仙台ネイティブのつぶやき(74 )ついに上陸、そして…

西大立目祥子

7月最後の月曜日、母がいつものように3泊のお泊まり付きデイサービスから帰ってきた。車から降りると、スタッフが「すみません、ちょっと手にケガしちゃって…でも、どこで切ったのかわからないんです。絆創膏貼ってもはがしてしまうし…」という。母はもうじぶんのいる場所がわからないほどの重い認知症で本人にもケガの記憶はないし、スタッフも何人もの年寄りを看ているのだからケガの現場を見逃すことはあるだろう。あ、はいはい、とそう気にも留めずに送迎バスを見送った。

甲側の親指の付け根に5ミリ強ほどの切り傷ができていて、きちんと消毒ができていないのか、まわりがうっすら赤くなっているのがちょっと気になった。帰ってきたら、まずトイレ、手洗い、うがい、そしてお茶とお菓子なのだけれど、この日は手洗いのあと傷を消毒し絆創膏を貼った。傷を痛がるふうはない。お茶を飲む間にテレビをつけニュースを聞きながら、前日までにつくっておいたおかずをタッパーから取り分け温め小皿に盛って、1品か2品ずつ出して夕飯にする。94歳は、食事を出す私がもうだれかもわからないというのに、巧みに箸を使ってつぎつぎと小皿を空にする。その食欲にあっぱれと半ばあきれながら、老親の介護を経験した友人たちが口々に食が細って食べてくれなくて困ったというのを反芻して、たいらげてくれるんだからありがたいとも思う。まだ大丈夫、この人の中には生きる意欲ってものがある。意欲はからだから沸き起こるものなのだ。今日食べれば、明日は生きられる。食事のあとはお煎茶を入れ直して食休み。8時をまわったところで、薬を2粒飲ませて歯磨き、洗面、トイレ、着替え、軽い体操。さ、お休み。食器を洗い、デイから持ち帰った汚れ物を洗濯機に放り込むと9時。ようやく私の時間がやってくる。

翌日もいつもどおりだった。月末なので、ケアマネさんが8月の予定表を持ってきた。母のお昼のお弁当が届き、昼食の面倒をみて散歩をしてくれるヘルパーさんがやってきて、私はその間に昼食をすませる。そのあと、入れ替わるように従姉妹が遊びにきた。母の姉の娘である私より4歳年上の従姉妹は、亡くなった母親の面影を母の中に見つけるからなのか、相手をするのが楽しいとここ数ヶ月、毎週楽しそうに訪ねてくれるようになった。2時間ぐらい話をしながらお茶を飲んでいく。

日差しがきつくなってきた2時半ごろだったろうか。母の腕に触った従姉妹が「ちょっと熱くない?」といぶかしそうにいう。え? ぎくりとしながら熱を測ると37度6分だった。いやいやいや。コロナではないと思う。母は昨年、2回発熱騒ぎをやった。幸い軽症の風邪だったものの、病院に連れていくことの大変さが身にしみた。車に乗せるのも、下ろすのも、靴からスリッパに履き替えさせるのも一苦労。ましてや唾液を集めるPCR検査なんて不可能。認知症の年寄りにとっては、このウィルスに立ち向かうためのひとつひとつが立ちはだかる壁になる。熱はこの傷のせいに違いない。そうとしか思えない。
この日はもう一人ヘルパーさんがきた。なんか熱があるんだ…。ケガのせいだと思う。傷を見たヘルパーさんは、「これは外科にいって消毒した方がいい」ときっぱりという。わかった。私はその人を拝み倒して、病院に同行してもらった。

「発熱」といっただけで別室に通され抗原検査になった。いやがる母の頭をぐいと抑えて綿棒が鼻に差し込まれる検査をしのぎ、キットの反応を待った。1分かそこらで結果は出た。「陽性です」。え? 驚きよりとまどいの方が先にきた。あっけない。ウィルスはこんなふうに静かに、たやすく、気づかないうちに上陸してくるのか。もし感染がありえるとしたら、私から母へだと思っていたのに逆ルートでやってくるとは。明日からどうすればいいんだろ?

デイサービスに電話して感染ルートが判明した。3日前に母と接触していた職員の陽性が今日になってわかったという。結論からいうと、この日、母に接触した5人のうち、私と従姉妹とお昼のヘルパーさんが感染した。座っていた距離は1メートルくらい。マスクを2重にして、トイレの介助では手袋を付け、帰宅時には靴下まで履き替えていた介護のプロもだめだった。3人とも発熱は接触してきっちり3日目だった。

外界と遮断された母と私の時間が始まった。すぐ近くにいる弟の家族が食料品は届けてくれることになったから、都会の一人暮らしにくらべたら格段に遮断度は低いのかもしれない。それでも、光の差し込まない洞窟の中に2人で立てこもっているようで、感染者でありながら看護と介護を引受けざるを得ない私は、洞窟の奥へ奥へと日増しに追い詰められていくようだった。

