12月某日 地図や時刻表を眺めながら、熊本・水俣への旅程をあれこれ検討した結果、空路を使うことにした。自宅から近い横須賀港と新門司港を結ぶフェリーで九州入りし、鉄道でのんびり現地まで向かいたいという思いもあったが、結局、時間的にもお金的にももっとも経済的なルートを選択したのだった。
水俣病の歴史をもつ土地を、はじめて訪れる。旅の前に、書棚に並ぶあれこれの関連書を読んで「予習」などをしようとする小賢しい自分がいた。が、一夜漬けの試験勉強のような読書で仕込んだ知識や情報を持ち歩いたところで、いったいそれが何になるのか。今回はできるかぎり丸腰の、白紙の状態で土地に出会おう。もし水俣への旅から問われるものがあれば、そのあとに本を読み、考えればいい。戒めるようなつもりで、自分に言い聞かせる。
12月某日 リュックサック一つに荷物をまとめて夜明け前に出発し、羽田空港からLCCで鹿児島空港へ。詩集を一冊だけ、リュックに忍ばせた。
空港の売店で地元紙の南日本新聞を購入。先月末から、米軍オスプレイの屋久島沖墜落のニュースを、歯ぎしりするような気持ちで見続けている。このタイミングで鹿児島に来たからには、屋久島に渡りたかった。そしてこの火急の事態について、背後にある世界情勢について、信頼を寄せる島の人たちから意見を聞きたかった。そこには声高に語らずとも大きな力に抗い続け、ひとりで感じ考え、生きることに心を傾ける人がいる。かれらの声に、自分の心の綱を繋ぎ止めておくべき、ぎりぎりの希望を見出したいと思った。が、今回はその気持ちをぐっとこらえ、鹿児島空港からバスで北上する。
出水駅に到着。ローカルの電車が来るまで、誰もいない待合室ですごす。ふと、駅舎に吊り下げられた生々しい鶴の模型が目に入り、ここが韓国の作家キム・ヨンスの小説「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」の舞台だと思い出した。出水でナベヅルを撮影した、亡き写真家をめぐる物語だ(短編集『世界の果て、彼女』〔呉永雅訳、クオン〕所収)。バスの車窓から何羽も灰色のアオサギを見た、と思っていたのだが、あれは鶴だったのだろうか。
午後、水俣駅で恩師の上野俊哉先生と合流。英語圏で『苦海浄土』の作家・石牟礼道子の論考を発表している上野先生の運転で、まずは「エコパーク」なる海岸の人口緑地へ行ってみた。そこの地中には、水俣病の原因企業であるチッソ排出のメチル水銀によって汚染されたヘドロや魚を詰め込んだドラム缶が何千本も埋め立てられている。
海岸の遊歩道から、はじめての不知火海を眺めた。ほとんど波のない穏やかな内海で、想像以上に閉ざされた湾。半島や島々の影にぐるりと囲まれた、まさにアーキペラゴの風景だった。この日の水俣の気候は晴れ。都市生活をする旅行者からみれば「美しい」としか言いようのない青い空、青い海が目の前に広がっている。
そしてこのあたりを歩くと、道路沿いの標識や看板には「エコパーク」「親水公園」「恋人の聖地」などの名称が、能天気な顔つきで並んでいる。風景に散りばめられたこれらの記号が、水俣病の歴史と記憶を埋め立てているのだ。企業と行政があからさまに推進する「歴史の健忘症」に憤りを覚えつつ、それに抗う想像力について上野先生と語り合う。
その後、水俣病資料館やJNC(チッソの子会社)、チッソが猛毒の工業廃水を垂れ流した百間排水口などを見物し、袋という浦の集落をめぐる。そして夕方、丘の上にある水俣病センター相思社へ向かい、集会所で開催された座談会に参加した。
座談会のテーマは「私たちのつながりあう百年の物語」、関東大震災の起こった1923年以降の在日の百年、東北の百年、水俣の百年について。語り手は、震災時に虐殺された朝鮮人の追悼活動をおこなう在日二世の慎民子さん、宮城・南三陸のコメ農家に生まれ育った歴史社会学者の山内明美さん、相思社職員の葛西伸夫さん。葛西さんは、日本による朝鮮支配とチッソの関わりの歴史について詳細に解説。近代と植民地主義の暴力はいまここでも続いている。いろいろな資料をもらったので、しっかり読み直して反芻したい。
12月某日 水俣のあたりをドライブして体感したのはこの地は、名前の通り、水俣川と湯出川という二本の川の流域(watershed)、「水の分かれ目」だということ。今回、ぼくらは湯出川沿いのひなびた湯の鶴温泉に投宿し、旅の興奮を鎮めるために深夜の湯に浸かり、早朝の湯に浸かった。
