製本かい摘みましては(185)

四釜裕子

年末、MORGAN SALONで開かれた『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』(TAYLOR MIGNON編 KERPLUNK!刊 2023)のイベントでハサミ詩を読んだ。

「ハサミ詩」というのは切り取り線を組み込んで作った詩で、私が勝手にそう呼んでいる。描かれた切り取り線を読み手が切って初めて作品が完成するもので、いつもは「gui」という同人誌に載せている。自分の手元では、見開き状の紙を舞台に書いて切って折ったりもして、最低一度は完成している。それを毎回、冊子に封印しているようなものだ。なにしろ同人誌だから、自分のわずかな持ち分の中で「ここを切るとこの詩は完成するのでやってみて」と誘うのはかなりの傲慢だろう。実際はほとんどの人が無視してくれている。私も読む側ならやらないと思う。結果、ほとんどのハサミ詩は読まれていない。

生前「gui」の同人でもあったヴィジュアル・ポエット、高橋昭八郎さんに、ハサミ詩を見ていただいたことはない。間に合わなかった。昭八郎さんにはポエムアニメーション5『あ・いの国』(1972)という作品がある。8枚の長い紙を2枚ずつ組み合わせて三角形に折りたたんだものが含まれているのだが、これがまぁ組むのも開くのも相当難しい。そんなわけで、この作品について語る人は結構いるが、体験している人はかなり少ないと思われる。昭八郎さんはこう書いている。組んであるものを開くことからしか、〈いつの間にか大きくひろがっていく触発的な現場に〉〈立ち会う〉という体験はできない。これらは〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉であり、〈次つぎにひらいていくとき、手と眼と目と…読者であるあなたの意識・身体全体をそれらはつつみこむだろう〉(高橋昭八郎「詩集 あ・いの国へのeyEs」『VOU』133号)。

私もハサミ詩で、〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉をやってみようと思ったわけです。

AかBかの二者択一にさらわれないで残っていくものがそれぞれの”自分”で、その可笑しさと頼りなさとかけがえのなさをハサミで切るという作品の特別バージョンを、A5判中綴じに刷って台本とした。1、2、3……とページを順に切り落とし、残った「背」を丸めて「ノド」を開くと、空也が現れ、「小口」から南無阿弥陀仏が続々吹き出す……。『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』の表紙が空也小人像だったのだ。なんとかかんとか最後までたどりつき、足元に落ちた切れ端を拾って客席に戻ると、みなさんに笑って声を掛けてもらえてうれしかった。

背もノドも小口も本の構造の呼び名だが、いかにもうまく人体に見立てたようでいて実際は背とノドが表裏一体なのだからキュビスムだ。日本語以外でノドはなんと呼ぶのだろう。一方、改めて思うと「天」と「地」なんて大げさだけど、斎藤真理子さん訳の『李箱作品集 翼』(光文社古典新訳文庫 2023)のあとがきに、”ページの逆立ち”を思わせるシーンがあったので記したい。斎藤さんが偶然見つけた李箱の詩集が、ひと折だけ天地逆だったことがあるという。あってはならぬが起こりうるミスだ。そこには「嗅覚の味覚と味覚の嗅覚」という作品があったそうだ。〈(立体への絶望に依る誕生)/(運動への絶望に依る誕生)/(地球は空巣である時封建時代は涙ぐむ程懐かしい)〉。天地逆は意図したものではなかったか。あるいはこの折、自分で逆立ちしたのではないか――そう思ったって、いいだろう。

読んでいて「肉体」を感じさせる本といえば、村野四郎の『体操詩集』(北園克衛 構成 アオイ書房 1939)もある。〈中学生のやうなキチンとしたフオームは次第に大学生のやうな仕様のないフオームを示しはじめてゐます。これは勿論年齢のせいもありますが、体操の正課が新たな修身の課目によつておかされてゐることを示すものです〉(自作解説より)。つい先日、旅先の公園で鉄棒を見つけ飛びついたところ、逆上がりができなくてびっくりした。もちろん年齢のせいだが、果たしてそれだけなのか、なにものかにおかされていないか、気をつけておかねばならぬ。

最後にもう1つ。栃折久美子さんは装幀を、「服を着せる」というより「皮膚」に近いというふうに書いていた(『製本工房から』1978)。かつてその生っぽさがやけに重く厳しく感じたことを、澤直哉さんの『架空線』(港の人 2023)で思い出した。この本は、ブックデザイン、特に物としての本についての澤さんの講義をまとめたもので、栃折さんの”皮膚説”にも触れている。〈皮膚としての本を作ること、これは読者を魅了するイメージを拵えるのとはまったく異なる行為であり、まさに作品の「出生」に関わろうとすることでしょう。このように考えられたらどれほどよいか、と思います。しかしこれは大変険しく、厳しい道です〉。

前述の『李箱作品集 翼』における、李箱作品と斎藤真理子さんの翻訳・解説・まえがきとの関係も、これだと思った。

澤さんは続けてこう書く。〈こうした思想を、思いを知っておくことは、どうやったらうまいデザインができるかどうかより、よほど大切なことだと思います。私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない〉。