夏休みの読書

若松恵子

台風8号の接近から始まったお盆休み。雨が降りそうな涼しい日が続いた。夏らしい天気が去ってしまったような日々に、ファン・ジョンウンの『年年歳歳』と『ディディの傘』の2冊を読みながら過ごした。作品のなかにも雨が降っていて、その風景と重なっている私の夏休みだった。

ファン・ジョンウンの小説世界に身を沈めていると、なつかしさも含めて心がしんとする。『ディディの傘』には2つの中編が収められていて、2つめの「何も言う必要がない」には、「生きることは、話すことです。…生きることは…私たちより前に存在していた文章から生の形を受け取ることです」というロラン・バルトの引用が通奏低音のように流れている。この小説もまた、読む者に様々な「生の形」を手渡してくれる。ファン・ジョンウンが掬い上げなければ、見過ごされてしまうようなこと、忘れられてしまうようなささやかなことだ。

巻末で訳者の斎藤真理子さんが解説しているが、「親世代の経験も含めて二世代、六、七十年ほどのできごとが縦横無尽に語られるが、小説の中を実際に流れる時間は、朴槿恵前大統領への弾劾が成立した2017年3月10日の正午過ぎから午後1時39分までの1時間ほどに過ぎない」。しかし、主人公に流れ込んでいる時間は重層的で、読む者は長い旅をしたような気持になる。

「今日はどのように記憶されるか」この印象的な文章も繰り返し登場する。生きた今日1日をどう記憶するかということは、ファン・ジョンウンにとっては、今日1日をどんな物語として残すかということだ。日本の読者向けの「あとがき」で、彼女は書いている。

「光化門広場で行われたキャンドル集会は毎回、1人の人間が生きている間に2度と経験できないほどの事件でした。私は毎回、驚異とともにこの広場にいましたが、その広場でときどき、女性や少数者を嫌悪し排除する言葉を見聞きしました。キャンドル集会を「革命」だという人たちは多く、各種の不正に関わった大統領が罷免されれば革命が成功するだろうと語る人も大勢いました。私もキャンドル集会の成功を願い、当時の大統領の罷免を願い、国民の保護義務を擲っていた彼の1日も早い拘束を望みましたが、それが「革命」だという考え方にはたやすく同意できませんでした。広場にあれほど多くの人たちが集まり、大統領が罷免されても、韓国社会で少数者として生きる人々の日常が変わることはなかったからです。2017年3月10日、大統領弾劾裁判の宣告の日に私は家におり、さまざまな少数者性を備えた人たちが私の家に集まっていました。みんな一緒に裁判結果を見て歓呼しましたが、その瞬間が過ぎると、私には物語が必要でした。革命が完成されたとみんなが歓呼している瞬間に、ここにも広場があり、いまだ到来しない未来を待つ人々がここにいるという物語を書きたかったのです。」

ファン・ジョンウンは鋭い目で社会を見ているが、告発するのではなく、物語をつくって差し出すひとなのだ。なぜ彼女の物語に惹かれるのか、その理由はこのあたりから来ているのかもしれないと思った。

解説のなかで斎藤氏は2018年に来日した際にファン・ジョンウンが語ったこととして、「私にとっての革命基本は、雨が降ってきて傘をさしたときに、隣の人は傘を持っているだろうかと気にかけること」という言葉を紹介している。この彼女の「やさしさ」は、彼女の感受性のやわらかさから来ているものなのではないかと思う。平気で人を踏みにじるような鈍感な人にはならなかったということ。なれなかったとも言えるのだが。そのやさしさ(感受性のやわらかさ)によって、無名の人の人生が見つめられる。身近にありながら、ほとんどの人が立ち止まらなかった普通の人生が物語としてファン・ジョンウンによって掬い上げられる。あたたかな眼差しとともに。心に残る場面とともに描かれるその物語を読んで、実際に会うことのないその人生を受け取りたいと私は思う。

本屋に出かけるたびに、ファン・ジョンウンの作品があるか書棚を眺めている。『年年歳歳』以外はおいていない本屋がほとんどだが、今日、珍しく『続けてみます』(晶文社/2020年12月)を発見して買って帰ってきた。

父母の恋愛時代の話を聞く娘。百年に1度あるかないかの大きな台風がやってきた日に、風の中を話しながら歩いたという思い出を語る母。2人は裾ひとつ乱さず、目の前で倒れた街路樹をまたいで、傘をさして歩き続けた(この思い出話サイコーだな)のだが、その時どんな話をしたの?という娘の質問に母はどんなことを話していたかひとつも想い出せないと答える。そんなにたくさん話をしておきながら、何も思い出せないのかと尋ねると、「あんまり大切に、あんまり真剣に聞いたせいで記憶に残らずに身になったんだよ。身?聞いたというより食べたんだね。記憶にも残らないほど、きれいに残さず食べて飲んで一体になったんだ。」と母は答える。物語は始まったところだけれど、ファン・ジョンウン最高だ。