水牛的読書日記番外編「私たちは読みつづけている」

アサノタカオ

今月は「番外編」をお届けします。2022年1月、K-POPファンの高校生の娘(ま)との共著で韓国文学をテーマにした小さな本『「知らない」からはじまる』をサウダージ・ブックスから刊行しました。この本については、八巻美恵さんが連載「言葉と本が行ったり来たり」第6回で紹介してくれたので、ぜひ読んでください。

https://www.memorandom.tokyo/yamaki/3515.html

さて、5月16日〜6月中旬、東京・下北沢の本屋B&Bで、本書で取り上げた作品を紹介するフェアを開催しています。またこのフェアでは、著者のふたりが本書刊行後に読んだおすすめの韓国文学を10冊セレクトし、「私たちは読みつづけている」と題して以下のコメントを寄せました。気になる内容があれば、お近くの方は本屋B&Bで、遠方の方は別の書店か図書館で、本を手にとってもらえるとうれしいです。

https://bookandbeer.com/

「私たちは読みつづけている——2022年に出会った韓国文学の本、10冊」

チョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)
◉朝鮮戦争を生き延びて波瀾万丈の人生を送った女性の美術評論家で随筆家のシム・シソンを取り囲む家族3世代の物語。チョン・セランの代表作『フィフティ・ピープル』が病院町という同じ場所にいる人々の横の繋がりを描いているとしたら、この長編小説はシソンからはじまる家族の歴史という縦の繋がりを描いている。『フィフティ・ピープル』と同じく本書も主人公のいないオムニバス形式で、家族一人ひとりの視点からいろいろな話が描かれているのがおもしろい。登場する人物はとても多く、はじめは名前だらけで分からなくなるから、本の6ページにある「シム・シソン家系図」に戻って読むといい。
私の中で一番心に残ったのは17のキュリムの話。シソンの再婚相手の前妻の孫であるキュリムは高校生で、ハンビッとドヨンという大切な友達がいた。ある日ドヨンがハンビッのことをきついジョークでからかって、メッセージグループ上で軽いいじめに発展してしまう。その時キュリムはグループに参加していなかったのだけど、後からそのことを知る。でも「こんなことになるまで放置しておくなんて」とハンビッから言われて、キュリムは、いじめに加担していなくても傍観者として加害者の立場に近かったことを自覚する。それからはドヨンともハンビッとも疎遠になってしまったが、いつかまた友達に戻りたいという気持ちも捨てられないでいる。
物語の本筋から少し外れたものかもしれないけれど、高校生の私には、この話がとても身近に感じられた。(M)

ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(橋本智保訳、新泉社)
◉ロシアによるウクライナ侵攻の報道に接して、こんなときに小説を読んでいる場合だろうか、と迷いが生じた。でもタガの外れた世の中で正気を保ち、他者の痛みを想像するためにも文学の読書は必要だと思い直した。本書の舞台はソウルの移民街。戦後の日々、陽の当たらない場所でなお戦争の苦しみを生き、傷によってつながりあう流れ者たちの姿、そのさびしさの奥で震えるやさしさを描いた小説。今こそ読むべき一冊。(T)

ファン・ジョンウン『年年歳歳』(斎藤真理子訳、河出書房新社)
◉母と娘たちの物語、従順であることを強いられる者たちの物語。押し黙ってきた生きることの苦しみ、人それぞれに複雑なその内実を、繊細な小説の言語で描ききっている。感想を書きたいけれど、ことばがなかなか出てこない。噛み切れない思いが自分の外に向かわず内に沈んでいく感じ。最後のページを閉じた後、「家族」として出会いながら「人間」として出会うことのないまま別れた者たちのことを、ふと思い出した。(T)

イ・グミ『そこに私が行ってもいいですか?』(神谷丹路訳、里山社)
◉日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた二人の少女の成長を描いた歴史エンタテインメント。息もつかせぬスリリングな展開にのめりこみ、物語の世界を一気に駆けぬけた。朝鮮から日本・中国・北米へ。アメリカの日系人強制収容所の問題まで語られるなど、著者の視野は広い。韓国では青少年文学として出版されている。少女たちの旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける本書を日本の若い人にも読んでほしい。(T)

イ・ヘミ『搾取都市、ソウル——韓国最底辺住宅街の人びと』(伊東順子訳、筑摩書房)
◉こういう韓国社会の今に迫るノンフィクションを読みたかった。ソウルの「貧困ビジネス」をめぐる調査報道で、生々しい格差の現実を伝える文章の随所から、「幼い頃から貧困と戦ってきた」という著者の歯ぎしりも聞こえる。本書の「はじめに」では、「私」が貧者の物語を書く意味があらかじめ示されている。「私」=著者の主義主張ははっきりしているが、語りや文体はクールで私情に溺れることがない。そこがいい。(T)

ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』(加藤慧訳、イースト・プレス)
◉「それは私じゃない。……あんたがそういうふうに見たかっただけだよ」。小説の中で「彼女」が「僕」に言う台詞が心に突き刺さる。フェミニズムを生きる「彼女」の顔に自分は向き合ったことはあっただろうか。性差別の文化から抜け出せない「僕」の顔を鏡の中に直視したことは……。ここではないどこかへ旅立つ選択をした「彼女」たちの背中に、なんと声をかければよいのか。娘を持つ父としてそんなことも思った。(T)

