人生は野菜スープ

若松恵子

5月最後の日の朝は、雨ふり。
仕事をお休みにして正解だった。昨日より気温が下がって少し肌寒い。
家にこもって過ごそう。
片岡義男の3つの短編「人生は野菜スープ」について考えて1日を過ごすことにした。

片岡義男の短編小説集『これでいくほかないのよ』(亜紀書房)が4月の終わりに書店に並んだ。片岡義男.comの「短編小説の航路」に書き下ろしとして公開された8編が1冊にまとめられている。公開時に読んでいたはずだが、紙の書籍で再び読んで「人生は野菜スープ」が印象に残った。角川文庫に入っている第1作が好きな短編だったからだろうか。読後の印象には第1作の時と変わらない何かがあって、でも、今の時代に合わせて進化していると思う部分もあって、そこが嬉しかった。

1976年4月号の「野生時代」に掲載されて角川文庫に収録された第1作、2015年7月号の「群像」に掲載されて『と、彼女は言った』(講談社/2016年4月)に収録された第2作、2021年2月に片岡義男.comに公開され『これでいくほかないのよ』に収録された第3作。順番に紙の書籍で読み返してみる。どれも良かった。

「人生は野菜スープ」は女性たちの物語だ。主人公の女性たちはみんな、何かのしがらみにとらわれるという事なく、自分の暮らしを自分で成り立たせて生きている。何かに寄りかかっているという印象が全くない、美しい彼女たちが、小説の世界のなかで手足を自由に伸ばして動き回るのを読むのは気持ちが良い体験だ。自由であること、自分が使う時間について自由であることが3人の主人公に共通している。彼女たちには時間がたっぷりとあるのだ。

そんな暮らしを成立させるために、第1作の彼女は「パン助」だった。第2作の彼女は「作家」だった。そして第3作の彼女は勤めていたスーパーの雇用契約が満了となって、実家のある街に戻って再就職するという境遇だ。3作が書かれる時間の経過の中で、彼女たちの生き方の自由を成立させる条件が、ちっとも特殊なことではなくなっていることに、良いなと思った。3作目の彼女は、勤務が始まる前のつかの間の休暇中という設定だから時間がたっぷりあるのだけれど、そのことを特別とは思ってはいない様子からは(休暇中の予定は?と聞かれて何もないと答えるのだ)勤務が始まっても彼女のあり方はあまり変わらないのだろうな、何かにせかされて生活するという事にはなりそうに無いなと感じた。

世間から離れている(浮いている)彼女たちの物語は、ある種ファンタジーという作り物なのだけれど、具体的な描写によって、全くの絵空事になっていないところが、片岡作品の魅力なのだろうと思う。物語を読んでいる間は、彼女たちのいる空間に入って同じ空気を感じることができるのだ。

3作とも「野菜スープ」をこれから飲もうとする場面で物語は終わる。インスタントではなくて、滋味あふれるスープがきっと運ばれてくるに違いないと感じさせる。

第2作に、少し種明かしのような部分がある。テーブルに野菜スープが届くのを待ちながら、主人公が友人の女性と会話する。「からっと笑えるロンリー・ウーマンの話」を書いてほしいと依頼を受けた彼女は、「ひょっとして自分たちのことか」と言う友人に対して「違うような気もする」と答えたうえで、ロンリーは「寂しい、孤独、ひとり、惨め、誰かいないかというようなことではなく」そういう浅いことではなく、「浅いところでうろちょろしてても、なんにも始まらない」と言う。「では、深いところとは、なにか」との友人の質問をうけたところで、テーブルに野菜スープが届く。「その複雑な色どりと、深みのある香りに、ふたりは一瞬、おなじ表情になった。」という記述で物語は終わる。

彼女たちが大事にしているのは、例えば人生訓のようなものではなくて、この野菜スープのように、実態ある物なのだ。そしてこの野菜スープを作った、厨房にいる人も「うしろでまとめた髪を上げてうなじをきれいに出した」、表情の良い女性だというところが、また嬉しい。おいしい野菜スープをつくることができる人の人生もまた豊かだ。