのわずか二日後に、「血の水曜日」事件としてタイ現代史に名を残すことになる。ただし、この報告書は事件のあらましを伝えるだけではない。それだけではなく、虐殺のうちに「アジア演劇の原型」を読み取ろうとする。そもそも、なぜ10月4日に学生たちが行った即興劇が、虐殺の口実となるほどの力を持っていたのか。そこにはタイにおける演劇の特異な位置づけがある。すなわち、「演劇がタイ社会にふかく根をはり、その重要な一部になっているということ」であり、それから、演劇の担い手が「学生や労働者や農民など、演劇の非専門家たちであるということ」である。興味深いのは、そのようなタイの民衆演劇が、闘争の過程で編み出された即興劇として政治運動の中に方法として備蓄されていることである。つまり、タマサート大学で行われた学生演劇は、その場限りのものではなく、それまでの闘争の過程で紡ぎ出されてきた演劇の知恵を即興的に編み直すことによって可能になったものだった、ということである。この点について報告者は、「それは教条的といったものではなく、高度に演劇的なんです」という津野海太郎の言葉を引いている。「高度に演劇的」というのは、おそらく、運動そのものが持つ力と演劇が相即不離の状態にあり、しかもその際の演劇は状況や空間に応じてその都度その都度ひとびとの手によって再編成されていく、ということだろう。この「高度に演劇的」という点にかんしては、津野海太郎『小さなメディアの必要』(晶文社、1981年)収録の「アジア演劇の練習」という別の文章を読むことで、具体的なイメージが見えてくる。

 私はここで引用された「高度に」という言葉に報告者のメッセージを読み取りたい。というのも、報告者は次のように述べているからである。

「成熟した演劇が現存するのは(アジアでは)日本だけである」と信じこみ、だからこそ、「血の水曜日」の新聞記事にせっしても、そこに、私たち自身の演劇的主題を読み取ることができなかった。しかし、日本をのぞくアジア各地の演劇も、じつは、日本がひたすら演劇西欧化の道をつきすすんできたあいだに、それとはべつのしかたで、べつの成熟をとげていたのだ。

 このタイの民主化運動の記事を読んでいると、どうしても、今まさに同時代的に起こっているタイの反政府・反王室運動を思わずにはいられない。今回読んだ報告書によると、「血の水曜日」事件の際に、現在のタイ国王、当時のワチラロンコーン皇太子が軍事警察の一隊とともに現場にいたという。また、2020年8月10日にタイ学生連盟は王室改革要請の声明「10項目の要求」を読み上げ、強い緊張をもたらしたが、その舞台となったのは、タマサート大学であった。大学が持つ民主主義的機能を考えるとき、タイから日本の大学関係者が学ぶことは多いのではないだろうか。

 (ここでちょっとだけ脱線を許してほしい。「高度に演劇的」という津野の言葉の出典は、富士ゼロックスの伝説的なPR誌『グラフィケーション』の「11月号」と書かれている。残念ながら『グラフィケーション』の実物を今すぐ参照することはできなかった。ただ、『グラフィケーション』の全目次はこの雑誌を編集していた「ル・マルス」のサイトからすぐに確認することができる(https://lemars.co.jp/img/pdf/graphication_contents.pdf)。この全目次を見ると、1978年「10月号」の中で、長谷川四郎と津野海太郎によって「アジア演劇の可能性」という対談が行われている。私の間違った推測だとは思うが、「高度に演劇的」という発言は、この対談の中で出てきたものではないだろうか。この点は追々資料にあたって調べていきたい。なお、「11月号」に掲載されている津野の文章は「百科事典、子どものための?」というもので、こちらは『小さなメディアの必要』に「子ども百科のつくりかた」として収録されている。

 『グラフィケーション』について「伝説的な」と書いたのは残念ながら2018年12月号を持ってこの雑誌が終わってしまったからである。ただそれだけでなく、この雑誌の内容もまた、伝説的というにふさわしい、豊かなものだった。それは全目次を見るだけでも伝わってくる。『グラフィケーション』は1967年に創刊されているのだが、その10年後、すなわち1977年に富士ゼロックスは「小林節太郎記念基金」を設立(2016年に「小林基金」に改称)し、アジアの学生への留学助成や、アジアのことを研究する日本人への研究助成を行っていた。アジアに目を向ける水牛の活動は、『グラフィケーション』や富士ゼロックスの助成活動と同時代的に連動していたのではないか、と私は推測している。残念ながら、この基金も2018年に助成事業終了となってしまった。以上は脱線である。

