ナメクジの世界

イリナ・グリゴレ

ある朝、玄関に行くと思わず身体の奥から大きな声が出てしまった。音が聞こえるかどうかわからないが「どうしたの? 何の騒ぎ?」という目で見られた。立派なナメクジが私の真っ先に立っていて動けない。虫だとすぐ逃げるのに、この出逢いでは私の方が逃げるべきかどうかとすこし迷った。なぜかというと、大きくて、太くて、顔立ちまで素晴らしいナメクジだったから。「この家の主はあなたか」と聞こうと思ったぐらい、空間の感覚を失った。態度はともかく、立派、男前というか「こんなデカイ私を見て欲しい」というか、じっとして動かないし、私の方が邪魔扱いされた気がした。感覚で言えば、アリスが芋虫と出会うシーンと言えば通じるかもしれない。自分の大きさを忘れてしまうほど、自分が小さくて、ナメクジが大きく見えた。

この家には最初から子どもと共にさまざまな生きものが住んでいる。ゲジゲジもペットとして娘が可愛がってきたし、家をジャングルにしたい自分がさまざまな植物を植えて、増やして、その土からさまざまな生き物が出てくる。その一人はナメクジ。家にいたい気持ちもわかる、家の外では石の下に天敵のコウガイビルが発見された。大きかったらしい。黄色かったらしい。あとはスズメバチも昨年はミントの花に寄ってきて危なかった。なので、ナメクジがカタツムリの殻を捨てて進化した理由は、家に住めるからだったかもしれない。自由に動けるからではない。そのぐらい、この家を気に入っていて、私の方はなぜここにいるという顔をされた。一瞬、ナメクジの目から見えた自分の存在が消えた。なぜ、ここにいる? ナメクジみたいに綺麗なキラキラした跡も残せないのに。

梅雨明けの東北。夕方になると同時に違う方向から毎日のようにネプタ練習の太鼓と笛が聞こえ、そしてその音に負けない蛙、蝉、鳥たちの声。蚊取り線香の匂いと公園のハスの香りで落ち着くけど、お祭りの前の雰囲気が家の植物までわかっているみたいで、新しい青葉がみえる。ネプタの時期は、昔は子供が作られる時期でもあった。鯵ヶ沢の海開き、メーロンロードのスイカとキャンプ、バーベキュー、ホームセンターから買った花火、短い夏の日々が忙しくて、ワクワクであっても線香花火のように最後にポンと落ちて消えてしまう。8月の中旬からお盆のお迎え火と送り火が町と周りの村に見えたらもう冬だ。ナメクジの跡が見えなくなり、この家ごと殻に戻ると想像しながらカーラジオから好きな番組、「音楽遊覧飛行」が流れて、アルジェリア出身のD Jがアルジェリアの音楽をアメリカで流行らせたという。

私は日本の音が好き。世界で流行らせたい。お祭りの時、交差点に立つと色なところから同時に聞こえるお囃子の音がばらばらと世界を再構築する。そんなインスタレーションを作りたい。日常からいろんな音をサンプラーで集めて、聞こえないナメクジのために(生き物の生態に詳しい長女によればナメクジには音が聞こえない)作品を作りたいと思う。電動でも伝わるかもしれないし、どういうふうに世界を見ているのかナメクジにならないとわからない。なめくじが文書を書けないのは一番残念だと思う。でも長女によれば書けるので、ナメクジの文書が以下に続く。長女はナメクジの心の中を明らかにするらしい。

「僕はナメクジです。昨日の夜、〇〇ちゃんという女の子に会いました。僕のお家を一所懸命に作ってくれました。そして帰ってしまいました。次の時に来てくれました。また僕を見つけてくれて、僕は岩の隙間に隠れていたら〇〇ちゃんが新しいお家を頑張って作ってくれました。また来て欲しいよ、でも僕は突然〇〇ちゃんたちが家づくりの途中で、逃げてしまいました。それで〇〇ちゃんたちが探しても僕の姿を見せませんでした。そして〇〇ちゃんたちが帰ってしまいました。」ナメクジより

ナメクジの文書を文学作品として評論したら、進化の中では殻を失ってしまったノスタルジーが残っているみたい。もっと言えば、性別がないナメクジにとって、家父長制のノスタルジーも見られるかもしれないが、最後に女の子から逃げていることは色んな解釈ができ、ミステリアスな雰囲気を残すため解釈をしない。確か、いろんなパースペクティブから世界を見ないと分からないことたくさんあると思う。生き物の気持ちと声をまだわかっている娘たちにもっと聞いて見たい。

人間と同じように、ナメクジによると思う。普遍的なナメクジがいない。S Fアニメのように受け止めたらもしかしたら、ナメクジは「これは俺の家だ(お前を含めて)」と言われたように思われるかもしれない。未来ではどうせ、この家を自分のものにする、核を生き延びて、この日のナメクジの先祖代々が誰も食べられない放射線たっぷりの庭のイチゴを吸って生き延びるのだ。未来のナメクジ社会を家父長制に戻さなくていいし、家(殻)はないままでいい、ノマドの方がいいと思う。漫画家並みに上手な絵を私の横で描いている娘のイノセントな目を見ると考えすぎたことに気付かされる。娘の絵では、虹色スカートの女の子は眼がキラキラで、誰かを抱っこしようとしている腕を広く広げて、素敵な笑顔にほっぺたがピンクで、髪の毛にピンク色の可愛い動物がいる。今日は公園で見た野うさぎの可愛いバージョンが描かれている。この明るいオーラの女の子が未来の女の子に受け継がれてほしい。ナメクジを含めた世界の多様性をもっと疑わずに見たい。

