三つの川が流れる土地に
天使が住む町がある
ペルナンブコ州でそう聞かされて育った
Anjoとはポルトガル語で天使
神と人をむすぶ御つかい
だが特にユダヤ=キリスト教を信じる者ではないので
どうもぴんとこなかった
空がまるごと神だと考えるなら
少しわかりやすくなる
空が大きな目としてきみを見ている
きみをすみずみまで見ている
地は人間世界
天と地をむすぶのは鳥だ
鳥は一羽でも百羽でも
どんな種類でも
そのまま天使なのだと考えればどうだろう
鳥の身振りを真似たわけでもないが
やがてぼく自身
空をくぐりぬけて
この土地にやってきた
三河安城
Chegou aquí na terra dos anjos!
快晴だ
青空にときどき閃光が見える
その名残がいつまでも心にとどまる
たくさんの羽が舞い
たくさんの目が刺す
あれが天使?
だがそれらをいざ目撃しても
光としてしか感知されないのだ
人間の感覚は一定のスケールにあるので
ある閾を超えるとすべては光
鳥たちはどう見ているのかな
この世の光をどう思っているのか
鳥と人には共通の信仰がありうるのか
少なくとも季節をわれわれは共有する
鳥たちの大きな秘密はかれらが
多にして一
一にして多であることだと
むかし鳥の言葉を研究していた
言語学者が話していた
鳥にはどうも群れであること
少なくとも複数であることに
本質的な意味があるように思える
ダンテの『神曲』で空(天国)にゆくと
多くの霊が集まってまるで
一羽の大きな鷲のように見えた
というところがあった
それはぼくには啓示だった
われわれは自分がそう感じたものを
ひとつのおなじものとして受けとめる
たとえばからすに出会いつづけるとき
それらからすのすべてをおなじからすとして
見ているのではないか
考えているのではないか
「おなじもの」との出会いが反復されるのだ
鳩だって
カルガモだって
翡翠だって
おなじことだ
見分けることのできない個体を超えて
その種をおなじ一羽の鳥として
受けとめている
このことに気づいたとき
どうにもさびしい気持ちになった
それは説明しても仕方がないことだ
種と個体はそのような関係にある
ある年のある季節の可憐な小鳥が
翌年また帰ってきたと思っても
その確証がもてなくなった
でもね、ジョウビタキのジョビちゃんが
その体長わずか15センチの体で
バイカル湖あたりから房総半島まで
冬ごとに飛んで来ては
彼が弾くチェロに留まるのを
みごとにフィルムにおさめた美術家がいる
それは心霊写真のように稀で
科学映画のように具体的だ
ジョビちゃんは島にやってきた
ぼくも島にやってきた
空をくぐり抜けて
わたった
われわれは誰もが
命という島にやってくるのかもしれない
こうして椅子にすわって
明るい窓に身をさらしていると
いやでもこの命への滞在時間を考えるようになる
ジョビちゃんがシベリアに帰ってゆくように
時がくれば
ぼくもまたどこかへ帰っていくのだろう
ただそのどこをどことも知らないだけ
そんなことを考えていると
頭がぼうっと痺れたようになる
ところでソクラテスのあの異様な病を知っていますか
あの話はおもしろかったな
「アリストデモスを連れて来たソクラテスは
たいへん遅れて到着します。途中で彼は、発作
とも呼べる状態に陥ったからです。ソクラテスの発作は、
街角でぴたりと立ち止まり、そのまま一本の足で
立ち尽くしているというものでした。この夜彼は、
何の用もない隣家で立ち止まってしまいました。
彼は玄関の傘立てとコート掛けの間に突っ立ってしまい、
もはや彼を目覚めさせる術はなかったのです」
(ジャック・ラカン『転移』小出・鈴木・菅原訳、岩波書店より)
誰にもFreeze!と声をかけられたわけでもないのに
凍てついたように動作を止め
思考の発作に潜ってゆく
自分の脳内へ
さすがにギリシャは鷹揚だ、それで
許されるのであれば
だがぼくにもそんな発作はしばしば起きるのだ
とりわけ図書館と牛小屋では
書物の森に迷いつつ
何かが呼びかけてくるともう動けない
片足を上げたまま歩けなくなる
そこでただ
考えているか読んでいる
そもそもずっと混迷している
心はもうそこにはない
猟犬なら片足をあげて
薮の中にいる雉子に注意を集中するところだが
ぼくの注意はむしろ拡散し
図書館の空間そのものまで拡がっている
発作だ
魂は鳥のように飛んでいる
錯視もはじまる
錯視とは客観的なもので
ひとりにそう見えて他の者にはそう見えないのでは意味がない
それは宮沢賢治が自問したことでもあった
ぼくがいう錯視はたとえばブルトンが『ナジャ』で
アラゴンから聞いた話として語っているようなもので
パリの街角にある
MAISON ROUGE (赤い家)という看板の文字が
ある角度から見るとMAISONが消え
POLICE(警察)に見えるというようなこと
このような錯視が共有されたとき
暴動が起きることがある
錯視のほうに
真実が宿ることもある
「きみにはわからないよ
彼女は心臓なき花の
心臓のようなんだ」とは
誰のせりふだったか
しかしもっとも悲痛なのはナジャ自身の
ひとりごとをめぐる言い訳だった
「だからね、私はひとりでいるときは
こうしてひとりごとをいうのよ
あらゆる物語を
自分にむかって語る
むなしい作り話ばかりじゃない
私は全面的にこんなふうにして
生きているともいえる」
そして至高のひとこと
「火と水がおなじものだということは本当」
そのように世界が見えたらどうしよう
そのように錯視が共有されたらどうしよう
そのように人々がふるまいだしたらどうしよう
いや、じつはそれが真実なのに
まだわれわれが気づいていないだけではないのか
地表にいてわれわれが
紫色の光の中を泳ぐいるかの群れだとしたら
都市の地下街は水のみちた川で
ヌートリアが巣をつくり
地上にはシギその他の鳥が住んでいるとしたら
陽気な話だ
そんな都会なら住んでみたい
と思ったとき足の縛りが解けて
また歩けるようになったので
歩いた
もっとも自然なtransition
目が覚めて心が覚めて
いろいろなことを考えられるようになった
目下の関心は山の暮らし
前世紀に奥三河の花祭りを見に行ったことがあったが
夜中にどうしても起きていられなくて
眠ったら最後めざめると
すべてが終わった朝だった
“Manhnã, tão bonita, manhã” という
カルナヴァルのあとのやさしい歌声が聞こえた
それもいい眠りは大切だ
起きているときだけこの世に参加して
眠りの国ではカワウソやカワセミと遊ぶ
そんな生活の自由を
取り戻してゆきたいと思う
強いられた眠りではなく
選んだ眠り
強いられた生活ではなく
選んだ生活
「図書館で本を選ぶこと」
がそのまま提喩になるように
ナジャ、そのためにぼくは戦って
きみのひとりごとを
誰にもじゃまさせない
錯視の革命
アンフォーレ安城市図書情報館、2022年12月28日、快晴