「私は旅や探検家が嫌いだ」というのは、レヴィ=ストロースが紀行文学の名著『悲しき熱帯』の冒頭に記した一文だ。近代旅行(ツーリズム)の原動力となる異国趣味が、「文明」の外部を侵略し破壊する植民地主義的な暴力の双子でもあることへの苦い認識。1930年代のフランスから南米ブラジルに渡り、先住民の土地で調査をはじめた人類学者による「ポスト・ツーリズム」宣言の後に、旅をしたり、あるいは旅について読んだり書いたりすることにどういう意味があるのか。『悲しき熱帯』を携えてブラジルを旅行して以来、ずっと気になっていた。今年、大学でトラベル・ライティングをテーマにした授業をすることになったので、あらためて考えてみようか……。年末年始にそんなことを思いながら、2025年に読んだ旅の本ベスト8(日本語で書かれたもの)を刊行月順にリストアップした。
1月 管啓次郎、小島敬太『サーミランドの宮沢賢治』(白水社)
4月 イリナ・グリゴレ『みえないもの』(柏書房)
4月 倉本知明『フォルモサ南方奇譚』(春秋社)
4月 古賀及子『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』(幻冬舎)
5月 森まゆみ『野に遺賢をさがして ニッポンとことこ歩き旅』(亜紀書房)
6月 植本一子『ここは安心安全な場所』
8月 鳥羽和久『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)
11月 伊東順子『わたしもナグネだから 韓国と世界のあいだで生きる人びと』(筑摩書房)
『サーミランドの宮沢賢治』は、詩人と音楽家による共著の北極圏紀行。ふたりは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思いながら、歌いながら、先住民サーミ人の土地(サーミランド)を歩く。静かな声で語られる旅の記録を読んでいるだけで、行間から北の寒風を感じる。そして吹く風にはっきりとかたどられるのは、限りあるいのちの理(ことわり)だ。「どんな人生にも南があり北がある」と、詩人の管さんは誰かの発言を受け取って書いていた。なるほど、ぼくの人生にも南はあった。では、北は? ケンジとケイジロウとケイタの詩のことばとともに、北へ旅立つ日は来るだろうか。文に隠された「となかい」を探すのも、この本を読むときの狩人的な楽しみだ。
愛らしい娘たちとの雪国暮らしの情景からはじまるこの本も、どちらかというと北の本だろう。『みえないもの』は、ルーマニア生まれで日本の東北に暮らす人類学者──「水牛」の読者であればみなさんご存知、イリナ・グリゴレさんのエッセイ集。旅することの中に住まうことを実践する日々の中で、著者は野生と人為、光と影、生と死が溶け合うことば以前の薄明を注意深く観察する。野うさぎのようにぴょんぴょん跳ねる飛躍の多い文体が、身体的で感覚的な理解のスピードを精密かつ繊細に伝えていることに驚嘆させられる。表題作「みえないもの」以降の文の流れのすごさ! 人類学と詩の交差する十字路から生み出された、オートエスノグラフィーの最高作の一つではないだろうか。
『フォルモサ南方奇譚』。こちらは正真正銘、南の本。台湾文学の研究者・翻訳者である倉本知明さんが、移り住んだ南台湾を中古スクーターで駆けめぐり、大陸と島、外来者と先住民の文化が絡み合う地の過去の幻影を探る。歴史の中で周縁に追いやられた叛逆者たちの物語を、かれらの魂をいまによみがえらせるシャーマン的語り部のように再話する著者の文章がとりわけ熱い。南米のマジックリアリズム文学を代表する作家、ガルシア=マルケスのジャーナリスト時代の筆致を彷彿させる……。と思っていたら、1908年にブラジルへ最初の日本人移民を運んだ後、台湾と日本を結ぶ定期船となった「笠戸丸」の話が出てきた。忘れられた人類学者の話だった。
エッセイストである古賀及子さんの『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』は、住んだり訪ねたりした土地と記憶を主題にした随筆集。巣鴨、下関、池袋、諏訪、高知、恐山……。海外留学体験を語る一編「ワシントン州タコマから四百キロ、迫る山なみをどうか毎秒見逃さないで」は、まるでジム・ジャームッシュの映画のようなロード・エッセイだ。きまじめだけどひとクセある登場人物たちが延々と無駄話をしているだけのシーンなのに泣けるほどかっこいい、あの感じ。
『野に遺賢をさがして』というタイトルがすばらしい。「野(や)に遺賢(いけん)なし」という中国の故事に由来する言葉があり、賢者は中央に出て地方に残らないことを意味するそう。聞き書きの名手でもある作家の森まゆみさんは、それを「どっこい野に遺賢あり」と読み替え、北海道から九州まで過去と現在の賢者を尋ねる旅に出る。人に会い、話を聞き、ごはんを食べ、野にあそぶ著者の歩きっぷりが実にたのもしい。宮崎の森への旅をめぐる2編のエッセイがとくによかった。土地土地の知られざる遺賢の歴史は、その知恵の灯を守り続ける無私の人々の思いがあってこそいまに伝えられるのだと、この本は教えてくれる。
写真家であり、『かなわない』など日記文学の話題書を世に送り出してきた植本一子さん。『ここは安心安全な場所』は、東北・遠野の山の中、馬と人が暮らす土地への旅をめぐるエッセイ集で、透き通った文章と写真に心が洗われた。馬のかたわらに畏れをもって佇み、地上にひとつの場所を見つけた著者。その真摯なことばをひとつひとつかみしめ、感無量の思いで本の最後のページを閉じる。野の景色の中でひとりの人間が変わりながら生きていくという事実に、ひたすら胸打たれた。
紀行文学の好著『光る夏』の著者である鳥羽和久さんが「小さい頃から地理が好きだった」と書いている文を読んで、飛び上がるほどうれしかった。ぼくもまったく同じだから。今日も、編集の仕事で韓国南部の地名を調べて地図を眺めているうちに半島のリアス式海岸の複雑さに目を奪われ、いつか全羅南道の浦々を実際に歩いてこの地形をからだに刻みたいと夢想していたほどだ。インドネシアのジャワ島からはじまり、バリ、キューバ、スリランカ、世界各地の小さな場所を訪ねる旅のエッセイが連なる。最後に置かれた台湾への旅とあるおばあさんとの出会いをめぐる一編を読み終えた時、読者はタイトルに隠された大きな贈り物を受け取るだろう。
伊東順子さん『わたしもナグネだから』は、吹きさらしの荒野のような世界史の最前線で人生の道を切り開き、歩き続けた韓国に縁のあるナグネ=旅人をめぐる聞き書き集。著者が出会った元NATOの軍医ドクター・チェらの流浪の物語には驚くしかないが、この本を読んで強く印象に残ったのは、旅する主人公を支えるかたわらの人たちの存在だった。そしてそうした人たちの声をも聞こうとする著者の姿勢だった(それは森まゆみさんの仕事にも通じる)。旅をひとりの英雄の物語ではなく、人々の物語として描こうとうするところに、本書の豊かな厚みがあると思う。韓国のチャイナタウンをめぐる章では、知らなかった多くのことを学んだ。植民地主義以降の歴史の、めまいがするほどの複雑さを。その渦中にある人間が負わなければならなかった痛みを、そして痛みとともになお生き続ける人間のたくましさを。