水牛的読書日記 2023年1月

アサノタカオ

1月某日 深夜、宮内勝典さんの『ぼくは始祖鳥になりたい』(上下、集英社)をひもとく。年末年始の静かな時間のなかで、この小説の一字一句を心身に刻みこむようにして読むことで、自分が自分であるための輪郭線のようなものが浮き彫りにされるのを確かめるのだ。今月、文化人類学者の今福龍太先生の解説を付して集英社文庫で再刊されるらしい。うれしいニュース。

1月某日 昨年から積み残した仕事やら何やらが膨大にあり、正月気分を味わうことはない。仕事関係の本の山に囲まれながら、粛々と原稿を読み、校正刷を読む。1月22日の旧正月まで「新年」を延期することにしようか。困ったことだ。

1月某日 終日、オープンしたばかりの神奈川県立図書館の新棟にこもり、仕事のための資料調査。

昨年から、編集者で在野の朝鮮民衆文化史研究者でもあった久保覚(1937-98年)の著作を探して読んでいる。『収集の弁証法』『未完の可能性』(久保覚遺稿集・追悼集刊行委員会)、共著の『仮面劇とマダン劇』(梁民基と、晶文社)や『旅芸人の世界』(朝日文庫)。昨年読んだ『古書発見 女たちの本を追って』(青木書店)の読書をきかっけに興味をもちはじめたのだが、久保が晩年、企画と編集に協力した本『こどもに贈る本』(第1・2集、みすず書房)や『女たちの言葉』(青木書店)もとてもよい本だった。同時代に交流のあった編集者の松本昌次、詩人の高良留美子、津野海太郎さんや四方田犬彦さんの著作にも目を通し、久保をめぐる証言を拾い読みする。

1月某日 関西からやって来たライターの枡郷春美さんと江ノ島を散策。すこし風があるけれど、晴れていて気持ちがいい。海の向こうに、冬の富士山。みんなで江島神社でお参りをしてお団子を食べておしゃべりをしたあと、『イルカと錨』5号をいただいた。枡郷さんが、アメリカへ移民した曾祖父について書いた「移民日記 時のこえ」が掲載されている。

1月某日 今月からホメロス『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読む会に参加。古代ギリシャの戦場で神々や人間が延々と争うのだが、かれらが争わなければならない根本的な理由は判然としない。正体不明ながらも圧倒的な力によって人間は次から次へと斃されていくのだが、死の描写が異常なまでに生々しい。この残酷なリアリズムが強烈な印象を残す。

1月某日 大学で学期最後の授業。学生たちがチームで制作したZineを受け取る。テーマはアニメ、スイーツ、小説、音楽、ごはん。5つのチームがそれぞれ企画や編集、エディトリアル・デザインの解説をする発表を聞いて講評し、授業は終了。かれらは座学の時間はだるそうにしていても、実習にはわりと熱心に取り組む。デザインやゲームに関心のあるという学生と少し話して、大学図書館で仕事用の資料調査をして帰宅。

1月某日 東京・西荻窪の忘日舎で店主の伊藤幸太さんとともに自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」の番外編を開催。テーマは「2022年の詩とことばを振り返って」。『現代詩手帖』2022年12月号「アンケート 今年度の収穫」で取り上げた5冊の本を紹介(5冊の本のタイトルは先月の日記に記した)。それに加えて、「アンケート」で取り上げることのできなかった文月悠光さんの詩集『パラレルワールドのようなもの』(思潮社)、あする恵子さん『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)も。今回もまた、参加者のみなさんと本についてゆっくり語り合うよい時間だった。

1月某日 「旧正月」を迎える。ところが「新年快楽」とはいかず仕事やら何やらは依然として積み残されたまま。仕事のために読まなければならない本の山もどんどん高くなっていって途方に暮れる。読むことは、山上に岩を運んで転がり落ちる岩を山上にふたたび運ぶシジフォスの労働みたいなものだ。

1月某日 夜、韓国の作家ぺ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を読み始める。タイトルもすばらしいし、喪失の気配の中で書物が言葉以前の何かを喚起する様子を描く冒頭のシーンもすばらしい。「ああ、これは好きな小説だ」と出会いの感動をひとり嚙み締めながら、物語に引き込まれていく。