水牛的読書日記 2023年2月

アサノタカオ

2月某日 先月から心を奪われている韓国の作家ペ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を朝と夜に少しずつ読みつづけている。本当に少しずつ、ゆっくりと。1ページの、1行1句のイメージの世界にしばし立ち止まりながら。過剰に甘いコーヒー、ポルトガル語の盗難届……。物語の中にブラジル的記号がさりげなく散りばめられているので、「もしや」と思っていたらやはり中盤で〈サンパウロ〉という地名が登場した。小説の中のウルの現在地はよくわからない。でもかつてウルが旅したらしい土地としてこの都市の名があげられている。

そして読書は2周目に入った。冒頭からふたたび読み始めたところで、「あ、黒いツバメ」と1周目では素通りしてしまったちいさなものたちに再会し、心が揺れる。「言葉以前」の世界をあまねく流動する何かの消息を追いかけるエクリチュールの道をたどるうちにある迷宮に入り込んでしまうような、いつまでも読み終わらない不思議な小説。円環の本。

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』のもう一人(?)の主人公は「時間」ではないか。「ここ」と「あそこ」、遠さを隔ててひとしく実在する「いま」というやつが目撃した光景を、ぼくらはみているのではないか。読んでいると、ふとそんな気がしてきた。

訳者の斎藤真理子さんが解説で「時間」のことを書かれていて、深くうなずいた。ちなみに、この解説で紹介されているぺ・スアの小説はぜんぶ読んでみたい。『日曜日、スキヤキ食堂』(タイトルにもある日本食専門店「スキヤキ食堂」は実際には登場しないという)、『フクロウの「居らなさ」』(「現実と記憶、幻想が交錯し、テキスト自身が主人公」とのこと、どういうことだろう?)、『知られざる夜と一日』(「シャーマニスティックな深み」に引き込まれる……)。すべてのあらすじが謎めいていて興味を惹かれる。

近年、斎藤真理子さんらが精力的に紹介している韓国文学は、朝鮮半島の歴史を背景に国家や権力、勝者の歴史に抗うものたちの苦闘を描く「物語」の力によって、ぼくら日本語読者をふるいたたせてきた。けれども時として「物語」の力というものは、特定の立場から出来事を一方的に解釈し、意味付け、そこに紋切り型の叙情的感傷をまぜこむことで、対話を拒絶する共感の共同体という「閉域」をかたちづくる暴力にも変わる。ペ・スアはきっとそのことに敏感だ。解釈と意味と感傷から逃れるものたちの叙事にこそ、文学の真実をみいだしているのではないか。この点は、同じく韓国の作家ハン・ガンのすばらしい小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳)にも感じる。こちらは今月、河出文庫の一冊として刊行された。

2月某日 大学院時代の同級生で台湾の文学研究者、朱恵足さんが日本にやってきて数年ぶりに再会した。彼女のお姉さん、学生のMくんとともに鎌倉の街をゆっくり散策する。おもだった寺社仏閣を見学したあと、神奈川県立美術館鎌倉別館で開催された「美しい本 湯川書房の書物と版画」展を鑑賞。お蕎麦を食べておしゃべりをしているときに、游珮芸・周見信の歴史グラフィック・ノベル『台湾の少年』(倉本知明訳、岩波書店)がいいよ、と朱さんからすすめられた。全4巻、読んでみよう。

2月某日 資料調査のため神奈川・藤沢に滞在する朱恵足さんとは別の日にも会い、ファミリーレストランでお互いの子育ての話から、歴史と虚構の問題まで語り合った。朱さんが最近、リサーチしているという「霧社事件」(日本統治時代の台湾で起こったセデック族による抗日叛乱事件)について大変興味深い話を聞く。詳しくは書けないが、朱さんが熱弁をふるっていたのは、台湾への旅を舞台にして「霧社事件」にも言及する津島佑子の長編小説『あまりに野蛮な』(講談社文芸文庫)がいかにすごいか、ということ。この作家が文学的想像力によって耳をすませる歴史の真実の声に、彼女もまた引き寄せられている。多くの研究者やジャーナリストは、この声を聞き逃しているという。

朱さんは沖縄発の批評誌『越境広場』などで、津島佑子や目取真俊の文学をテーマにした評論を日本語で発表している。そろそろ彼女と本づくりなどいっしょに仕事をできるといいな。台湾のお土産のからすみをもらい、ぼくからは金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)をプレゼントした。

2月某日 唐作桂子さんの詩集『出会う日』(左右社)を読む。巻頭に置かれた「ななつの海」という作品がいい。階段の踊り場で方向転換するように、言葉の向きがくるりと変わって一段上がるような瞬間が魅力的。