 ちなみに、次回読む『水牛新聞』第3号には、「ル・マルス」の広告が出ているし、『水牛通信』1986年3月号には「ル・マルス」の田中和男と水牛の対談が載っていて、「ふっふっふ」とか「はっはっは」という、私が聞いてみたいとどんなに思っても、今となってはもう聞くことのできない笑い声が響いている。ついでながら、広告から水牛を読むのもまた楽しい。例えば第2号に掲載されている「庄建設株式会社」の広告や、そのすぐ横に置かれた「未来社」の広告などは、様々なことを考えさせてくれる。広告については、いつか番外編で扱ってみようと思う)

 長い脱線をしてしまったが、話を戻し、演劇とのつながりで、もう一つ別の記事も読んでみよう。堀田正彦「ミンダナオへ——民衆演劇をもとめて」である。

 

堀田正彦「ミンダナオへ——民衆演劇をもとめて」

 前回「アジア民衆演劇会議」が明確にしたことは、「われわれ[日本人参加者]は、『農村』(RURAL)ということばが、アジアにおいて持つ真の意味を理解し共有するには、あまりに『都市』化されすぎた存在だった」ということである。そこで、「農村演劇」についてより深く知るために、堀田たちは1978年2月18日、マニラに赴き、市内にあるPETA(フィリピン教育演劇協会、Philippine Educational Theater Association、1967年設立)の事務所を訪れた。さて、事務所に行ったはいいが、民衆演劇会議で知り合ったドン神父が堀田たちに約束した演劇の上演は、マニラではなく、ミンダナオ島のダパオで行われるという。かくして、18日の午後、一行はダパオへ向かう。

 ダパオで一行を出迎えてくれたのは、神学校で教師をしていたドン神父と17人の学生たちだった。ドン神父が堀田たちに見せようとしてくれた演劇は『わが村』という作品である。舞台はとある漁村。ある日「地主の奥さん」が住民たちに「土地を売った」と宣言する。人々は途方にくれる。そのうち、土地を取り上げるために兵隊がやってきて、検問所が作られる。地主、権力に阿る宗教者、メガネとカメラを身に付けた日本人観光客、アメリカ人などは、自由に検問所を通ることができる。他方で漁村の住民たちは、自分たちが住んでいた土地なのに、それを一方的に取り上げられ、自由にすることができない。そして叛乱がおこる——

ある一瞬、村人は立ち上がる。兵隊の包囲が押し破られる。/と、嵐の海。/必死で波と戦う、漁民たちの小舟。(戦いと反抗の表現は、こうした抽象的な方法に頼らざるを得ないのだ。と、ドン神父はある感情をこめて語っていた)/浜辺では、女たちが男たちの無事を祈っている。/帰らぬ小舟。/ひとり、また、ひとりと、村人たちは立ちあがり、唄い出す。(…)

大海原よ、わが心。

わが生きゆくは、この村。

と一斉に、こぶしが空に突き出された。

 歌声と身振りによって劇化されたこの叛乱のシーンは、多くの人々の情動を突き動かし、共感の嵐を巻き起こしたのか。いや、実は、そうはならなかった。準備の不足などいくつかの理由も考えられようが、特に理由として大きかっただろうと思われるのは、上演がミンダナオ島の、とりわけイスラーム教徒の漁村でなされたことである。堀田は次のようにこの点を強調する。

ドン神父たちは、「わが村」の再演を決定したとき、この劇の内容とまったく同じ状況に追い込まれている、ある回教徒の漁村でやろうと考えた。しかしその村は、かれらキリスト教徒からの何度かの接触に、容易に門戸を開こうとはしなかった。もともと、ミンダナオ島は回教徒の島だったし、現在もモロ民族解放戦線が、ミンダナオ島の独立を求めて政府軍と戦っている。

 もちろん、ドン神父はこのようなイスラームとキリスト教の対立関係を熟知したうえで活動をおこなっている。それはドン神父の言葉がはっきりと示している。「自分たちのコミュニティを守ろうとする、かれらの固い結束は、学ぶべき文化であり、乗り越えるべき障害ではない。かれらを排他的にしたのは、われわれなのだから。だが、かれらとわれわれは、おなじ抑圧と不正の中にいる。そのことさえおたがいに理解しあえれば、いつか共通のコミュニティをつくりだせるだろう。」そして、ドン神父は自分たちの活動について、「拡大しつつある、少数派」と位置付ける。