町の音の話に戻ると、私が子供の時のルーマニアの田舎の音は野良犬の声だった。野良犬は群れを作って、世界の終わりの背景に近い状態で街を支配していた。誰が誰を支配していたのか曖昧なところだが。学校の帰りに野良犬の群れに追いかけられたりしてすごく怖かった。どこの道を通っても団地の間から犬が出てきて、吠える。一番危ないのは母野良犬で、自分の子供を必死で守ろうと人が近づかないようになんでもする。確かに、田舎では子犬が産まれるとその日のうちに母親犬の元から離して大きな袋に入れ、袋を縛って川にそのまま流したり、村はずれの森の片隅に捨てたりしていた。

人間のやることにはもう驚かないけど、夕方、森や川のそばを通ると子犬の鳴き声が聞こえて心が折れそうになった。車に轢かれた小さな子犬と猫の死体が完全に乾燥してアスファルトにぺたんこになるまでどこの道にもあった。それでも生き残る子犬がいて野良犬の社会を作っていたので街の中は彼らの声で賑やかだった。人間とうまく付き合う者もいれば、人間に殺される犬も、群れから離れて一人で生きる犬もいた。子供からみれば、いつ襲われるのかわからない状態で、団地の前で遊ぶ時も、駅や学校まで行く時も、その辺をなわばりに暮らしていた犬に用心する。襲われたら、パンでもやれば逃げられると思ったけど彼らは大体ゴミの周りに集まっていたので腹がそんなには空いてない。ここは、蜂と同じように、刺激を与えず、必死で落ち着いたふりをして、そっと、そっと、通り過ぎる。野良犬の方こそ相当人間という生き物が怖かっただろう。何をされるか分からないし、いつも犬の死体があったのは、誰かに殺された後だったから。

それでも街は命に溢れ、家の中は蚊とゴキブリで溢れていた。一年に一度、私たちが住んでいた団地から遠くない空き地にサーカスも来ていた。とても痩せているライオンと象を見て、生ゴミを食べる野良犬の方が太っていると感じた。いつも野良犬の群れで賑わっていた空き地に急に大きなテントが現れ、動物と人間の汗の混ざった匂いがして、ショーの音が聞こえた。テントの前で美味しそうな林檎飴を売っていたが、母はこの林檎飴はおしっこしているバケツ(昔のルーマニアの家はトイレもお風呂もないため、夜は玄関にバケツか樽を置いてそこで用を足す人もいた)で作られるからと言って買ってくれなかった。サーカスのテントが何日後もう何もなかったように消えてしまうと、また空き地に野良犬の群れが現れ、残されたゴミを食べて、すべて日常に戻る。

野良犬といえば、Andrea Arnold の10分の映画、『Dog』を思い出した。私が育った地方の街と同じ雰囲気で暮らす女子高性は、母親に叱られながら短いスカートを履いて彼氏とデートへ出かける。彼女はストリートで見かけるカップルを羨ましそうに見ていた。こういうシーンを入れるのが、Arnold監督の上手いところ。ただ、恋の温かさを求めている若い女性の心の奥までにカメラが入る。デートといっても彼は彼女のお母さんから盗んだお金で大麻を買って町外れで一緒に吸うことしか考えてなかった。麻薬を買った時も、部屋に集まっていた若い男性が彼女の短いスカートをべとべとした視線で見ている。脳が薬でやられていた顔の男性がものすごく気持ち悪く写っている。

草むらはゴミだらけで、近所の子供が遊んでいたのを彼氏が追い出して、捨てられたソファの上で行為をし始めようとしたところ。どこからか現れた痩せた野良犬が下に置いてあった買ったばかりの麻薬を食べてしまった。そのシーンを見て彼女は夢中になっていた彼を無視して少し笑った。なんで笑うと聞かれると犬を指していたら、彼がしょんぼり。ナメクジに塩だ。怒って、彼女をソファにおいたまま、犬を強く足で叩き始める。犬は死ぬ。女の子の目の前で。行為の途中で犬が殺される、あまりにも不思議な展開に彼女はびっくりして逃げる。恋のようなものを求めた最初の経験はトラウマにしかなってない。犬を殺すことによって彼氏の本質が現れた。急いで、家に戻ると、先ほど怒っていた母親が待っていて、すぐに彼女を叩き始め、暴力を振るう。彼女は大きな叫び声を出して部屋に閉じこもる。家に帰っても本質的に暴力である。この映画は10分しかないにもかかわらず、さまざまな悪い条件に攻められた人間の方が野良犬よりよっぽど危ないとわかる。

スライムに入れるラメを発見した次女が家中に散らかして、床と階段、ベッドと人の身体までにキラキラしたラメが残っている。何百ものナメクジは家中歩いて跡を残したとしか思えない。