しもた屋之噺(253)

杉山洋一

俄かに春めいてきたと思いきや、今日は出し抜けに平野部でも雪の予想がでて、ミラノもみぞれ混じりの雨模様です。今日は町田の母より、ヴェニスの運河は水涸れで大変なんでしょう、と言われておどろきました。ヨーロッパの渇水は深刻で、ロンバルディアでも農業に影響が出ているのは知っていましたが、水の都の話はまったく知りませんでしたから。

2月某日 ミラノ自宅
良い天気が続いているからか、ミラノの空気は酷く汚れているようだ。イタリアで最も大気汚染の進んでいるのがトリノで、ミラノは二番手だと新聞に書かれているが、そのせいか、洟は止まらず目も痒い。花粉症には未だ寒すぎるから、粉塵、ばい塵の類に違いない。
もうすぐ成人する息子宛てに、ミラノ市からイタリア共和国憲法の小冊子が届いた。ここ数日、彼はヤナーチェクのヴァイオリンソナタとシュトックハウゼンのソナチネを譜読みしているが、どんな将来が待っているのだろう。

マッシモ・ヴィヴァルディより、彼の指揮するアルド・フィンツィ作品のヴィデオが送られてくる。フィンツィはイタリア系イギリス人作家、ジェラルド・フィンジの同時代人で同姓、名前も酷似している上に、等しくユダヤ人迫害に巻き込まれているから、すこし紛らわしい。
アルド・フィンツィは1897年ミラノに生まれ1945年トリノに没したイタリア人作曲家で、ムッソリーニ政権下の反ユダヤ人法により演奏が禁止になり、近年まで顧みられることすらなかった。ローマのサンタ・チェチリアで作曲のディプロマを取得し、作曲家として成功をおさめ、1931年、僅か24歳でリコルディ社から出版されるようになった。1937年にスカラ座の新作オペラコンクールに応募し、審査員だったピック=マンジャガルリから優勝を内々に知らされたが、ファシスト政権によって発表は反故にされ、数か月後に施行された反ユダヤ法によって、一切のフィンツィ作品の演奏の権利が剥奪された。しかしフィンツィは匿名、もしくは偽名を使って作曲を続け、1942年にはユダヤ人迫害に立ち向かう主人公を描いたアルトゥーロ・ㇿッサート台本によるオペラ「シャイロック」第1幕を完成させている。1943年、ナチス占領下のトリノで隠れ棲みながらオルガンのための「前奏曲とフーガ」を書くが、ファシストによりフィンツィの息子の居場所がナチス親衛隊に密告され発見されたため、息子の身代わりとなってフィンツィが出頭し、拘束されたが、のちに奇跡的に解放された。自らと家族を救った神への感謝をこめて、1944年から45年初めにフィンツィは合唱とオーケストラのための「詩編Salmo」を作曲し、その直後45年2月7日トリノで死去している。当初、偽名を使い埋葬されたが、戦後ミラノの記念墓地に改葬された。

夥しいイタリア近代音楽の趨向が、みっしりと折重なり、波に打たれるままの人知れぬ入り江。終戦とともにイタリアの近代芸術は、その汀で永遠に封印されてしまった。印象派やフランクの残り香が、厳めしい雰囲気のまにまに漂っていて、その上をネプチューンの如く顕れるイタリアらしい歌謡性が時代を感じさせる。もはや醗酵し尽くし、噎せる薫りに包まれる、無数の不思議な作品たち。例えば、ピッツェッティの後任で長年ミラノ音楽院長を務めたピック=マンジャガッリは、チェコ生まれでミラノに育ち、リヒャルト・シュトラウスの下で研鑽を積んだ。反ユダヤ法の何十年も前にユダヤ教からカトリックに改宗し、音楽院長まで務めて大戦末期にダンヌンツィオに曲をつける程、ファシスト政権とは良好な関係を築きつつ、実はフィンツィを支持していた。妻がユダヤ人なのを隠すために、カセルラは敢えて政権の旗振り役を買って出ていた。どちらも実にイタリアらしい逸話だと思う。フィンツィが作曲したヴァイオリンソナタ3楽章、カセルラを思わせる疾走がふと途切れ、蕩けるような第2主題が現れるとき、切なさや儚さと隣り合わせの、当時の暮らしの風景の一端が見える気がする。