 私自身、今フランスに住んでいて、イスラームと共和主義、そして国際的なイスラーム組織とフランス国内の政教分離の理念が織りなす複雑な空気を吸って生きている。だからなのか、この堀田の報告を読みながら、どうしても、ここ数年のミンダナオ島での動きを思い出さずにはいられなかった。2017年、ISIL(「イスラム国」)に呼応した活動組織アブ・サヤフとフィリピン軍との間でマラウィの戦いが起こる。アブ・サヤフは先の引用に登場したモロ民族解放戦線から分岐した組織らしいが、いずれにしても、活動の背景にはイスラームとキリスト教の根深い対立関係がある。堀田の報告は、このような現代まで連なる世界情勢の脈絡の中に再分脈化し、読み直す必要があるだろう。そのとき『水牛新聞』は、小さなメディアであると同時に、今を考えるための大きな力となるはずである。

 この連載を開始したとき、私は気になった記事を短く紹介するだけで良いと思っていた。しかしそれは甘かった。水牛を読めば読むほどに、自分のこととして反応したくなる、そんな力が水牛にはあると思うのだ。だが、今の段階であまり長すぎてもいけない。まだあと数年間は読み続けていくのだから。最後に『水牛新聞』第2号の中で、最も短く、そして最も私が心動かされた文章を紹介して、今回はおしまいとしたい。それは、「『水牛』創刊号を読んで」と題されたひとつの手紙である。

 

「『水牛』創刊号を読んで——在日タイ学生からの手紙」

 「私は『水牛』を友人からもらいまして、一気に読み終わりました。」このように始まるわずか二段ばかりの短い手紙の書き主は、「一在日タイ学生」である。記名はなく、どのような書き手なのかも不詳であるが、それはあまり重要ではない。重要なのはその内容であり、そこに書かれている内容は力強く、しかも今後の『水牛新聞』および『水牛通信』の活動を予言するような手紙でもあるのだ。在日タイ学生は言う。

私の目からみた日本社会は、統制された、あるいは管理化された社会になりつつあるようです。(…)文化は今では一つの商品としてとりあつかわれていて、現に氾濫している品のない週刊誌、テレビ番組等をみれば、そう感じとってもしかたがないのではないかと思います。

 この手紙が1978年に書かれているという事実を再度強調しておきたい。この手紙から40年以上たった今、日本の状況はどうか。そう考え急ぐ前に、もう少しだけ手紙を読もう。このタイの学生は『水牛新聞』創刊号にも若干の不満を持っている。そして、二つの提言をおこなっているのだが、この提言がまた考えさせられるものなのである。

(1)(…)アジア諸国の文化運動を学ぶ際に、ただ現在のアジア諸国の文化運動の動きを報告することにとどまらず、もっともっと深くまで、歴史的に研究することが必要ではないかと思います。(…)

(2)アジア諸国の文化運動から学ぶ過程のなかで、日本の新しい真の民衆文化を同時に創造しなければならない。

 これから『水牛新聞』と『水牛通信』を読み進めていくなかで、この在日タイ学生の二つの提言がしっかりと息づいていることが明らかになるだろう。それに加えて、「文化は今では一つの商品としてとりあつかわれていて」というタイ学生の言葉は、今ではより深刻なものとして受け止めねばならないようにも思う。例えば、今の日本では、人間の命までが「一つの商品としてとりあつかわれて」いるのではないか。コロナ禍以降、外国人技能実習生に対するあまりに非人道的な扱いが明らかになっている。そのような文脈から、私は『水牛新聞』をどうしても読み返してしまうのである。

 

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 さて、もうさすがに一回の投稿としては長すぎる。今回はここまで。

 ちなみに、今月末(2020年11月30日)までYouTubeで野田秀樹(作・演出)の『赤鬼』が公開されている(https://www.geigeki.jp/ch/ch1/akaoni_streaming.html)。この作品について、野田のロング・インタビューも同じくYouTubeで公開されているのだが、そこで野田は、この『赤鬼』上演史の重要なポイントとして、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督・佐藤信の依頼によるタイでのワークショップがあったと証言している。このタイでの『赤鬼』上演は、1997年に行われたそうだ。『水牛新聞』第2号の中で、佐藤は「アジアはわれわれを見返す。その視線の中にわれわれの演劇を位置付ける」と述べているが、ちょうど今配信されている『赤鬼』という作品もまた、アジアをめぐる視線の往還と交錯の中にあることに、私は胸がジンとなるのである。

 次回は、『水牛新聞』第3号を読んでいく。

(2020年11月24日 福島 亮)