キム・チョヨプほか『最後のライオニ——韓国パンデミックSF小説集』(斎藤真理子、清水博之、古川綾子訳、河出書房新社)
◉韓国のSFは「やさしい気持ちになれるSF」。YouTubeの番組で翻訳家の古川綾子さんが韓国文学について語ることばに魅力を感じて、読んでみたのがこのアンソロジー。文明批評や環境批評のヴィジョンを物語によって創造するという著者たちの明確な意志が伝わってきて、しかもめちゃくちゃおもしろい。韓国文学をあれこれ読んでみたけど、次に何を読もうと迷っている人におすすしたいのがSFという沼。はまること間違いなし!(T)

キム・ハナ、ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています』(清水知佐子訳、CCCメディアハウス)
◉コピーライターや本の執筆などの仕事をしているキム・ハナと、雑誌「W Korea」で編集長をしていたファン・ソヌのエッセイ集。彼女たちは猫4匹と一緒にマンションでふたり暮らしをしている。バックグラウンドや趣味が似ていて、どうしてもっと早く知り合わなかったのかと残念に思うほど気の合うふたり(けんかもする)。相手が女か男かということにこだわらず、ただ一緒にいて尊敬できる相手と同居している、というところに本当のジェンダーフリーを感じる。
「ひとり」と「ひとり」がゆるく結合する「分子家族」という表現にも興味を引かれた。たしかに学生や若者でない大人でも孤独を感じるだろうし、皆がひとりで生きていけるわけでもないと思う。でもそのために結婚するのは違う、と感じる人もいるんじゃないだろうか(キム・ハナもそのように考えている)。日本でも彼女たちのような新しい家族の形ができていったらいいな、と読んでいて思った。
猫たちのカラー写真も掲載されていて、「ヨンベ」がかわいい。ちなみに、ふたりが運営しているYouTubeチャンネルがあったので見てみると、本のカバーのイラストが実際の本人たちの顔とそっくりなのだとわかってうれしかった。それから「W Korea」はK-POPアイドルがよく表紙を飾る雑誌で、ファンなら知っている人も多い。私の推したち、NCT127のメンバーも過去に何回か掲載されたことがあって、もしかしたらファン・ソヌがエディターを務めていたのかな?(M)

イ・スラ『日刊イ・スラ——私たちのあいだの話』(原田里美・宮里綾羽訳、朝日出版社)
◉日記風のエッセイ集で、「逃げるは恥だが役に立つ」という作品がよかった。友達のカップルと日本を旅する様子が書かれている。看板の日本語が読めないから無能になったと感じるけれど気持ちが楽、ソウルでは何でも読めるからぼんやりするのが難しい。韓国旅行をした時に私も同じことを思った。大阪はソウルの繁華街に似ているそうで、訪ねたのがドンキホーテと回転寿司だけ、というのが新鮮。文章にユーモアがあるのがいい。(M)

キム・ジフン『本当に大切な君だから』(呉永雅訳、かんき出版)
◉作者のキム・ジフンは病気を抱えていた苦しい時間を経験したことがあり、だからこそ本書には、つらい状況の読者が共感できるような言葉が書かれている。すべてを吸い取ろうとするよりも、必要な言葉だけ拾うように読むのがいいと思う。そして時間が経って読み返した時、前よりも頷ける部分が増えていれば、自分に少し余裕ができたことを感じられるのかもしれない。NCT127のリーダー、テヨンが愛読していると聞いて興味を持った。(M)

2022年5月15日の熊本日日新聞に、アサノタカオによる『そこに私が行ってもいいですか?』(イ・グミ著、神谷丹路訳、里山社)の書評が掲載されました。イ・グミの小説、おすすめします。

「意志ある女性たちの連帯」

ディアスポラを生きるものたちの振り幅の大きな旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける韓国発の歴史小説。息もつかせぬスリリングな展開にのめりこみ、物語の世界を一気に駆けぬけた。
主人公は日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた少女たち。1人は「対日協力者」の資産家ユン・ヒョンマンに仕えるキム・スナム、もう1人はヒョンマンの娘チェリョン。階級を異にする2人が出会い、歴史の荒波に押しだされるように日本・中国・アメリカと国境を越えて移動し、苦難を生きのびる過程が語られる。
日本留学中のチェリョンが朝鮮独立運動に関わりを持ち、物語は急展開を迎える。娘の刑務所行きを恐れるヒョンマンの画策により、スナムはチェリョンの身代わりとして満州の「皇軍女子慰問隊」に送り込まれたが脱出して渡米、ニューヨークの大学で学びながら自立の道に目覚める。一方のチェリョンは「日本人」として偽装結婚してアメリカに移住、日米開戦後に日系人強制収容所に送り込まれるなど辛酸をなめる。
複数の言語を学び、読書を通じて未知の世界を想像し、愛する人のために行動を起こすことで新たな人生を切り開くスナム。若き彼女に手を差しのべる「姉」のような存在の女性たち。こうした意志ある女性たちが連帯する姿に著者の希望が託されていると感じるが、解放後の韓国でチェリョンに再会したスナムの後半生は幸せなものではなかった。
人生の岐路で何を選びとり、何を捨てさることが正しかったのか。真の答えは誰にもわからない。
「そこに私が行ってもいいですか?」。本書の題名は、愛娘への「誕生日プレゼント」として使用人を探すヒョンマンに、自らを差しだす幼いスナムのことばに由来する。
懇願するのは誰か、承認するのは誰か。暴力的な支配と従属の関係を脱し、他の何者かの許しを乞うことも自分を偽ることもなく、誰もが自由に「そこ」に行き、生きられる社会を実現することは可能か。読後に兆した問いが、いまも心の中で響く。(T)

* 文末( )内のアルファベットは執筆担当、(M)は(ま)、(T)はアサノタカオを表しています。