学校で授業の合間にレプブリカ紙を広げると、Covid19がイタリアの若者に与えた精神的トラウマについて書いてある。こんな風に書いてあるが、君たちどう思うかいと学生たちに尋ねると、「その通りだ、兄弟は鬱病を発症して廃人になった、優等生だった以前の姿は消え失せ学校も落第した」とか、「自分自身未だに躁鬱に悩んでいる」など、皆がまるで吐き出すように一斉に話し始めて、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
EUヨーロッパ連合の規約に則り、イタリアの無期限滞在許可証が廃止された。今後は10年毎に更新しなければならず、憂鬱極まりない。

町田の母よりショートケーキの写真が届く。長さ15センチ幅5センチほどの蒲鉾型。全体に純白のホイップクリームで覆われていて、屋根には真赤な苺が3個並ぶ。ケーキの周囲には薄切りの苺が飾られている。「頑張ってつくりました。手首が痛くて途中で撹拌をやめたら、クリームがだらけた。味はいいですよ」。言われてみれば、まるでホイップクリームが滴るように見えなくもない。以前から母は手の腱を痛めている。ケーキの傍らには、小学生の時分から使っている2客の小さなコーヒー茶碗も並んでいて、思わず当時に立ち戻った錯覚を覚えた。写真の周りに自分だけいないのが、不思議である。父のための誕生日ケーキに、落涙。

2月某日 ミラノ自宅
馬齢を重ねつつ作曲作業がより非効率的になっているのを実感し、気が遠くなる。
指揮の譜読みも人より遅く、作曲も埒が明かないようでは、徒に生産性が欠落した人生を送っているに他ならない。

学校の前期ゼメスター試験を前にして、緊張すると持病の多動症が酷くなるから、医師の診断書を提出して試験に臨みたいと弱音を吐いていたAが、立派に落ち着いて試験をやり過ごしたことに感銘を受けた。多動症でも、自分の意志で自らの衝動をここまで律することができるとは知らなかった。
家人が一カ月ほど日本に戻るにあたり、一度、家族で外食したいという。用水路対岸の「夢想家」食堂で昼食に出かけ、魚介ソースをリグリア特産の生パスタ、トロフィエで食べる。

2月某日 ミラノ自宅
垣ケ原さんと電話で話す。武満さんと岩城さんの存在が、垣ケ原さんの音楽の指針だったという。素晴らしいなあと独り言ちてから、自分の指針とはなんだろうと考える。尊敬する音楽家のようでもあるが、音楽の存在そのものかもしれないし、その両方であるかもしれない。

「お話したことがありましたか。ミラノの家の話なのですが、コロナ禍が始まった年の暮れから、リスの家族が庭の樹に巣を作って家族で住んでいます。この樹は高さが10メートルくらいあって、中腹に大きな洞が開いています。そこを寝床にして棲み付いていて、毎朝胡桃を5個ずつ割ってやります。彼らはそれを大層楽しみにしていて、僕が届けに行くと、決まって洞から出てきて餌場まで降りてきて挨拶をします。こちらが遅くなると、尻尾で窓を叩いて起こしに来たりするんですね。そのリスの家のすぐ隣には、もう5,6年前から黒ツグミのねぐらがあって、リスとも仲が良いらしく、子供どうしで遊んでいます。胡桃は他の鳥にも人気で、実に小さな鳥から、そこそこ立派なカラスまで、毎日さまざまな鳥が啄みにきます。コロナ禍でロックダウン真っ最中には、ずっと独りで暮らしていたので、彼ら庭の小動物たちにどれだけ慰められたかわかりません。
毎日リスを眺めて暮す日々が訪れるとは、夢にも想像していませんでしたが、こうして庭の小動物を眺めていると、自分も彼らに生かされていると思います。昔、家人が野良猫を飼っていました。猫の口蓋には鼻まで繋がる大きな穿が開き、鼻腔は腐っていて、とても可哀想でしたが、それは大層可愛がっていました。或る時、その猫がふらりと外に出たきり行方不明になり、総出で何日も探したものの、結局見つかりませんでした。最後に見かけた時、家の塀の上からこちらを暫くじっと見つめていて、それから暗闇に消えてしまいました。何か言いたそうにしていたあの顔は忘れられません。それから暫くして息子が生まれたので、時として、息子がチビという名の、あの猫の生れ変わりに感じる瞬間があります」。

