水牛的読書日記2021年9月

アサノタカオ

9月某日 自宅のポストに『現代詩手帖』9月号が届いた。ページを開いて真っ先に目に飛び込んできた文月悠光さんの詩を読む。

 ひとりで死ね!
 巻き込むな!
 無観客の喝采を浴びながら
 私は私の手を強く引いて、
 開会の赤い花火が噴き上がる 
 新国立競技場を目指した。
 ひとりにしない。
 誰も消させない。
 消せるものなら
 「消してみやがれ」

 ——文月悠光「パラレルワールドのようなもの」

新型コロナウイルス禍を背景にした繊細で力強い作品。世界的な感染流行に多くの人びとがつながりを絶たれて苦しむ中で、どうして「東京五輪」が強行されなければならなかったのか。「目の眩んだ者たち」の国家、マスコミ、アスリートを含む五輪マフィアが結託し、この間、金だの銀だの不謹慎に大騒ぎしながら「安心安全」と空言を吐き続けることで、人びとが共有することばの信用を破壊し尽くした。ことばから意味という魂が引き抜かれ、かわりに「無意味」が社会を占拠した。メディアを介して増殖する無意味なメッセージに心身が侵されると、自身の存在すら無意味化されるような虚無感に落ち込んでしまう。
文月さんの詩にはことばをめぐるそのような窮状に抗う批評があり、のみならずぎりぎりの希望がある。「消してみやがれ」の一語に目を瞠った。
読後にこみ上げてきた思いを自己検証すると、詩人と詩のことばに対する深いリスペクトだった。うん、これを大切にしたい。この国のいまに決定的に欠乏しているもののひとつが、詩(うた)だと思う。人びとの詩に対するリスペクトが減少するのに比例して、社会に流通する言語の荒廃度が増加するのではないか。そんな仮説をもっている。敬意を持って広く読まれなくなった詩のことばを、ではどうすればひとりでも多くの読者に届けることができるのか。本を作る編集者として自問自答がつづく。
コロナ禍の状況への詩人からの応答としては『週刊文春WOMAN』2020春号に掲載された文月さんの詩「誰もいない街」も深く内省的で、すばらしい作品だった。

9月某日 引き続き『現代詩手帖』9月号で、詩人の吉増剛造先生と和合亮一さんの対談「「記憶の未来」の先端で」を読む。
《コロナ禍の状況も踏まえつつも、全体的に何か新しいものに心のあり方も変えていかなくてはいけない。それに際して言葉の果たす力は大きい》。和合さんの真摯な発言に居住まいを正す。
「変えていく」と言っても、現代詩がわかりやすさになびくということでは決してない。わからなさ、わりきれなさ、複雑さにおいて現実を捉え直し、新しい「世界」の像を創造することば。何かを外に暴き立てるのではなく、むしろ内に深く折り畳み、隠し込むようなことば。詩人は時代の大声に流されない、消されないための、確かなことばの杖を読む者に渡してくれる。しっかりつかんでおかないと。

9月某日 三重・津のブックハウスひびうたへ、二度目の訪問となる。名古屋駅から近鉄に乗り換えて四日市あたりを過ぎると、車窓の風景が田畑の広がるのどかな感じに変わり、おのずと気持ちがゆるんでくる。
ところでスマートフォンを持たなくなって2か月が経った。出張前、地図と路線情報のアプリを携帯していないことが不安だったが、宿泊先などについては事前に調べておいたし、行けないところには行けないと割り切れば何も問題はない。旅先では野性の勘でなんとかなることもある、という感覚を長いこと忘れていたかもしれない。実際、なんとかなった。
ブックハウスひびうたでは、『のどがかわいた』(岬書店)の著者・大阿久佳乃さんとのトークをおこなった。大阿久さんが詩や文学について語る文章のファンなので、念願叶ってのイベント。いちおう拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)の刊行記念ということで、お互いの著書についての感想や、また好きなアメリカ文学のことを語り合う。
J・D・サリンジャー、カーソン・マッカラーズ、アレン・ギンズバーグ。大阿久さんはいま関心を寄せているアメリカ文学者の作品の特徴を《じたばたして喚(わめ)くもの》と発言。いやなんかそれすごくわかる! と心の中で思わず膝を打った。
ぼくのほうは、尊敬するアメリカ文学の研究者で翻訳家で詩人でもある金関寿夫先生の本をちいさなちゃぶ台の前に並べて話をした。ビートニクスからエスノポエティクス(民族詩学)までの北米の文学運動を受け止め、本格的なアメリカ先住民詩のアンソロジーを編んだ唯一無二の文学者。亡くなる前には、ミシシッピ川とアニミズムの研究を構想していたという。「世界」という、ここではないどこかへとぼく自身の想像力の背中を押し出してくれた原点にいる人なのだ。
イベントに参加してくださったえこさんが、『韓国文学ガイドブック』(黒あんず編、Pヴァイン)をかばんからさっと取り出した。自分もコラムを2編寄稿したのだった。本をあいだにはさんでおしゃべりを。韓国の作家キム・エランの小説集『外は夏』(亜紀書房)の古川綾子さんの翻訳が素晴らしすぎる! と意気投合。こんなふうにして、ローカルの本のある場所で気軽に韓国文学の話をできることに幸せを感じる。