宿では韓国の詩人キム・ソヨンの詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)を読んだ。詩のことばには日常性に根ざした優雅さがあり、しかし描き出される世界には底なしの不穏を感じる。「定食」という詩などは、一度読めば忘れられない作品だと思う。旅の道中で、詩人のエッセイ集『奥歯を噛みしめる』(姜信子監訳・奥歯翻訳委員会訳、かたばみ書房)も入手した。早速ページを開くと、冒頭に「わたしは母の娘ではなく、母の母として生きてきた」とある。石牟礼道子の文学(たとえば『妣たちの国』)と繋がるものを感じて驚いた。
水俣滞在2日目。作家の姜信子さんのお誘いで、前日の座談会からはじまる「百年芸能祭」に参加するのが、今回の旅の目的だった。水俣病の犠牲者を祀る乙女塚や、エコパークの慰霊碑の前で、姜さんが案内人をつとめる遊芸集団「ピヨピヨ団」による奉納パフォーマンスがおこなわれた。
「これまでの百年の間、周縁に追いやられ、踏みにじられ、つながりを断ち切られ、消されていったすべての命に祈りを捧げ、これからの百年が生きとし生けるすべての命が豊かにつながり合い、命が命であるというそのことだけで尊ばれる世界となることを予祝する、そんな芸能の場を、『百年芸能祭』の名のもとに開いていきます」
——「百年芸能祭」ウェブサイトより
さらに相思社の集会所に場を移し、水俣のミュージシャンと「ピヨピヨ団百年デラックスBAND」のライブも。ソーラン節、安里屋ユンタ、アリラン、水俣ハイヤ節など、島々のように歌が連なり、声が渦巻く。夜、会場にアナキスト哲学者・森元斎さんが長崎よりギターを抱えて合流。
「百年芸能祭」のイベントのあいまに、上野俊哉先生とぼくらは古書店のカライモブックスへ。今年の春、京都から水俣の石牟礼道子夫妻の旧宅へ移転した店を、なんとしても訪ねたかったのだ。
途中、場所がわからず、道ゆく人に「すみません、石牟礼さんの……」と尋ねると、「ああ、弘先生の家ね」と教えてもらう。辿り着いたカライモブックスで、久しぶりに会った店主の奥田直美さん、順平さんが元気そうでうれしかった。店内には石牟礼道子が使っていたタンスや机、原稿用紙や文房具、座布団や献立表なども展示されている。順平さんの案内で、旧宅からすこし離れたところにある石牟礼さんのかつての執筆部屋あたりを散策し、そばに立つイチョウを見上げた。黄昏時、斜めから射す冬の光の中で黄色い葉っぱが輝いていた。
不知火海沿いの湯の児温泉にも行った。我が心の師である思想家・戸井田道三(上野先生は戸井田さんの『日本人の神様』〔ちくま文庫〕の解説を執筆)は1975年に水俣病患者の療養施設である明水園を訪れ、ここの温泉宿に滞在。「透明な補助線について」という題で、水俣の人々と出会い、揺れ動く自らの心の模様を道化的・批評的に語るという風変わりな旅行記を残している。この文章にはテレビ・ドキュメンタリー『苦海浄土』への言及がある。これは、一緒に湯の児温泉に浸かった森元斎さんが『国道3号線』(共和国)で書いている木村栄文の作品のことだろう。
ところで、九州の西海岸に来たからには壮麗な日没を見たいと思っていた。相思社のある丘の上で、その願いが叶った。すぐそばの畑で仕事をしているおばあさんが作業の手を休め、「このあたりの夕陽はきれいでしょう」と話しかけてきて一緒に夕日を眺めた。
12月某日 水俣滞在3日目。朝、温泉宿をチェックアウトして相思社にふたたび立ち寄り、水俣病考証館を見学。「百年芸能祭」に集う人たちに別れの挨拶をしたあと、『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』(ころから)の著者で相思社職員の永野三智さんと少しことばを交わした。水俣病について証言する人の声を聞くことはもちろん、これからさまざまな事情で語ることのできない人の沈黙をどう継承していけばいいのか、ということを話していた。透き通ったまなざしが印象的だった。
ここからは上野俊哉先生と森元斎さん、そしてぼくの三人でのドライブ。水俣の南にある長島から天草へフェリーで渡り、各地のカトリック教会を訪ね、さらに長崎へ向かった。森さんの運転で外海地方にも足を伸ばし、19世紀末にド・ロ神父が創設した旧出津救助院も訪問(日本のマカロニ発祥の地、困窮する女性たちのコミューンなど興味深い側面を持つ)。夜の長崎では、木村哲也さん『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』などすばらしい本を出版する水平線編集室の西浩孝さんたちとの、よい出会いがあった。