2月某日 ミラノ自宅
とても耳はよいが不器用なトンマーゾには、音楽の稜線を底から支えるようにして、同時に、風船を膨らませる塩梅で拍間に空間を広げるよう伝える。拍が音楽を作るのではなく、拍と拍の隙間から音楽の内部に身体を滑り込ませ、裡からその隙間にむけて風船を膨らませるようにしながら、そこに音楽の霊感を吹き込むよう伝える。

スカラのアカデミーでバレエの稽古ピアノを弾いているイザベラには、パーソナル・ゾーンに演奏家の音楽が踏み込むのを甘受すべきと提案する。彼女は演奏者と距離を取りがちだったが、演奏者に発音を促してから、その音を自らのパーソナル・ゾーンに持ち帰る意識を理解してほしいと思う。音を連れて帰ってくる際、一緒に演奏者たちも音と一緒にやって来るけれど、それを怖がらず、むしろ温かく、時には面白がりながら受け容れるということ。

しばしばテンポが遅くなるフェデリコには、先ず演奏するフレーズを軽く口ずさんでもらい、直後にピアニスト相手に振って誤差や齟齬を自覚してもらう。
彼が自分で歌えば視覚で楽譜を捉えてそのまま発音出来るのに、ピアニスト相手に指揮する時は、視覚が楽譜を捉えると、その情報を脳に流して裡に鳴る音へ変換してから、指揮棒に意識を流して演奏者に発音させている。その結果、脳のバイパスやフィルターを通過する間に、視覚の知覚した情報と演奏者の発音の間に僅かな誤差が生じる。指揮する場合、視覚で楽譜を読んだら、脳を通さずにそのまま指揮棒を通し、時間のずれなしに情報を正しく演奏者に伝える、と理解させられれば、少しずつ齟齬が減ってゆく。

まだ14歳たらずのフランチェスコには、一度振りながら楽曲構造や和音構造を敢えて言葉で説明させた後、暗譜で振らせてみた。すると鳴っている音が明確に聴こえ、音楽を客体化できるようになる。結果として、そこに彼の音楽性を載せる余裕が生まれる。
指揮に関しては、テクニックを使えば使うほど、より作為的になって音楽が離れてゆく気がする。技術をもって音楽を表現しようとするのは、指揮に於いては余り意味を成さないかもしれない。せいぜい技術程度しか教えられないのに、技術が音楽を邪魔するのであれば、完全な自己矛盾状態にある。

夜、息子と食事をしていると、「お父さんは戦後すぐの生れでしょう」と言われる。何を勘違いしているかと思いかけたが、昭和44年は終戦後24年にあたる。
息子曰く、終戦からお父さんの生まれ年までと、2000年から今年までの時間、1999年EU通貨統合から現在までの時間はほぼ等しい。
「だから、2000年くらいに世界大戦が終わった感覚なのでしょう」。
なるほど確かにそうなのだ。自分が生まれる以前の時間については、主観的に意識したことがなかった。昭和20年から44年までの時間は、単に歴史上の事象を時間軸上に並べ、知識として理解しているに過ぎなかった。
「お父さんは、子供の頃と今とどちらが幸せなの」と聞かれ、「今にして思えば、昔の方が幸せだった気がする」と答える。
周りには自然がたくさん残っていたし、食事ももっと美味しかった気がする。インターネットも携帯電話もなかったが、それなりに暮らすことは出来ていたし、社会も今より余裕があった気がする。
現在より不完全な社会だったかもしれないが、皆が前を向いていて、顔は下を向いていなかった印象がある。当時は冷戦真っ最中で、世界のあちこちで戦争は続いていたし、公害もたくさん起きて、肯定的な面ばかりではなかった。全世界的に見ても、人種差別や男女差別は、今とは比較できぬ程酷かったはずだ。技術が発展する程に、我々の裡の感覚がどこか鈍くなり、鈍くなった箇所は何時しか消失してゆく。