9月某日 ブックハウスひびうたでのイベントを終えて翌朝は、津の中心地にあるニネンノハコへ。近鉄で久居から津新町へ向かい、閑散とした駅前のロータリーをぶらぶらしたり地元スーパーをのぞいたりしながら迎えを待つ。やはりイベントに参加してくださった「副委員鳥」さんの車で現地へ。
ニネンノハコは倉庫以上お店未満、本とZineのある共同のアトリエ。本棚を管理する複数のメンバーで営む。不連続紙面エッセイのZine『ひっそり』を発行し、またハコTシャツ会や「鳥」のいろいろをテーマにした楽しそうな集いも開催している。「副委員鳥」さんから「鳥」という単語を3年分ぐらい聞いた気がする。おもしろかった。隣には「天むす発祥」のお店の千寿があった。ニネンノハコのみなさんの差し入れ、天むすのお弁当を電車の中でおいしくいただく。また訪ねたい。
ハコのZineコーナーには佐藤友理さんと中田幸乃さんが企画・編集をつとめるエッセイ集の冊子『まどをあける』がおいてあった。

9月某日 さらに名古屋に移動し、昼下がりの地下鉄に乗って東山公園駅で降りる。中学から大学まで名古屋に住んでいたのだが、このあたりを歩くのは何年ぶりだろう。
本屋のON READINGへ。店主の黒田義隆さん、黒田杏子さんにひさしぶりに会えてうれしい。お店の前に犬もいた。ギャラリーで開催されている「並行書物展」をみて、香港を拠点にするイラストレーターで漫画家のリトルサンダーやホモ・サピエンスの道具研究会の本などを買う。
レジの前で杏子さんと、台湾文学についておしゃべり。地元の出版社あるむから刊行されている台湾文学セレクションのことを教えてもらう。倉本知明さんが訳した蘇偉貞『沈黙の島』もセレクションの一冊。お店には台湾文学翻訳家の故・天野健太郎さんの句文集『風景と自由』(新泉社)も置いてあった。編集を担当した思い入れのある本。天野さんの俳句の中国語繁体字訳を掲載した付録冊子を制作したのだが、倉本さんにもご協力いただいたのだった。
ついで地下鉄に乗り昔馴染みの今池駅で降りたものの、まるで方向感覚がつかめない。ランドマークの新今池ビルがない。さら地になっている。通い詰めたレコード店のピーカンファッヂがない(雑誌『中くらいの友だち 韓くに手帖』で連載をしていた李銀子さんが営んでいたことを後に知った)。そしてウニタ書店がない。10代の日々を過ごした記憶の場所がまるごと消滅していた。裏路地をさまよっていると名古屋シネマテークのビルにたどり着き、そこにウニタ書店が移転していた。こちらも前職の出版社で編集を担当した、姜信子さんの旅のエッセイ集『はじまれ、ふたたび』(新泉社)が新刊棚に面陳されていた。読者とのよい出会いがありますように、と念を込める。
歩いてちくさ正文館へ。蘇偉貞『沈黙の島』をここで購入し、隣の公園のベンチで読みはじめる。10代の頃はお金もないしコメダ珈琲などに行く習慣もなく、書店をはしごして入手した本をまずこの公園で読んだ、真冬でも。きれいとはいえないどんより淀んだ空気感が相変わらずだ。
配達員用の大きなリュックを足元に下ろして一心不乱にスマートフォンのモニターをのぞきこむ人たち。さまざまな外国語で会話する声が聞こえる。

9月某日 旅の道中で、金壎我さん『在日朝鮮人女性文学論』(作品社)を読了。深く尊敬する大阪猪飼野の詩人・宗秋月を「はじまり」に据える歴史記述は理屈とは違うところで胸に熱く訴えるものがある。李良枝論もよかったが、この本を読んで深沢夏衣の文学により強い関心を持つようになった。彼女の作品集を読んでみよう。
どうでもいいことだが、ひさしぶりの名古屋行きで思い出したことがあった。大学時代に自分は宝石店で仕事をしていた。ただしジュエリーではなく、鉱物関係の方。アルバイトだったが、入社を熱心に勧められた。その道を選んでいたら、今頃どうなっていただろう。その後、仕事を辞めてブラジル留学を経て本作りの道に進むのだが、宝石店でも日焼けした社長から南米での買い付けを担当しないかと誘われていたのだ。