2月某日 各地からスモールプレスの本が続々と届いてうれしい。鹿児島・屋久島からは『2001-2021——山尾三省没後20年記念誌』『星座——第17回オリオン三星賞』。どちらも、屋久島に暮らした詩人・山尾三省の業績を顕彰する「山尾三省記念会」の発行で、編集は一湊珈琲編集室の高田みかこさん。高田さんからのお誘いで、「記念誌」のほうに「『希望』の種子に風を送る」というエッセイを自分も寄稿した。

東京・下北沢からは編集者・長谷川浩さんの追悼Zine『BON VOYAGE——Bohemian Punks』。沖縄の詩人・高良勉さんからは詩と批評の雑誌『KANA』第29号、特集は「ウクライナ・戦争と平和」。同人の詩人・宮内喜美子さんの詩「ウクライナ人の街」から読み始める。

そして小倉快子さんの『私の愛おしい場所——BOOKS f3の日々』。新潟で小倉さんが営み、2021年に閉店した本屋BOOKS f3。ひとつのお店の歩みを記録する言葉と写真が、一冊の書物として束ねられることで、厚みのある場所の記憶になってゆく(すばらしい編集は佐藤友理さん)。BOOKS f3では、サウダージ・ブックスから刊行した宮脇慎太郎写真集『霧の子供たち』の展示をおこない、ぼくも編集人としてトークイベントに出演した。この場で出会った人たちとのあたたかな縁が、いまもつながっている。自分にとっても愛おしい場所。

2月某日 見田宗介『白いお城と花咲く野原——現代日本の思想の全景』(河出書房新社)が届く。昨年亡くなった社会学者の大家が、80年代に朝日新聞で執筆した論壇時評の集成の復刊。大澤真幸さんが解説。見田宗介、そして彼の〈異名〉である真木悠介の思想のバトンを次の時代の読者に渡していくこと。

2月某日 北海道・小樽の詩人である長屋のり子さん(山尾三省の妹でもある)からのご案内で、鎌倉生涯学習センターで開催された「ウクライナ 子供の絵画展」を鑑賞。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年。戦禍の地の子どもたち、若者たちの見つめる心象風景を自分自身の目に焼き付ける。今月はトルコ南部で大地震が発生し、トルコとシリアでは凄まじい数の人命が犠牲になっている。世界の窮状を前にして非力な自分に何ができるのか、答えのない問いを考え続けている。

2月某日 南浦和のさいたま市文化センターへ。「認知症者・高齢者と介護者とつくる「アートのような、ケアのような 《とつとつダンス》」 2022年度活動報告展示会」に参加した。ダンサーで振付家の砂連尾理さんが、2009年から京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」を舞台に、高齢者や介護者とおこなうダンスワークショップ《とつとつダンス》。この《とつとつ》のパンフレットや書籍(晶文社から刊行)を編集した縁で、声をかけてもらったのだった。すでに10年以上におよぶ砂連尾さんたちの息の長い活動はユニークな進化というか変容をつづけていて、近年はオンラインのダンスワークショップをおこなったり、マレーシアの認知症高齢者と交流したりしている。マレーシアでは認知症高齢者をケアする施設がかなり少なく、認知症はもっぱら薬で治療する病気と認識されているなど、日本とは異なる状況があるらしい。報告展示会には元看護師の臨床哲学者・西川勝さんも大阪から駆けつけ、なつかしい《とつとつ》のメンバーとの再会になった。

2月某日 待望の本たちが届く。一冊は奥田直美さん、奥田順平さん『さみしさは彼方——カライモブックス』(岩波書店)。ぼくも大好きな京都の古本屋カライモブックスを営み、これから水俣へ、石牟礼道子さんの地へ移転するというふたりの随想集。落ち着いて読んで、感想を書きたい。

もう一冊は韓国の作家、ハン・ジョンウォンのエッセイ『詩と散策』(橋本智保訳、書肆侃侃房)。ページをひらくと、エピグラフとしてオクタビオ・パスの詩「ぼくに見えるものと言うことの間に」が置かれていた。ちょうど編集の仕事のためにパスの詩集『東斜面』について調べていたタイミングだったので、この偶然の一致に驚いた。ひとりで詩を読み、ひとりで散策をする著者が本書で紹介するのは、たとえばフェルナンド・ペソア、たとえばウォレス・スティーヴンズ、たとえばライナー・マリア・リルケ……。こうした詩人たちの名が織りなす星座は、自分の心の中の夜空に輝くものでもあり、他人事とは思えない。美しい装丁、ペーペーバックの造本がすばらしい。タイトルにふさわしく、春の上着のポケットに入れてともに散策したい、かろやかな詩の本だ。