幸い私自身は高熱も出ず、ときどきひどい咳が出る程度だったけれど、母の容体は安定しなかった。36度台になると気分がいいのかベッドからふらふら起きてきて庭を眺めていたりするので、これはこのまま回復かと思いきや、夜中に39度まで上がり汗をかいて眠り続けている。このまま寝かせていていいのか、年齢を考えたら救急車をよぶべきではないのかと迷いに迷い、その迷いで不安がさらに募る。もう十分に生きたんだからいつ死んだっていいのだ、と覚悟は決めていても、目の前で苦しそうにしているのをみればうろたえる。母の寝室をのぞくのが恐かった。でも1時間に一回ぐらいはようすをみなければならない。まるで暗くてよく見えない洞窟の奥に、一人小さなろうそくを灯して入り込んで行くよう。

母の療養の大きなつまづきは、最初に抗原検査をした外科が母の陽性を保健所に届けてくれなかったことだ。思うに煩雑な事務をまぬがれたいというのが病院の理由なのだろう。結局、陽性者にカウントされず、保健所のフォローアップも受けられず、3日遅れで私が陽性になったことで保健所につながり、ようやく事態が動き出したときは発熱から1週間以上がたっていた。検査結果をもとに医師が確定診断を行い、保健所に届けてようやく保健所がフォローを開始できるというのを、当事者になって初めて知った。

療養期間が終わるのは発症から11日目。その前3日間に無症状であることを確認のうえで。保健所の連絡を頼りに、早く早く日が過ぎてその日がきて欲しいと思いながらも、気管支の奥をざらざら鳴らすような母の咳を聞いていると、これは無理だろうと感じる。そのうえ、認知症の症状が一気に進んだのではないかと不安にかられる。箸を使って食事ができない。スプーンを使うのもやっとやっと。食事に介助が必要になった。うがいもできなくなり、うがいをさせると飲み込んでしまう。私自身も食欲ががくんと落ち、ときどきからだを折り曲げなければならないような激しい咳が出た。

だるくなかったの?といまになって友だちに聞かれるのだけれど、不思議なことに人は動きまわっているときはだるさを感じる余裕はないのだ。静かにじぶんを取り戻せるひとときを得たときに、ああだるいと実感がくる。重たいからだで介護をする私が洞窟の中で何とか平常心を保てたのは、猫のちびすけがいたからだ。「にゃーお!(おはよう、窓開けろ)」と鳴き、「みゃーお!(ごはんくれ)と叫び、「ふにぁ(なでろ)」とすり寄ってくる。不思議なことに、夏バテで食欲が失せていたちびすけは私の発熱の日から元気を盛り返した。静かに規則正しい呼吸を繰り返す生きものの何という安定感。背中をなでながら、いっしょに夏の光に燃え盛る庭の緑を眺めていると、勢いを増す草の生命力に満たされていくような気がする。大丈夫、きっとここから出られるよ。

保健所から借りたパルスオキシメーターの数値が91まで下がり、再び熱が38度近くまで上がって、私は救急車をよんだ。数値は人を迷わせないのだ。「火事ですか、病気ですか?」
「コロナです」そんなやりとりをして5分もしないうちに救急車は到着したのだが、なんと母はベッドに座って救急隊を待ち、よろよろしながらも歩いて救急車に乗り込んだ。しかし、なかなか搬送先が決まらず、救急車が動き出すまで1時間を要した。結局、症状が軽いので日帰りといわれ、4時間後に私が迎えにいったのだが。そして、日帰りの翌日、年齢を考えるとハイリスクと、保健所が入院の勧告の要請を出してくれて、母は宮城県南、仙台から70キロも南の病院に搬送されていった。力が抜けた。緊張がとけて、陽性の診断が出てからようやく7日目に初めてぐっすりと眠った。

暑い中、防護服を着込みマスクとゴムの手袋に身を固め酸素ボンベを担いできてくれた救急隊も、車椅子に母を乗せて高速を飛ばしてくれたおにいさんも、何度も電話をくれた保健所の職員も、入院先の看護師さんも、みんな静かで明るく落ち着いていた。この修羅場のような数日を経験して以来、私の耳は救急車の音をよく拾うようになった。この稿を書いている間にも、サイレンが聞こえる。ほら、また聞こえる。別の救急車だ。台所に立っていても、耳は遠くからかすかに聞こえる音を捉えている。空耳じゃない。車で出れば、必ず一回は救急車の出動と行き交い、車を路肩に寄せることが何度も続いた。

結局私は母の住まいに18日間とどまることになった。誰かと話したかった。電話じゃだめ。家族だけでもだめ。目を見て、繰り出される話に話を返して、どうでもいい話をしたかった。
咳を残しながらも母がデイサービスに復帰したのはお盆の入りのころ。私も先週まで咳をすると胸骨のまわりが骨折でもしているのかと感じるほど激しく痛んだ。

なんという夏だったんだろう。一部始終を振り返りながら書いているけれど、いまだにうまくコロナの日々をとらえられない。もう少したてば、誰にも会えなかった空白の時間が説明できるようになるだろうか。

雨が降っては高温という天気が続いたこの夏、久しぶりに庭に出ると家の裏のミョウガがかつてないほどに丸々と大きく育っていた。