9月某日 旅から戻ると、編集人をつとめるサウダージ・ブックスのことでうれしい知らせが。ブラジル留学つながりの畏友で写真家の渋谷敦志さんの『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)が第4回「笹本恒子写真賞」を受賞した。
アフリカ、アジア、東日本大震災以後の福島、ヨーロッパの難民キャンプなどを旅しながら、人間を見つめ、人間から見つめ返される「まなざしの十字路」の情景を記録した写真集。《最新作『今日という日を摘み取れ』に代表される……民族紛争、飢餓、難民、環境破壊といった不条理に晒され、生存を脅かされている弱者に寄り添った、長年に渡る真摯でアクティブな取材活動》が評価された。目下、渋谷さんはコロナ禍の中であえて海外に飛び出し取材活動中、受賞の知らせをアルメニアの国境地帯からバングラデシュに移動した直後に受けたらしい。
笹本恒子写真賞は戦前より日本初の「女性」報道写真家として活動し、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館の「The New Woman Behind the Camera」展で作品が展示されている笹本さんを記念して創設。日本写真家協会による新しい写真賞だが、渋谷さんにふさわしいと思う。
というのも、アフリカ諸国など各地で紛争や飢餓から逃れてきた人びとが集うキャンプを取材する渋谷さんは、現場でまず目にするのが圧倒的多数の「女性」の姿であり、子どもたちの姿であることを常々語っているから。写真集からも、そのリアリティは伝わると思う。制作チームである装丁の納谷衣美さん、印刷をお願いしたイニュニックの山住さんに受賞の連絡。バングラデシュの渋谷さんからも、メッセージが来た。互いに遠く離れながらも共に魂を込めて本を作り、本を届ける仲間がいる。そのことの幸せを噛み締める。感謝。

9月某日 前職時代に取りまとめた山尾三省詩集の韓国語訳の企画、着々と進んでいる様子。この話は『五月の風』と『新装 びろう葉帽子の下で』(野草社)の刊行がひとつのきっかけになっているので、本を世に送り出してやはりよかった。翻訳版は前期と後期の作品の選集で、一冊で三省さんの詩業の全体像を見渡せる本が韓国語ではじめて誕生する。韓国語の読者がうらやましい。
ウェブマガジン『PLAY EARTH KIDS』に「“火が永遠の物語を始める時” — 山尾三省の詩の教え」というエッセイを寄稿した。

9月某日 旅の疲れを癒す休日。神奈川・大船にある最寄りの書店ポルベニールブックストアを訪ねると、すばらしい本に出会ってしまった。しいねはるかさんのエッセイ集『未知を放つ』(地下BOOKS)。江ノ島の海岸で昼過ぎから日没まで読書に没頭し、思考と感情を深く揺さぶられたその余韻を味わっている。《婚活、家族、終活、分断、生活……》。地下BOOKSのブログでこの本の目次をみて、ぴんときたらぜひ読んでほしい。内容も文章も本当にすばらしい。介護やケアに関心のある人にもおすすめ。
ちなみに地下BOOKSの第1作、小野寺伝助さんの『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』もよい本だった。

9月某日 大阿久佳乃さんの自主制作冊子『パンの耳』8号を読んでいる。テーマは《焦り、混乱、うわの空》。大阿久さんや地下BOOKの本のほかにも今年はスモールプレスや自主制作で力作がたくさん。

安達茉莉子『BECAUSE LOVE IS LOVE IS LOVE!』(mariobooks)
ぱくきょんみ『ひとりで行け』(栗売社)
小鳥美茂『Sunny Side』(BEACH BOOK STORE)
植本一子『個人的な三ヶ月』
清水あすか『雨だぶり』(イニュニック)

などなど。昨年の刊行だが、児玉由紀子『新しい日の真ん中に』、田口史人『父とゆうちゃん』(リクロ舎)もよかった。夏葉社の島田潤一郎さんによるインディペンデント出版レーベル、岬書店の本もすばらしい。どれも、ことばは個人的でちいさな声を守るもの、ということを信じている人たちの本。

9月某日 今年亡くなった沖縄の詩人・中里友豪さんが主宰した同人誌『EKE』。終刊して一年、追悼の詩文を集めた『EKE』の番外編が届いた。阪田清子さんの装画が美しい。同人で沖縄・那覇の古本屋ウララの店主・宇田智子さんの作品「封筒」から読み始める。中里さんが逝き、その前には与那覇幹夫さんも逝った。琉球弧、群島詩人たちの声を思いながら、中里さんの最後の詩集『長いロスタイム』(アローブックス)をひもとく。
群島詩人といえば、奄美の詩人・泉芳朗(1905~1959)の未発表作品が発見されたというNHKニュース。いつか読めるようになるといいな。

