製本かい摘みましては(167)

四釜裕子

〈印刷物のパッケージとしての書物〉、その製本様式が日本で大きく転換したのが19世紀後半から20世紀初頭。洋装本が現れて定着するまでを、大妻女子大学文学部教授の木戸雄一さんが昨春からnoteにまとめておられる(https://note.com/kidoyou/)。〈書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などを照らし合わせつつその変遷と展開を跡付けてみたい〉とのことで、自前の古書の、例えば破れからのぞき見える素材の細部やかがり方がわかる写真、各地の図書館がネットで公開している画像へのリンク、またこれもご自身によるものなのか、構造をわかりやすく図解した手書きのイラストなども添えてあって、いつも更新を楽しみにしている。

〈洋装本の外形の記述を本格的に始めたのは出版広告だった〉そうである。明治6年、「東京日日新聞」(1873.12.17)に出された『医療大成』の広告にある「西洋仕立ニテ簡便ナル美本ナリ」がそれで、「簡便ナル」という表現が気になる。noteには『医療大成』の写真もあって、装飾もなくて確かに簡便、だけどそれまでの和装本に比べたら簡便ではないと思うし、まして初めて「洋装本」であることを売りにするなら「堅牢ナル」とかでもいいように思うけれど、本格的なものではないですという正直がうかがわれる。いずれにしても最初は見た目について述べていたようで、〈少なくとも広告レベルでは、西洋から来た新しい造本(印刷を除く)の呼び名として見た方が妥当であろう〉と木戸さんは書いておられる。

製本家で書籍修復家の岡本幸治さんの仕事にもたびたび言及されている。木戸さんが最初のほうでリンクを張って紹介している岡本さんの講演(1997)録「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」の中から、以前「製本かい摘みましては 63」でも触れたけれども岡本さんの徹底的な探偵ぶりのほんのさわりをここでもちょっと紹介しておこう。

岡本さんは佐竹曙山が残した『写生帳』を修復したとき〈日本最古の洋式製本の事例〉と思ったそうだが、その後『独々涅烏斯草木譜』の修復経験から、〈構造的なことをきちんと理解した上のことではなくて、その場での真似事に過ぎなかったのではないかと思う〉に至る。『独々涅烏斯草木譜』の調査により、これは〈洋式製本の構造をまねしているだけではなくて、表紙を動かすとこのように力がかかる、だからこうして補強しなくてはいけない、ということを製本者は理解している〉と確信できたからだ。例えば表紙布の裏打ちの仕方や布の角の仕上げ方に和装本の技法が見られる、表具師が行う打ち刷毛の跡が和紙に見えるなど、〈和装製本の感覚〉が次々に現れたというわけだ。科捜研には文書分野があるそうだけれど、マリコ(沢口靖子)さんが岡本幸治さんを訪ねる『科捜研の女』を見てみたい。

和装本が洋装本にとって代わられようとする時代にもし生きていたとして、洋装本に憧れを持ち、手持ちの和装本をいじくりまわして試してみようとするならば、やっぱりまずは薄くて硬いもので全体をコの字に包もうとするだろう。そして棚に立て、指で抜き、両手に持って広げ、ページをさらさらめくってみる……。理屈抜きでまずは見た目に走るしかない。では硬いものをどう手に入れるか。周りにある紙は柔らかいものばかりだろうから、ノリでベタベタに何枚も重ねて貼って重石をのせて固めるだろうか。あるいは牛乳パックで紙を作るような塩梅でチャレンジする? あるいは板? いや、板を薄くするのは無理だろう。木戸さんの連載によると、「ボール表紙本」の最初はやっぱり和紙を重ねてプレスして使っていたようだ。これが1871年とか1872年頃、やがてストローボードやミルボードなる輸入板紙も見られるようになるという。

東京の荒川区南千住の小さな公園に「板紙発祥の地」の碑がある。紙を貼り合わせるふうのオブジェはその構造をあらわしているのだろう。1890(明治21)年8月10日、秀英舎の創業者の一人でもある佐久間貞一がこのあたりに東京板紙株式会社の工場を建て、イギリスから抄紙機械を輸入して技師も呼び寄せ、稲わらを原料に板紙の生産を始めたそうだ。佐久間は、洋装本による『改正西国立志編』の印刷製本を請け負うにあたって板紙製造の研究を開始。最初はもちろん手漉きで、明治10年8月上野公園で開かれた第1回内国勧業博覧会に国産初の板紙を出品したそうだ(『大日本印刷130年史 資料編』2007)。機械化して国内量産が始まるまでここからおよそ10年、『改正西国立志編』の表紙ボールは、どのあたりから国産品になったのだろう。ちなみに「朝野新聞」(1876.11.5)に出された『改正西国立志編』の広告には〈活字版にて全部一冊に纏め西洋仕立に致し来る〉〈旧日本の儘を活字版西洋仕立にて発売せんとする〉とあり、活版+西洋仕立が強調されたようだ。

木戸雄一さんのnoteの連載は2021年9月で15回を数える。ここまでで実は一番おもしろく読んだのは、日本の洋装本が米国版の教科書をおおいにまねしてモデルとしたことを解き明かしていくくだり。いわゆるルリユールだけではなくて一般書籍の洋装本化もヨーロッパがモデルとなんとなく思ってきたけれど全然違った。当時の実物を見たことがなかったし、まさかテープを用いた平綴じとか、知らなかった。木戸さんはことごとく残された実物にあたって検証を重ねて証拠を見つけていく。日本の洋式製本化は明治の初めに印書局に招かれたパターソンさんが伝授したことに始まると聞いてきたけれど、木戸さんはそれも同様の検証のすえ、〈1873年にはすでに民間で国産の洋装本を製作できる職人や工房が活動していた〉と断言している。このあとの連載、そしてやっぱり写真や図版たっぷりでの書籍化が楽しみだ。