尤も、インターネットの発展がなければ、日本や外国の家族や友人と気軽にやりとりする日常など、実現不可能だった。
子供の頃、近い未来テレビ電話なる文明の利器が発明されて、顔を見て話すのが当たり前になる、なんて話に胸を躍らせつつ想像していた社会と比較すると、既に当時の夢の技術革新を成し遂げた現在の社会は、どこかもっと無機質で、時として味気なくすら感じられることもある。我々が子供の頃、訳も分からず想像していた未来の世界は、より明るくて愉快な世界だった。単に子供心でそう思ったのかも知れないし、実際、予定ではもっと明るく愉快な世界を包み込むはずだったのかもしれない。
当時も夏は暑く冬は寒かった。子供の頃は通勤列車の天井には所在なさげに扇風機が回っていて、思えば、冷房など随分経ってから登場したから、最初は何だか大仰に感じられた。しかし、今や冷房がなければ我慢できない暑さに見舞われるようになった。

そう考えれば、昔と今とどちらが良いかという息子の質問に対しては、本来こう答えるべきだったのかもしれない。即ち「我々が子供の時に想像していた未来に比べ、実際に訪れた未来はずっと暗澹としていて、閉塞的であること」。「昔、家の近所のどぶ川は、悪臭を立てていたけれど、毎週末はややウグイを釣りに行っていた酒匂川の湧き水あたりには、びっしりと野生の山葵が自生していたこと」。「あのどぶ川は、今はきれいに濾過された下水を流しているので、水はきれいで、臭いもなくなったこと。酒匂川は護岸工事されて、あの湧き水も山葵もどこかへ消えてしまったこと」。

2月某日 ミラノ自宅
昨日の朝、庭に降りる三和土の手すりに、体長20センチほどの黒ツグミと、3,4センチ足らずの小鳥が並んで留まっていた。少し頸を傾げるようにして、こちらをじっと眺めているので、まさかと思いながら胡桃を割り始めると、二羽とも瞬く間に餌台の朽ちた木椅子へ飛んでいったのには吃驚した。彼らもリスのように餌が届くのを首を長くして待っていたのだ。
時として、人間より鳥類の方がずっと能力も優れていて、豊かな世界を生きているのではないか、と思ったりもする。彼らなりに大変な暮らしを強いられているに違いないし、その要因の多くは恐らく我々の仕業だ。
トルコ地震の被害者5万人と聞き言葉を失っているが、いつか、全世界的の文明を崩壊させるほどの天災が地球を襲い、人間がほぼ死に絶えてしまったとしても、鳥たちはより鮮やかな世界を翔けているような気もする。

ウクライナ侵攻から一年が過ぎた。息子がサラと録音したダニエレ・ボナチーナの二重奏曲を聴かせてくれる。研ぎ澄まされ、一切無駄のない音、楔のように穿たれる音、一見単純でありつつ、見事に表現として昇華されたヴァイオリンの長音。ダニエレは、パリの高等音楽院の入学試験にこの録音を送るそうだ。

2月某日 ミラノ自宅
眼を閉じたまま、その眼の内側にある別の眼を開く。
例を挙げると、眼を閉じて目の前に数字の投影を試みるとわかりやすい。眼の内側の眼を開いていれば数字は明確に見えるが、内側の眼が閉じていると、全く見えなかったり見辛かったり、或いは気が散って数字を凝視できなかったりする。内側の眼は、視点を水平か心持ち上の方へ向けると開きやすい。
こう書くと怪しげで公言も憚られるが、興味深いのは、その内側の眼が開いていると、脳裏にすっきりとした清涼感があって、整頓された空間すら感じられるのが、眼を閉じていると、脳そのものが閉じている感覚とともに、辺りも昏く感じられ、空間も不明瞭になることだ。

左手指のため、朝目が覚めると布団の中で指回しの体操をしている。外向きに100回ずつ、それからで内向きに100回ずつ各指を回すのだが、その間、眼を閉じて目の前に数字を投影し、頭の中では声を発さぬよう気を付ける。そうして内側の眼だけを開いて、その数字を追ってゆく。誰に教わったわけでもないが何時からか気が付けばもう10年以上続けていて、これが終わる頃には、指も頭も身体も解れて快適である。

階下では、息子がヴィンチェンツォ・バリージのピアノ曲を黙々と練習している。ヴィンチェンツォの故郷、シチリアの民謡を思わせる旋律が、ジャズ・ピアニストでもあるヴィンチェンツォらしい、不思議な旋法で紡がれ、編み上げられてゆく。

庭の樹に巣を作りかけ姿を消していたキツツキが1年ぶりに戻ってきて、また樹を穿く。鳥であっても、自分の作りかけの巣が世界のどこにあるか、しっかり覚えている。

(2月28日ミラノにて)