水牛的読書日記 2022年8月

アサノタカオ

8月某日 イーディ・ケルアック=パーカー『そのままでいいよ——ジャック・ケルアックと過ごした日々』(前田美紀・ヤリタミサコ訳、トランジスタ・プレス)を再読。ビートニクの作家で『オン・ザ・ロード』の著者、ケルアックの最初の妻によるメモワール。原著の編者のひとり、ティモシー・モランにはむかし神奈川・葉山で会ったことがある。日本語版の編集は、故・佐藤由美子さん。ところで、酷暑のため人間の頭の調子も、PCなど仕事道具の調子もいまひとつ。今月はあまり本も原稿も読めなさそうだ。

8月某日 韓国小説の翻訳などを手がける出版社クオンが発行する『CUON BOOK CATALOG』Vol. 3に、エッセイ「金石範『満月の下の赤い海』について」を寄稿した。先月刊行され、編集を担当した在日朝鮮人の作家・金石範先生の小説集を紹介。本書には、済州島四・三事件をテーマに書き続ける在日の老作家Kを主人公にした3編の小説と対談が収録されている。カタログの巻末では、キム・ウォニョンの自伝的エッセイ『希望ではなく欲望』が秋に刊行されるとの情報が。著者は作家、パフォーマー、弁護士、骨形成不全症という難病を抱えて生まれた車椅子ユーザーだという。韓国文学については小説や詩だけでなく、骨太なノンフィクションや評論をもっと読んでみたい。

8月某日 早田リツ子さんの『野の花のように——覚書 近江おんなたち』(かもがわ出版)が届く。滋賀の女性史をテーマにした本。《身近な過去、あたりまえの女たちの暮らしの跡》を記録するこまやかな文章の行間から、出会いを求めて村々を旅する著者の息遣いまで聴こえてくるようだ。昨年刊行されたノンフィクションの名作『第一藝文社をさがして』(夏葉社)を読んで感想を伝えたことがきっかけになり文通をするようになったのだが、尊敬する著者である早田さんが、サウダージ・ブックスから刊行した韓国文学やローカルをテーマにした本を手にとり、「半ばあきらめていた〈次世代へ希望を託す〉ことは可能だと感じ入りました」という最高にうれしいメッセージを送ってくださった。未来にバトンを渡すためには、渡すべきバトンを先達から受け取らなければならない。本作りに関わる自分の原点はそこにある。新しさ、ではなく、流れを見つけること。この姿勢を、これからも大切にしていきたい。

8月某日 写真家の畏友、渋谷敦志さんのノンフィクション『僕等が学校に行く理由』(ポプラ社)が届いた。その他に、『モダニスト ミナ・ロイの月世界案内——詩と芸術』(フウの会編 、水声社)、アジアを読む文芸誌『オフショア』第1号も届く。

フランス・アルルのフォトフェスティバルで開催中の写真展「(SE) RENCONTRER, PARTIE 1」のために現地滞在中の渋谷さんより、これからポーランドに飛び、ウクライナのキーウへ向かってしばらく取材活動をすると連絡が入った。ロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、約半年が経過した。

8月某日 『現代詩手帖』2022年8月号に、エッセイ「『女性』と『詩』に関わる本の編集を通じて」を寄稿した。編集を担当したペリーヌ・ル・ケレック詩集『真っ赤な口紅をぬって』(相川千尋訳、新泉社)のことなど。特集「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」に目を通すと、非常に充実した内容。特集以外では、高良勉さんの評論の新連載「五十年とアンソロジー 琉球弧から」、ヤリタミサコさんの視覚詩の作品「豆の平和」、文月悠光さんの連載詩「痛みという踊り場で」の8月号の作品「消された言葉」を読む。

8月某日 記憶の蓋がひらかれる夏の夜に。原民喜が原爆投下以前の広島の幼年時代を追憶する小説集『幼年画』(サウダージ・ブックス)を読み返す。

8月某日 伊藤芳保写真集『「阿賀に生きる」30年』(冥土連)が届く。新潟水俣病の患者たちの日常を記録したドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(佐藤真監督)にかかわる人々を撮影したスナップショットの集大成。関連して、阿賀野で旗野秀人さんが主宰する冥土のみやげ企画(冥土連はその全国連合)から出版された本、里村洋子さんの『丹藤商店ものがたり』を再読した。阿賀町鹿瀬の地域史・家族史をテーマにした味わい深いノンフィクション。どちらの本からも、日々の積み重ねとしての歴史のずっしりとした重みを感じる。この夏、新潟をはじめ東北の各地で大雨が続き、各地で被害も出た。以前新潟のBooks f3で出会った旗野さん、里村さんの消息が気になった。