9月某日 韓国の作家で詩人でもあるハン・ガンの小説『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)を読んだ。韋編三絶しているのだが、今回は物語ではなく詩を読むように、ことばそのものとイメージに心を傾けて。半影の世界でひとつ何かがうっすら見えてくると、ふたつ何かが暗がりに隠れるような。心にひっかかりを感じた文の前で何度も立ち止まりながら読み進めると、物語の流れを味わう時とは少し違う印象を抱いた。ほんとうに不思議で魅力的な小説。いろいろな読み方ができるし、読むたびに目の前にあらわれる景色が変化する。
『ギリシャ語の時間』に引き続き、彼女の小説『回復する人間』(斎藤真理子訳、白水社)、『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社)を読了。どちらも集中して読むのは2回目、ハン・ガンの造形する詩的な世界への感銘が一段深まる。

9月某日 そろそろ中秋の名月。月のせいだろうか。ふと思い立って韓国の作家・韓勝源の小説『月光色のチマ』(井手俊作訳、書肆侃侃房)を読みはじめる。ずっとむかしに「海神」という短編小説を読んで、濃密な民俗の空気を感じてその世界に一気に惹きつけられた。『月光色のチマ』は母親の個人史とその背景にある歴史を題材にした長編小説だが、臆面もなく語られる母なるものへの思慕もここまで突き抜けるとすごいと思った。また、東学農民運動の歴史のことなどを知る。
あすからの旅には韓勝源の子であるハン・ガンの本をふたたび。

9月某日 早朝からモノレール、電車、新幹線、地下鉄と乗り継ぎ、大阪の天満橋へ。認知症の人と家族の会大阪府支部が主催する「認知症移動支援ボランティア養成講座」に2日間参加した。元看護師の哲学者・西川勝さんのお誘いで。
クリエイティブサポートレッツの理事長、久保田翠さんのお話しに感銘+衝撃を受けた。静岡・浜松で芸術や文化という方向から、障害福祉サービスという枠組みを超える人間と人間のおつきあいの場を創造する久保田さんの名言、《かたまって、やらかす!》。そのほか講師陣の議論にもみっちり学ぶ。となりの席の受講者が休憩中、島田潤一郎さんの『あしたから出版社』(晶文社)を読んでいて、うれしい気持ちになった。
本作りに関わる者として個人的には、支部代表の神垣忠幸さんが認知症ケアとの関連で『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著、集英社インターナショナル)を紹介したところで、「おお!」と声を上げてしまった。これは必ず読まねば。
講義のあいまに、淀屋橋のCalo Bookshop and Cafe を訪ねる。世界文学の棚に、サウダージ・ブックスから刊行した「叢書群島詩人の十字路」の2冊『マイケル・ハートネット+川満信一 詩選』『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』が並んでいるのを発見。いまや版元品切れの貴重な本。
お店にはインドネシア語のアートや文学の本、Zineがいろいろあって興味を引かれる。ギャラリーでは森栄喜さんの映像インスタレーション展「シボレス」を開催していたので鑑賞した。

9月某日 認知症移動支援ボランティア養成講座を受講後、桃谷にある大阪市認知症の人の社会活動推進センター「ゆっくりの部屋」を訪問。
このあたりは、子が生まれた病院が近くにあるので懐かしい。布施から鶴橋まで毎日のように自転車を漕いでいた日があったなあ、と。病院への行き帰りに高坂書店やあじろ書林にかならず立ち寄り、金芝河や高銀などの韓国文学や在日文学の本を熱心に探し集めていた。このあたりが韓国文学のマイブームのはじまりだろうか。あのころ、あじろ書林の棚で赤と黄色の『宗秋月詩集』の古本を発見し、子の未来と土地の過去を思いながらなにか切実な思いで彼女の詩のことばをむさぼり読んだのだった。
「ゆっくりの部屋」では、まちライブラリーを開設している。さまざまな本のなかに、西川勝さん『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)や砂連尾理さん『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)など、自分が編集を担当した本も。
スタッフのみなさんとおしゃべり。手羽先と大根のしょうゆ煮と味噌汁、手料理のお昼ごはんをいただきながら。「ゆっくりの部屋」ピアサポーターの元永まさえさんがSOMPO認知症エッセイコンテスト後期優秀作品を受賞されたとのこと。題して「目標は認知症バレエ団1期生」。これはほんとうにすばらしい文章なので、「ゆっくりの部屋」のウェブサイトからぜひ読んでほしい。
https://sites.google.com/view/osakayukkuri/home

元永さんの文章の印刷されたコピーをいただいて、定宿への帰り道、なんどもなんども読み返した。

9月某日 この数日間で収集した認知症ケアに関する山のような資料やパンフレットに目を通しながら、Caloで購入した和合亮一さん『Transit』(ナナロク社)を読む。よい詩集。そして旅は続く。こんどは、京都へ。