8月某日 高校生の娘(ま)と東京・下北沢の本屋B&Bを訪ねた。前田エマさんの初小説集『動物になる日』(ちいさいミシマ社)刊行記念フェアがよかった。窓ガラスに描かれた大杉祥子さんの絵がすごい。前田エマさんの写真日記も楽しく、見入ってしまった。帰宅して「動物になる日」を読み返す。最近、(ま)は韓国の小説家チョン・セランの長編『地球でハナだけ』(すんみ訳、亜紀書房)を読んでいて、「けっこうおもしろいよ」と言っていた。

8月某日 東京駅から東北新幹線「はやぶさ」に乗車、盛岡駅からJR田沢湖線に乗り換えて岩手・雫石の牧場へ。岩手山を見たかったが、この日は残念ながら雲に隠れていた。「雫」の文字通り、雫石は雨の多い土地らしく、水と緑が豊かだった。

取材行の道中で、イリナ・グリゴレさんの『優しい地獄』(亜紀書房)を読む。これは理屈抜きに好きな本。ルーマニア生まれ、青森・弘前在住の人類学者が日本語で書いたエッセイ集。離れることでからだに残してきた思い出を注視する、独特のまなざしに心が震えた。ルーマニアでの出来事など見聞きも体験もしたことがないのに、この本に綴られていることばの風景にはどこか身に覚えがあるような。通常の理解や共感とは違うチャンネルを通じて、「人間とは何か」という問いを分かち合う不思議な感覚。人類学とアートが交差する知の十字路から生まれた本当にすばらしい作品。「生き物としての本」や「山菜の苦味」など、木や植物の話がいいなと思った。

「自伝」と言ってもいいかもしれないが、やはり著者がそう呼ぶように「オートエスノグラフィー」と言うのが正しいのだろう。私が私の物語を語るのが通常の自伝だとしたら、私が他者としての私を観察して記述するのがオートエスノグラフィーで『優しい地獄』にぴったりだと感じる。個人史という記憶の場所をフィールドにしながら、自己同一化ではなく自己疎遠化をうながすさまざまな出会いについて、移住や病気の経験も含めて、私が私ならざるものへ移行し、変身することについて省察している。オートエスノグラフィーの「オート」は「自己の」「自動的」だけでなく自動車のオートとも意味的な関連性があり、定住ではなく移動の経験を記述するモードとも言える。そういう予感もあったから、この本はぜひとも旅をしながら読みたいと思ったのだった。イリナ・グリゴレさんというエスノグラフィー=民族誌の新しい地平を切り開く同時代の作家と出会えた幸福をかみしめながら帰路に着いた。

8月某日 屋久島で暮らした詩人・山尾三省の命日。コロナ禍の中で行くことができない島を思いながら、山下大明さんの写真集『月の森 屋久島の光について』(野草社)を1日かけてじっくり読み込んだ。暗く暖かい島の照葉樹林のなかで、かすかに輝くものたちを追いかける写真家の視線に自分自身のまなざしを重ねる。ある意味で現実の旅を凌駕する体験だった。

8月某日 東京ドームにて、韓国のSMエンターテインメントが主宰する「SMTOWN LIVE」にはじめて参加。新型コロナウイルス禍があり、3年ぶりの開催。錚々たるK-POPアーティスト、若手からレジェンドまで16組54人が勢ぞろいするのを目の当たりにして興奮したが、なかでもデビューから17年、兄貴分的なSUPER JUNIOR のパフォーマンスは驚異的で、もはや《人類の祭り》と呼びたいレベル。たったの3曲ほどで、5万人もの群衆の心を異次元へさらっていった……。ライブのセットリストを振り返りながら、感想を書こうとしたけどキリがない。熱狂と陶酔の記憶は大切に胸にしまっておこう。4時間立ちっぱなしで腕を振り続けて、中年のからだは悲鳴を上げている。